3 姫街道 1 見付 見付宿 一言坂 熊野の里 市野宿 小池 静岡 20 km 2005/01/10
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東海道の脇街道、姫街道を歩く事にした。江戸時代の文献には、姫街道という名前は無いそうだ。本坂越え、本坂道と言う。厳しい新居の関所を避けて、婦女子が多く通ったとの事で、街道筋の人々が、密かに、姫街道と呼んでいたらしい。
鎌倉時代からの道だ。 |
兜塚の名は、徳川家の武将本多平八郎忠勝がこの円墳の松の木に兜をかけたとか、古墳が兜に似ていたとか言われているようだ。 |
この一言坂付近にて元亀3年(1572)、三方原の前哨戦となる武田軍と徳川軍の戦があった。戦いに敗れた徳川軍は浜松城を目指して敗走したが、一言坂で追いつかれ再び合戦となった。徳川軍の本多平八郎忠勝が奮闘し、火を放って浜松へ引き上げたといわれている。 「家康に過ぎたる物が二つある。唐の兜と本夛平八」 |
一言坂を過ぎると、田圃の中の道。江戸時代は、細い道だったらしい。御姫さんの篭はどの様にして通ったのかなと思う。 |
謡曲、長唄、平家物語に登場する熊野御前は、池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生れている。その美しさゆえ、遠江守であった平宗盛(平清盛の息子)の寵愛を受けて都に上ることになる。 その後、郷里に残した母が病気になったとの知らせを受けたが、郷里に帰ることを許してもらえなかった。宗盛は傷心している熊野御前の心を慰めようと、清水寺の花見に連れて行く。 熊野御前は清水寺の満開の桜をみて、「いかにせむ都の春も惜しけれど なれし東の花や散るらん」の一首を宗盛に捧る。 この歌に心うたれた宗盛は、熊野御前に郷里に帰ることを許した。熊野御前は必死に母の看病をしたが、その甲斐もなく母は亡くなってしまう。また、宗盛もその後、壇ノ浦で捕まり、近江で殺されている。 一人残された熊野御前は生涯、尼としての生活に入るが、33歳の若くして生涯を終えた。なお、「ゆや」という名は、父重徳が紀州熊野権現へ祈願をかけ授かったので、熊野(ゆや)という名が付けられたと言われている。 |
一号線の天竜川橋、バイパスの新天竜川橋とも、未だに、歩道がない。車を避けながら、渡る。なお、東海道の私は、この橋辺りだったと言う。 天竜川の治水に貢献した金原明善の生家。左手には金原家関係の資料を展示している明善記念館があるが、正月休み。 |
浜松の東、安間で、東海道と別れ、北上。市野宿を通り、小池一里塚を通り、遠州鉄道自動車学校前駅で電車に乗った。
市野宿は昔の宿場と思わずに通過。一里塚も見損なった。 |
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