4 姫街道 2 小池 気賀宿 引佐峠 三ヶ日宿 静岡 30 km 2005/02/16
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浜松駅と遠鉄自動車学校前駅。 |
国学者杉浦国頭が著した「曳間拾遺」には「うとふ坂」とあり、「本坂の大路にして、有玉の村より三方か原に登る坂をいふなり、その文字は宇藤と書けり」とある。 |
向こうに、松並木が見える。ここから、3kmほど、左側に松並木が残っている。 |
追分から、ここまで、何もない寂しい街道だったそうだ。この店は、近所の人達の寄合所であり、また、店の前には、山桃の木があって、馬方は馬を留め、休息した。 今日も商売をしている。200年以上続いている。凄い。 |
25000分の1の地図を見ると、真っ直ぐな道が直角に交差し、造った区画になっている。人が開墾した跡なのだろう。 |
現在の松は二代目。 また、ここには松島十湖の句碑「別るるは また逢うはしよ 月の友」が建てられている。意味は、「月見の友との別れは、又巡り会うきっかけよ」と説明があった。 |
1711年建立と説明があった。 |
千日堂。江戸時代、老ヶ谷原山開発の褒賞として、建てられた物だそうだ。 現在も、月、一回の念仏講が行われているとの事。 |
細江町の上水道の塔の横に、姫街道があった。 |
服部小平太は、桶狭間で活躍した信長の家来だったが、後、家康に付き、この地を治めた。元々、ここは、今川の土地であり、土地の者に恨まれていた。 独りで、この辺りを巡回していた時、何者かに襲われ、ここで死んだ。近くに、戒名のある墓もあるとの事。 この山道が、姫街道であり、江戸時代のままだろうと思われる。 |
服部小平太のお寺であったが、明治に入り、廃された。石段、庭の一部、石仏が残っているそうだ。見に行かなかった。 |
細江町ポケットパーク。 |
建物の一部が民家として残っている。 |
それ以来、江戸椎と言われた。当時の名残は、この木のみだそうだ。 |
樹齢500年以上の楠があった。 |
銅鐸が沢山出た町。関所の残っている資料、昔の畳表、蚕、漁などの展示。 |
獄門畷(ごくもんなわて)。徳川に抵抗し、2000人が籠城したが、負け全員が殺された。大久保彦左衛門の書いた物に、「男女ともになで切りにした」と在るそうだ。 |
気賀6代近藤用随公が、地震の後遺症で、百姓が出来なくなった時に、、畳表にする、藺草(いぐさ)の栽培を広めた。昭和30年頃から、みかんなどに替わり始め、50年代には、栽培されなくなってしまった。 |
城が徳川家康によって落城した時、城将の一人山村修理がこの地まで脱出して、燃え落ちる城を見ながら切腹したと言われる。 里人がこの地に遺体を埋め霊をとむらうため松を植えたと伝えられ、この松を修理殿松と言う。 |
今でも、今川を慕う人達が居て、丁寧に祀っている。負けた今川は表舞台から消え、余り目に付かないので、気が向かなかったが、このような人達が居る事に始めて気が付いた。 修理殿松から、山村修理が見たであろう、気賀の町を見る。 |
又、登りの道。 |
景色の良い所だ。道は山道となるが、これから、引佐峠に向かう。 |
このお堂は江戸時代の再建で、堂は宝形造り、前半分が板張りの外陣、戸がはめられていない。ぬれ縁とかわりない。後ろ半分が内陣で薬師像が安置されている。薬師堂の横には、岩根の村人達が建立した秋葉山常夜燈がある。 |
このように仕上げるのが、今のやり方なんだなと思う。 |
ここで、お姫様がお茶を飲んだんだそうだ。 |
歩いて登ってきたと言ったら、驚いていた。 |
「細江町と三ヶ日町の境にあり海抜200mの峠です。姫街道では、本坂峠につぐ難所であり、また景勝の地でもある。昔は峠にも茶屋場もあったらしい。」と案内があった。 標高200mは、もろの200mだ。 |
象鳴き岩:外国から献上の象が将軍お目見えのため、京都から江戸へ下る途次、船で渡る今切(浜名湖)をさけて姫街道を通った。象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、村人はここを「象鳴き坂」と付けた。当時の書物によると象は牡であった。 右:石投げ岩:旅人が、この岩に石を投げて、無事を占い祈ったと言う。 |
一敷の集落の西の入り口。案内の看板がなかった。 |
ここは、江戸にいる領主大谷近藤家に代わって事実上領内を支配した大野家の屋敷で現在も子孫が居住している。 大谷代官屋敷から南約100mには「安形伊賀屋敷跡」がある。戦国末、佐久城主浜名氏の重臣安形伊賀守正道の居住した地である。 |
大里(おおり)峠。昔は、雨が降ると川となる、小さな難所だったそうだ。 |
昼は、1時間に1本。40分程待ち、17時の気動車に乗って、新所原駅へ向かった。 |
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