20 国府津 鴫立庵 小淘綾浜 大磯 平塚 相模川橋脚 藤沢 遊行寺 戸塚 権太坂 保土ヶ谷 神奈川 川崎 川崎大師 品川 泉岳寺 日本橋 両国 江戸東京博物館 神奈川 東京 101 km 2008/09/04〜2008/09/07
|
9月4日(木)
3泊4日の東海道歩き。国府津から日本橋まで。何とか天気は持ちそうだ。荷物は、遍路の時に同じ もの。 |
9時、国府津駅出発。
海側に、1号線バイパス。 袖ヶ浦。自動車のナンバープレートにある名前。 |
前川に、「従是大山道」の道標。
西からの大山(おおやま。大山と言って笑われたことがあった)への道。 川匂(かわわ)の1号線。 |
残っている旧道の、押切坂に、一里塚。18里。「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わったという。
昔は海がよく見えたという。
|
梅澤橋の欄干のみあり。よき茶屋があったそうだ。 |
大磯の国府新宿に六所明神がある。
相模国の総社、六所明神を中心にして行われる祭礼が国府祭(こうのまち)。 その由来などの説明。
|
国府本郷に一里塚。17里。
不動川の旧道の本郷橋。 |
大磯城山公園。 |
伊藤博文の別荘、滄浪閣(そうろうかく)の跡。 |
鴫立庵(しぎたつあん)。
西行法師が、「こころなき 身にもあわれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」と、この地で詠んだ。 江戸時代初期、俳人崇雪が、西行を慕って大磯・鴫立沢のほとりに草庵を建てた。 その後、俳人の大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し、鴫立庵と名付け、第一世庵主とる。 |
京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つという。
大淀三千風 在庵十三年 歌碑句碑があるらしい。 鴫立し沢辺の菴をふきかえてこゝろなき身のおもひ出にせん 鴫たってなきものを何よぶことり |
円位堂。西行法師の像があるという。
法虎堂。 |
西行歌碑 佐佐木信綱筆。
こころなき身にもあわれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
西行銀猫碑。 |
佐佐木信綱の歌碑。 こゝろ今もいこひいまさむ波のおと松風きよきこの海そひに
歌碑、句碑群。 全部で82基の石造物があるという。 |
芭蕉句碑 芭蕉翁 四時遺章 はこねこす人もあるらしけさの雪 春たちてまだ九日の野山哉 みのむしの音を聞に来よ草の庵 日のみちや葵かたむく皐月雨
大磯比翼塚。 |
湘南発祥の地 大磯 の石碑。
鴫立庵の隣にあった。鴫立庵にも、見付けなかったが、古い時代の湘南の字の入った石碑があるらしい。
|
小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)。
風光明媚の地であった。西行は、小淘綾ノ浜の鴫立つ沢の歌を詠んだ。 |
新島襄終焉の地 石碑。
同志社大学設立に奔走していたが、病にかかり、大磯百足屋旅館で、四十七歳で亡くなった。 |
大磯の東海道。
江戸見付。 |
大磯、化粧坂の一里塚 16里。
虎御前化粧井戸。 |
花水川の右岸、大磯側に、麗(こうらい)山。
高来(たかく)神社がある。渡来人の神。 七世紀、高句麗が滅び、ここ大磯に上陸を果たした。7月の祭りには、その面影を再現させるという。化粧井戸も高句麗に関係あるとも言う。 |
平塚本陣跡。
平塚馬入(ばにゅう)の一里塚 15里。 |
相模川、馬入川とも。
お寺の前に、「山門不幸」の立て札があった。帰って調べたらば、坊さんが亡くなった時の、死亡通知という。 |
相模川橋脚跡。
関東大震災の際、鎌倉時代の橋脚が浮き上がったという。 説明板があった。 橋脚は、直径約60センチの檜の丸材で、10本、橋の幅は約7メートルあったと推定されており、当時は全国有数の大橋であったと考えられる。 |
南湖(なんこ)の左富士。左富士は、静岡吉原とここの2箇所という。 江戸から上る時、東海道は、茅ヶ崎、茶屋町から下町屋に向かって右にカーブしている。その間にある、南湖、鳥井戸橋に立つと、今まで右側に見えていた富士を左側に見ることになる。 茅ヶ崎、十間坂の東海道。 |
