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 エルフと人間の最後の同盟による大軍は、7年間バラド=ドゥアを包囲していた。
 その間、幾度かの小競り合いがあったが、ついにサウロン本人が討って出た。
 ひとつの指輪が最も効力を現す滅びの山の脇での戦いは、圧倒的にサウロンに有利だったが、最後の同盟の軍勢に甚大な被害を及ぼしたそれは、思わぬ結末を迎えた。

 この戦いでエルフの上級王ギル=ガラドは死に、人間の王、エレンディルも死んだ。唯一の救いはサウロンの手から指輪が離れた事だったが、それも滅ぼすまでには至らず、イシルドゥア−−最も誘惑に弱い人間の手に渡ってしまった。 
 

 ギル=ガラドの死を悼む歌が戦いの終った地を覆っていた。
 彼の亡骸を胸に抱いて呆然と座り込むエルロンド卿の姿を、グロールフィデルは少し離れた所から見ていた。
 この戦いで、エルロンドは王の伝令を勤めていた。それ以前、裂け谷ができる前はリンドンの地で、長く共に居たのだ。その悲しみは如何ばかりのものか、当人にしか判りはすまい。
 それに加え、歌を歌う声も僅かにしかない。この地に残れたのは、ほんの一握りの者たちだけ。その事実も、エルロンドには痛手だったのだろう。
 声をかける事もできず、グロールフィンデルは深いため息を吐いた。


 世界の変化に関わり無く、時間は過ぎてゆく。


 指輪を手にしたイシルドゥアはオークどもの襲撃をうけて死に、そして『指輪』は姿を消した。
 長い年月の間、その行方は杳として知れない。サウロンも復活せず、平和と言えば平和な、静かな時間が過ぎていった。

 しかし侵食は確実に進んでいる。
 この中つ国に残された「最後の憩い」の館、裂け谷に助けを求めて来る者の数が増していた。
 主であるエルロンドは、傷ついた者には癒しと休息を与え、それを護る為の結界を館の周りに張り続けていた。


 

 最後の一人の傷を癒し終え、エルロンドは自室に戻ると執務用の椅子に崩れるように腰を下ろした。
 背もたれに体重を預け切り、大きく息を吐いて目を閉じる。
 いくら不死の身体を持つエルフといえど、このところ増え続ける避難者への癒しは、かなりこたえていた。

(癒しを施す者が、自分自身を癒せないとは・・・)

 随分と滑稽な事だと、知らず口元に苦い笑みが浮かぶ。
 ここへ来たエルフの大半は、西へ・・・・至福の地へと海を渡って行ってしまった。いつの日か自分も同じ道を辿る事になるのだろうが、それはもっと先の事。
 癒す者の存在が必要の無い世界の到来は、いつの事だろう・・・?

「エルロンド卿・・・」
 名を呼ぶ声に、わずかに手を上げて応える。閉じた瞼を上げるのさえ億劫だった。
「だいぶお疲れのご様子ですが、大丈夫ですか?」
「ああ・・・グロールフィンデルか」
「ええ。ミルヴォールをお持ちしました」
「・・・そのような事は」
 ひっそりと呟いて、エルロンドは苦笑する。黄色い髪のグロールフィンデルといえば、エルフの乙女たちの歌に、その勇姿を多く謳われている金華家の宗主だ。たとえ随臣とはいえ、飲み物を運ぶなどという従者まがいの事をする必要は無い。
「私が、お持ちしたかったのです」
 エルロンドの言いたい事を察して、グロールフィンデルは囁く。
「卿のそのようなお姿を、他の者に見せたくはないゆえ」
「はは・・・そうだな。このような情けない姿、貴公以外の者には見せられんな」
 努めて明るく応えて、エルロンドは椅子に座り直した。
「貴公手ずから運んでくれたミルヴォールだ。頂こう」
「ええ」
 笑みを含んだ声の方へ手を伸ばしたエルロンドは、ふいに室内の暗さに気づく。
 闇をも見通すエルフの目には、灯りなど必要無いはずなのに・・・?
「卿!?」
 エルロンドの手が何も無い空を掴んだのと、息を呑むようなグロールフィンデルの声がしたのは同時だった。


 裂け谷に風が渡り、木々の葉を揺らす。いつもと変わらぬ静かな夜。
 この荒れた世界の中で、『最後の憩い』の館の主、エルロンド卿の力に護られた静けさだった。
 だからこそ・・・・
「この事は誰にも言うな。皆が不安がる」
「それはそうですが・・・しかし・・・」
「大丈夫だ。すぐにもとどおりになる。余計な心配をさせる必要は無い」
「卿・・・・」
 日々増え続ける救いを求める者。それを癒し続ける事で蓄積した疲労せいか、エルロンドの目は見えなくなっていた。
「先程の者で最後だ。癒しを必要とする者はおらん。休息をとれば見えるようになる」
「・・・そうですね」
 同意しながらもグロールフィンデルの表情は冴えなかった。またいつ、そう、こうしている今にも、癒しを必要とする者が来るかもしれないのだ。
「わかりました。あとの事はお任せ下さい。そしてしばらくは、ご自分の御身体の事だけお考え下さい」

