4 吉田 二川 白須賀 新居 20 km 1995/07/29
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東海道は、豊橋の町中では、1号線を外れ、普通の生活道路として残っているが昔の面影はない。宿の東外れ、東総 豊橋市は、史蹟曲尺手門址、道標、西問屋場跡、一里塚跡などを示す石碑が沢山設置してある町である。 岩屋観音を左に見ながら、旧道に入り、二川宿へ向かう。後で知ったが、岩屋観音は右に見る道が正式の東海道とのこと。改めて歩くことにしよう。 |
本陣の遺構が残っているのは、ここと滋賀県の草津宿だけだそうです。1985年、当主の馬場氏が、豊橋市に寄付された。市は市史跡に指定し改修復原して、1991年開館した。とパンフレットにありました。 町を抜けると、再び、1号線。長い舗装道路をゆく。三州遠州国境の境川の橋を渡る。今も、静岡・愛知の県境である。 |
津波の難を恐れ、1708年潮見坂の下から坂上に宿替えした。今度は、冬の西風が強く、度々大火があったため、「火除け地」と呼んだ火防を設置した。 火防の広さは、間口2間、奥行き4間半で、常緑樹で火に強い槙の木を植えた。3地点6場所あったとのことです。 また、「曲尺手(かねんて)」の説明看板あり。直角に曲げた道。軍事的な役割を持つほか、大名行列同士がかち合わないようにする役割を持っていた。すれ違いの時は、位の低い方は駕籠を降りなければならなかったので、斥候を出して確認させ、かち合いそうな時は、休憩を装い、最寄りの寺などに緊急避難した。とありました。 |
丘を下り、山裾を東に向かう。新居の手前、浜名と言う土地は、鎌倉、室町時代は橋本と言ったようです。よく目に留まる地名です。頼朝も泊まったと言う宿屋跡もあるようです。 |
関所が立派に復原されていた。昔の関所建物が残っているのはここだけの様です。 |
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