7 金谷 島田 藤枝 岡部 丸子

28 km    1995/09/15        

西行・一休など    東海道へ


 

 金谷宿も大きな木製看板が立っていた。いよいよ越すに越されぬ大井川。今は、約1kmある1号線の鉄橋を渡る。金谷側は旧東海道が堤防に突き当たっているのみで、何も無かったが、島田側は町並みが残っている。

 島田は高校まで住んだ古里であるが、東海道の宿場町の認識はほとんどなかったので、この町並みもそのように見ることはなかった。今回、改めてみて廻った。

 川合所(かわかいしょ)、平屋建ての建物。川越の料金を決めたり、川札を売った役所だそうです。

 水の深さで値段が変わり、帯下通(おびしたどうし 足までの深さ)で肩車川札1枚(川越人足1人分)1000円だった。これ以上の深さの時は、肩車でも補助に1人付いたので、2000円。脇通を越えると川止めとなった。深さを誤魔化して、悪いことをしたようです。

 人足の集まり場、川札の換金所、食べ物屋が並んでいた。昭和40年代に復元整備された。又、近くに島田博物館が出来ており、いろいろ集めてあるようです。

 朝顔の松。朝顔日記の盲目の娘が川留めに遭ったが、奇跡的に目が治るくだりがあり、その目で始めて見た松がこの松だったそうです。江戸で大評判となったそうです。地元では、河畔の松を「朝顔の松」と言った。商売上手でした。

 藤枝の宿を過ぎ、岡部の宿に着く。1号線は、すでにバイパスが出来、岡部の1号線は静かだった。

 西行の笠懸松と西行の弟子、西住の墓があった。西住は岡部で病気になり、西行に貰った笠に辞世の歌を書いて亡くなった。その後西行がここを通り、死んだこと知って悲しんだ。

 宇津谷峠には、明治のトンネル、昭和のトンネル、現在のトンネルの3つある。旧東海道は明治のトンネル際から峠に掛かる。現在は、とても苦労した峠とは思われなく、簡単に、宇津谷の 集落に出た。

 秀吉が小田原攻めの時、軍隊を通すために、造った道とのこと。多分、拡張整備したと思う。それ以前、伊勢物語、十六夜日記の宇津谷峠は「つたの細道」である。何の理由が有ったか判りませんが、ルートが変わってしまった。かえる理由が有ったのでしょう。
 宇津谷越えは、道路が見違えるほど立派になり、歩くには情緒がないが、まもなく旧道が残っている。その旧道に面して、広重の丸子の宿にあるような、かやぶきの「とろろの丁子屋」がある。麦飯に味噌で溶いたとろろを掛けたもので、実にうまい。お変わりをしたくなる。久しぶりの麦飯である。

 安倍川駅に出る。

1995.11.25

 とろろの丁子屋で、麦飯を食い、吐月峰を尋ねた。また、鎌倉街道であった、蔦の細道を辿り、宇津ノ谷峠を越えてきた。  2003.7.12追記
 吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は、今川時代の連歌師の宗長が1504年、草庵を結び余生をおくった所。
 当時は、禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身も京都の銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしたと言う。庭園は国の名勝・史跡に指定されており、観月の名所としても知られている。

  「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」 芭蕉

 また、小田原攻めの時の武将、細川幽斉の歌碑もあった。

  「人数には誰にするがの丸子川、けわたす波は音ばかりして」 細川幽斉

 この歌は、つわ者共が丸子川を渡る様を音を立てて大勢渡って行くが、と戦いの不安の一面を覗かせた歌と言う。

 蔦の細道を丸子から登る。標高210m、道のり1.5kmの峠。昔は、安倍川を渡ると山に入るから、相当に長く、山が崩れた道を登り、漸く峠に着いたのだろう。

 伊勢物語第9段に

 「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つた、かへでは茂り、物心ぼそく、・・・」。

 「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」 人にも逢わないし、夢でも逢わない。

 「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらむ」 時節を知らない富士山だ。とある。

 この文が、蔦の細道の名の起こりだそうだ。峠に歌碑あり。富士山はかすんで見えなかった。

岡部側の登り口。写真のトラックの道は、国道1号線。
 

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