 次の日からの執務を、グロールフィンデルが代行する事に誰も異議を唱えなかった。エルロンド卿に休息が必要な事は、皆わかっているのだ。
 ただ、そのせいで目が見えなくなっている事には、誰も気付いてはいなかった。
(当然だ・・・)
 何事も無く暮れてゆく空の下、エルロンドの部屋へと急ぎながら、グロールフィンデルは内心、ごちた。
 他の者が気づかぬよう、細心の注意をはらっているのだ。
 『最後の憩い』の館の主、エルロンド卿は、この世界の全ての知識に通じ、何者にも怯まず、傷を負い救いを求めてやってきた者達に癒しを与える存在。ある意味、象徴だった。
 それ故、弱っている姿など見せるわけにはいかない。皆が不安になるからだ。
 しかしそれは、理由の半分。
 あとの半分は、「あんな姿を他の誰にも見せたくなかった」のだ。
 同じようで、まったく違う二つの理由。
「エルロンド卿。グロールフィンデルです。お加減は如何ですか?」
 私室の入口で、静かにおとなう。幽かな物音がする以外返事は無い。
 眠っているのか・・・とも思ったが、それならそれで様子を見ておこうと奥へ進んだ。
 宵闇に沈む室内の、その奥の寝所の入口から中を覗いた。
「卿・・・どうされました?」
 エルロンドが、ベッドの脇の床にうずくまっていたのだ。
「ああ・・」
 驚いたようなグロールフィンデルの声に、エルロンドが身を起こして、顔を向ける。その何も映していない目が、所在無げに揺れた。
「グロールフィンデル・・・執務は良いのか?」
「ええ。本日の分は滞りなく」
 無意識に伸ばされた手を取ると、エルロンドが安心したように息を吐く。
「そうか・・・世話をかけるな」
「いえ・・・それより、何をしておいでです?」
 エルロンドのうずくまっていた辺りを覗き込む。
 床に、グラスが砕け散っていた。ベッド脇のサイドテーブルに置いてあったものだ。
「これは・・・?」
「いや・・・湯浴みしようと思ってな。ベッドから降りた拍子に、手が触れて・・・」
 どうやら落としてしまったらしい・・・と、エルロンドはため息まじりに呟いた。
「それを探しておられたのですか?」
「そうだ。目が見えないと言うのは、中々に不便だな、グロールフィンデル。落ちたグラスの所在すらわからん」
「ええ」
 言葉少なに答えながら、グロールフィンデルは自分に頼るように寄り添うエルロンドに見入っていた。
 この姿を、誰にも見せたくない。頼りなげな、縋るような姿。
 これは自分だけが知っていればいい、特別なものだ。
 我ながら独占欲が強い。とグロールフィンデルは自嘲を浮かべた。
「どうした?」
「いえ。どうですか?御身体の方は」
「おかげで大分良い。まぁ・・・目以外の事だが」
「大丈夫。すぐに回復されますよ。それで、湯浴みは?されますか?」
「ああ。頼む」

