6 見付 袋井 掛川 日坂 金谷

30 km    1995/09/09        

西行・一休など    東海道へ


 

 見付:上方より下りに、この所より始めて富士山を見る故、見付という。

 その見付宿は、本陣跡、問屋場跡、高札場跡などの木製の立派な案内看板があったが、町並みは、江戸の面影は無い。

 街を外れた、見付の東端、三ケ野の林の中の山道に、江戸の古道の碑と共に鎌倉街道の石碑があった。突然の鎌倉街道であった。 この碑を見て、鎌倉街道を歩いてみようと思ったことを、思い出した。(2002年、鎌倉街道を歩いています。)

 袋井宿の手前に木原畷(きはらなわて)の古戦場。武田信玄と家康の三方が原合戦の前哨戦が行われた場所だそうです。 この宿の町並みに、昔の気配は無いが、宿の細かな説明看板があった。

 掛川宿。一里塚がきれいに整備されていた。この辺りが東海道の真ん中のようだ。何箇所かそのような説明があった。

 ただ、歩くのみである。新居宿までは、多少の変化があったが、それ以降、あまり特色の無い町並みでした。

 日坂宿は、昔のままの町並みのようですが何も無い。(2001年、少し整備され、本陣跡、川坂屋(問屋で脇本陣)の公開、高札場の説明などあり。本陣は小学校となり、立派な門があった。)

 これから有名な小夜の中山。峠に登り始める。歌碑が沢山あった。

 芭蕉、壬生忠岑、藤原家隆、紀友則、西行「年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり佐夜の中山」 、阿仏尼「雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよありあけの月」

 鎧塚は、鎌倉末期の「中先代の乱]の時、北条の一族が足利に討たれた所との説明あり。その鎧の塚。

 夜泣き石のあるお寺、久延寺。

 昔、女が、襲われ殺されたが、傷口から子が生まれ、女の魂魄がそばにあった丸い石に乗り移り、夜毎に泣いた。村人は、その石を夜泣き石と言った。子は久延寺の和尚に飴で育てられた。その子は成長し、母の仇を見つけ、仇を討った。その後、弘法大師がこの話を聞いて、石に同情して、仏号を刻み立ち去った。

 今、1号線の際にも、夜泣き石として、同じような丸い石が置かれている。

 久延寺の際に、水飴を商う茶店があり、おばーさんが一人で頑張っていました。 (最近、尋ねた所、戸が閉まり、誰もいなかった。どうしたのかな)

 阿仏尼も泊った、間(あい)の宿、菊川宿。東海道では、間の宿は、普段は旅人は泊めなかった。大井川の川止めの時、金谷宿の許可があれば、その時泊める事が出来た。との説明があった。

 承久の乱の藤原宗行(どんな人か判らなかった)の歌碑、正中の変の日野俊基の歌碑がある。この人達も鎌倉幕府に楯突いた人、勿論殺されている。楯突く毎に、朝廷、公家達の旧勢力、荘園などの旧体制が音を立てて崩れていった。その時代、私の祖先は、どうしていたのか、全然、判らない。

 東海道の坂道は、石畳であったらしい。きれいに復元されていた。

 武田勝頼の時代の最前線の城、諏訪原城址があった。牧の原台地の一角に、深く堀を掘り、菊川方面を見下ろす位置にある。信長以降は、必要の無い城となった。

 金谷に下る。

 

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