9月5日(金) |
茅ヶ崎一里塚 14里。 |
信号左が、大山街道。 大山参詣ルートとして、もっとも知られていた、藤沢四ツ屋から入るここ。 おしゃれ地蔵。 願いが叶うと白粉を塗るという地蔵。形は、道祖神。 |
時宗総本山 遊行寺。
正式な名は、清浄光寺(しょうじょうこうじ)。 13世紀の念仏の、一遍上人のお寺。14世紀、4代呑海(どんかい)が開いた。 花の名所。 |
境内の大イチョウ。 |
藤沢敵御方(てきみかた)供養塔。
室町時代、上杉氏憲が足利持氏に対して反乱を起こしたが、氏憲は敗れた。 この乱によって両方に死傷者が多く出たので、遊行十四代太空上人は、近在の人々と敵味方両軍の傷ついた人たちを収容して治療を行うとともに、戦没者を葬り、敵味方の区別なく平等に供養し、供養塔を建立してその霊を弔った。 |
遊行寺の東に北上する東海道は、道場坂(遊行寺坂)と呼ばれていて、箱根駅伝では8区後半の難所として知られている。
藤沢、遊行寺坂一里塚 12里。 |
戸塚の松並木。 |
戸塚原宿の1号線。大渋滞の交差点で改修工事中。
お軽勘平戸塚山中道行の場 の石碑。 |
戸塚の東海道。
戸塚宿 澤邊本陣跡。 戸塚宿 江戸方見付跡。 |
戸塚から保土ヶ谷への坂道にかかる。1号線を外れての坂道。
品濃坂。 |
品濃坂一里塚 9里。
焼餅坂 牡丹餅坂とも。 江戸を立って、初めての坂道だった。 |
峠の境木延命地蔵尊。
武蔵相模の国境で、権太坂を登り切り、牡丹餅を食い、一服する休憩地だったという。 権太坂の富士見箇所。 権太坂の石碑。今日は下り。 |
保土ヶ谷宿の本陣跡。1号線にあり。 |
本陣跡から旧道に入る。
相模鉄道天王町駅の際を通る東海道。 神奈川宿への東海道と道路標識。 |
9月6日(土) |
神奈川宿。飲み屋街となっている。
青木橋。東海道線他の鉄道。 |
青木通りの1号線と15号線の分岐点。旧東海道は、日本橋まで、15号線となる。
日本橋まで、25km。 |
良泉寺。
幕府から、外国の領事館にするよう達しがあった時、修理中として断った寺の1つという。 |
生麦事件の碑。薩摩の島津久永が行列の前を横切ったイギリス人を斬った現場。
ほんの少しの旧道あり。生麦街道。 斜めの道が旧道。 |
鶴見川橋。
市場一里塚 5里。 |
八丁畷と人骨出土。
近代の開発で、沢山の人骨が出た。それで、供養塔を建てた。 江戸時代、川崎宿の火事などで死んだ人々を埋めたらしい。 |
川崎大師駅。
表参道。 |
川崎大師。
正式名称 金剛山 金乗院 平間寺 (こんごうさん きんじょういん へいけんじ) 大山門。 大本堂。 八角五重塔。 |
川崎宿の東海道。
川崎宿の本陣跡。 |
多摩川の六郷の渡し。 |
大森の東海道。 |
鈴ヶ森処刑場跡。
右 南無妙法蓮華経のひげ題目の碑。 |
丸橋忠弥らの処刑された磔の棒を差した土台。
八百屋お七ら火あぶりの刑で使用した鉄柱を差し込んだ土台。 大経寺。 |
品川宿東海道。
品川橋。 品川宿本陣跡。 |
八つ山橋。
八つ山橋の横断する鉄道。新幹線は見えない。トンネルらしい。 JR品川駅。 |
9月7日(日) |
高輪の泉岳寺。赤穂浪士の寺。
中門。 山門。 本堂。 |
吉良上野介の首洗いの井戸。
赤穂義士墓所。 |
四十七士の墓。萱野三平始め三名の墓もあり。
内蔵助、主税の墓 |
浅野の殿さんとその奥さんの墓。 |
札の辻の15号線 第一京浜国道。 |
西郷隆盛と勝海舟の会見の地。 |
銀座八丁目と四,五丁目。 |
日本橋と道路元標。 |
日本銀行。始めて、自分の目で見た。
幾つになっても、おのぼりさんです。 |
JR神田駅 |
江戸東京博物館。
王義之の蘭亭序を見てきました。教科書とよく似ていました。 日曜日だったためか、すごい人出で、ゆっくと見られませんでした。 |
帰りは、待ち時間の少ない、こだまに乗って帰った。寝てしまい目が覚めたら、浜松でした。
リュックは、7kgで、肩が痛かった。何とか、5kgに減らしたい。 足のマメは、指だけだったので、歩けたが、痛かった。遍路の最初の1週間の行程を見直すつもりです。 今回も、声を掛けてくれた人たちに助けて貰いました。ありがとうございました。 |
以 上 TOPへ戻る |