1 佐屋街道 1 (宮 岩塚 万場 西条) 14 km 2003/12/23
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東海道の宮〜桑名の海路を避けた陸路の脇街道があった。佐屋街道である。鳴海からの東海道は、熱田神宮で南の宮へ。北へは、美濃路佐屋路となる。好天の佐屋路を歩いた。 |
南東角に道標があり。「北 さやつしま、みのち 道」と表示してあると説明文があった。もう、1本道標があるとのことだが確認できなかった。 |
地元の人らしい、杖を突いたおばあさんから、「今日は何日か。何曜日か」と聞かれる。「12月23日、天皇誕生日」と答える。直ぐ納得し、「有り難う」と言って去って行く。 聞かれたことは?と思ったが、返答の反応は正確だった。1人住まいの人かな?と思う。 |
熱田神宮の西、19号線の際に、誓願寺がある。このお寺も、どこに本堂があるか判りにくい。門のみが19号線に面してあり、傍に「右大将頼朝公誕生舊地」の石柱が建てられている。源義朝の妻となった熱田大宮司藤原季範の娘・由良御前が久安3年(1147)、この地で頼朝を産んだと言う。大垣の西、青墓。知多の野間。など、この地方は源氏の勢力の強かった土地のようだ。 |
「此うみに草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ」 芭蕉 「野ざらし紀行」の帰りに、桐葉亭で詠んだ句。海に近い家だ。野ざらしを覚悟の旅も大詰めを迎えた。旅の命綱であった草鞋も笠もこの海に捨てて。桐葉の手厚いもてなしに安堵し、ここでしばらく休んで行こう。 また、鴨塚があるようだが、見つからなかった。 |
昔、7人の娘を持った富豪がおり、1番目の娘が嫁に行った村が「一女子」、二番目が「二女子」と「七女子」まで村が出来たが、今は「五女子」、「二女子」の二つの地名が残っているとのこと。珍しい名前だ。 |
この表門は副田隠斉(そえだいんさい)の家門であったと言う。副田隠斉は豊臣秀吉の異父姉朝日姫を妻としていたが、秀吉の家康懐柔策のために離縁させられる。朝日姫は徳川家康の室となる。副田隠斉は秀吉からの5万石の加増を断り、この禅養寺付近で居を構えて剃髪し隠斎と号し閑居したとい言う。余り知られていないが、副田隠斉も、天下のために泣いた武将の一人である。 |
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地下鉄の通る豊國通りを横断し、岩塚に入る。 岩塚一里塚があったと言うが、今は何もない。 |
遍慶寺お参り。遍慶寺は岩塚城の跡と言う。 |
ここまで、全くの自動車道になっているが、烏森駅辺りからこちらは、古い町並みが所々に見える。万場から大治西条間は、全くの旧道で、曲がりくねり、3〜4間の幅の道だったと言う、ほぼそのままの道。 |
佐屋街道の表示が見える。(掲示板の右) |
道は北に曲がり、川を越えて左折すると、西条(にしじょう)の交差点。交差点近くにバス停が見えたので、今日は、ここまでとする。大治西条バス停で、名古屋市バスの終点だった。バスの本数は、津島方面行きの名鉄バスの方が多い。名古屋駅行きの最初に来たバスに乗る。名鉄バスで、料金は、200円だった。 |
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