1 岡崎 知立 鳴海 24 km 1995/04/30、1995/05/05
|
岡崎市市内の27曲がりの写真が出てきたので、追記することにした。(追記 2003/07/03) |
防衛上の理由から、東海道を何回も折り曲げて作ってある。27曲がりだ。西本陣前角、西 京いせ道、材木町角、岡崎城対面?前角、材木町木戸前、松葉総門跡、右 西京、など17,8個曲がりの表示石碑があった。 |
矢作川を渡ると、勝蓮寺あり。お参り。家康の長男信康(のぶやす)のお寺さん。信康は、家康の最初の女、今川の築山殿の子であったが、武田と内通したとして、信長の命令で、家康が母と共に殺した。 |
現在の岡崎、安城、豊田の境界付近は、旧海軍の第一岡崎海軍航空隊があった。矢作川の流域であるが、昔からの小高い丘にあった。 |
岡崎市街の西側の東海道を改めて歩く。昔の街道の面影はないが、生活道路としてほとんど残っています。八丁味噌の工場横を通り、矢作川へ。秀吉が、蜂須賀小六と出会った矢作川です。 知立の手前に、無量寿寺がある。伊勢物語の杜若(かきつばた)の、また、謡曲「杜若」のお寺さん。今でも、手入れされた杜若があり、5月、綺麗に咲き揃う。1度は見る価値ありと思う。 此の寺近くの道には、業平池、業平墓、在原寺、落田中一松、などがあり、その道を鎌倉街道と言っている。東海道を歩くと、よく鎌倉街道と出会う。昔からの交通ルートだったんだな。と思う。 |
落田中一松は、「この沢の木の蔭におりいて、乾飯(かれいい)食いける」の松で、「からころも」の歌を作った所だそうです。 知立は「池鯉鮒」と書く事が多かったようだ。此の付近は低地が多く、八つ橋とも言う。鯉、鮒が採れた。土地の由来となった。 知立に平安時代から桶狭間の戦いの時まで、お城があったことを初めて知る。桶狭間の戦で落城。現在は、公園となっている。 |
知立神社。名前は聞いていたが、初めてお参りする。境内に芭蕉の句碑あり。「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」 知立神社を出て、逢妻川に架かる、昔池鯉鮒大橋、今逢妻橋を渡る。やがて、尾張三河の境川の橋、境橋を渡り、尾張へ。 |
阿野一里塚。道の両側とも残っている一里塚である。昭和11年12月国指定史跡と看板あり。 |
名鉄前後駅の近くの丘の上に「戦人塚」あり。信長が今川方の首2500余を調べ、その遺骸を埋めた跡と言う、今川合戦の戦死者の塚。 名鉄中京競馬場前駅の南に、桶狭間古戦場伝説地がある。小高い丘の続く丘陵地の住宅化された地に公園として整備されている。今川治部大輔義元墓あり。以前は塚であったが、明治に入り、墓を建てたとの看板があった。 |
有松絞りの有松の町に入る。今は、絞りは高級品ですが、昔は、弥次さん達も2尺5寸の手拭いを買っている。 |
以 上 TOPに戻る |