 館の者には、卿の私室に近づかないように言ってあった。誰が歌っているのか、歌声が彼方から幽かに聞こえるだけの静かな夜。
 湯浴みを終え、エルロンドはベッドの端に座っていた。瞳と同じ色のローブだけを緩く羽織っている。
 濡れた黒髪が、光を放っているようだ・・・それを梳きながら、グロールフィンデルは思っていた。
「ギル=ガラドの夢を・・・見た」
 不意にエルロンドが呟いた。
 グロールフィンデルの手が止まる。
「とてもお元気で、私の事を情けないと笑っておられた」
「そうですか・・・・」
「あの方には敵わないな」
 懐かしそうに呟くエルロンドの髪を、グロールフィンデルは再び梳きだす。その手は微かに震えていた。
「あの方は・・・」
「はい?」
「何故、マンドスの館から・・・戻られぬのだろう・・・」
「え・・・?」
「何故、今この時・・・私の傍に居て下さらんのか・・・」
「卿・・・」
 ふふっ・・・と、エルロンドはため息のような笑みをもらす。
「すまん、グロールフィンデル。戯言だ。聞き流してくれ。思いのほか、疲れておるようだ・・・」
 そう言うと、髪を梳くグロールフィンデルの手を捕まえ、そのまま肩越しに振り返った。
「私の事はもう良い。貴公も休んでくれ」
 静かに微笑んで、手を放した。
 よく晴れた日の黄昏の空の色のような瞳。しかしそこには今、何も映ってはいない。
 自分の姿は映って無いのだと思うと、グロールフィンデルの胸はしめつけられるように痛んだ。
「グロールフィンデル?」
 返答の無い相手に、エルロンドが怪訝そうに呼びかける。見えてはいない目が、不安そうに瞬く。
 手が伸ばされ、ベッドの上を探る。おぼつかない指がシーツに皺を作っていった。
「グロールフィンデル!・・・居ないのか?」
「ここにおります。エルロンド卿」
 言葉と共に、シーツの上を惑うエルロンドの手を捕まえる。
 そしてそのまま、ベッドの上に引き倒した。
「なに・・・っ!?」
 とっさに身を翻そうとするエルロンドの機先を制して、グロールフィンデルの両手が肩を押さえ込む。
 緩く羽織っただけのローブがはだけて、素肌に直接触れていた。お互いの体温が伝わって、混じりあい、同じになる。
「どうした?グロールフィンデル・・・」
 静かなエルロンドの声が囁く。
「私では・・・」
「ん・・・?」
「私では、貴方のお力になれませんか?」
 呟くような、しかし真摯な響きを持つグロールフィンデルの声。
「何を今更・・・貴公は、この裂け谷に無くてはならぬ重鎮ではないか。いつも私の力になって・・・」
「いいえ!」
 エルロンドの言葉を、グロールフィンデルの声が遮った。
「いいえ・・・そうじゃないのです。貴方個人のお力に・・・です」
「私・・・個人?それはどういう・・・・」
「卿は今でも、上級王の事を・・・・」
「ああ・・・」
 悲嘆とも、思慕ともとれる吐息だった。
「あの方は・・・・とても、素晴らしい方だった・・・・」
 グロールフィンデルの手の下で、エルロンドの肩が小さく震えた。
「しかし今は・・・ここに居られない・・・それが辛いだけだ」
「・・・・・・・・」
「グロールフィンデル・・・・」
 エルロンドの指が、自分の肩を押さえ込むグロールフィンデルの腕を、確認するように這う。
「・・・はい」
「貴公も、私をおいて行ってしまうのか・・・」
「いいえ。いつまでも貴方のお傍に」
 ゆっくりと、這い上がってきた指が、頬に触れる。
「ではそれを、信じさせてくれ。目の見えない私に。いつまでも傍にいると・・・今、ここで」
「喜んで」
 ゆっくりと顔を近づけ、静かに唇を重ねた。

 
 未明の闇の暗さが、夜明けが近い事を告げていた。
 グロールフィンデルはベッドから身を起こし、乱れた髪をかきあげた。
 傍らには、半ば意識を失ったようにエルロンドが眠っていた。裸の背中が闇の中に燐光を放つように浮かび上がっている。その上に流れる、幾筋もの緩いウェーブのかかった黒髪。
 それを手に取ると、恭しく口づけした。
 シーツに埋もれるようなエルロンドの寝顔は、いつに無くリラックスしているように見える。その事にグロールフィンデルは安堵する。
 休息を・・・と言ったところで、責任感の強いエルロンドの事だ。執務をとってなくとも、心休まる事など無かったのだろう。
 その浅い眠りの中で見た、ギル=ガラドの夢。
 それだけ心が求めているという事か・・・・?
 グロールフィンデル自身は、ギル=ガラドと直接話したのはたった一度だけ。裂け谷ができたばかりの頃だった。


 エレギオンの細工師たちによって作られた指輪を巡る戦いが、ヌメノールからの援軍により決着がついたあと、エルフ達は会議を開いた。
 サウロンの軍により荒れ果てたエレギオンよりも、すでに砦ともなる避難所として機能していた裂け谷を、自分たちの拠点とする・・・そう決定されたのだった。
 主は無論、創立者のエルロンド卿。グロールフィンデルが残る事も認められた。。
 これから先、どんな困難があろうと、ずっとエルロンドの卿の傍に居ようと決めていたグロールフィンデルにとっては当然の事だ。エレギオンからの敗走に始まり、この裂け谷の設立まで、ずっと共に居たという自負もあった。
 会議を終え、エルフたちは随時帰途についた。
 見送っていたはずのエルロンドの姿が、いつの間にか無い事にグロールフィンデルは気がついた。
 これからに備えて、早々に部屋に引き取ったのだろうか・・・?そんな事を思いながら、回廊を歩いていた。
 すると行く手の部屋から出てくる人影があった。
「ギル・・・ガラド・・・?」
「ん・・・?」
 相手も気づき、こちらに歩いてきた。
 ギル=ガラド。『燦然たる輝きの星』との名のとおり、堂々とした、まさに光輝くような力を感じさせるエルフだった。グロールフィンデルの知る上古の王たちにもひけをとらないだろう。
「あれはもう休んでおる。火急の用でなければ、明日にしてやれ」
「は・・・」
 今、ギル=ガラドが出てきたのがエルロンドの私室からだった事に気づいて、グロールフィンデルは言葉を失った。
「・・・仰せの・・・ままに」
 ようやくそれだけ呟き立ち去ろうとするグロールフィンデルを、ギル=ガラドは呼び止めた。
「そなたとは、一度ゆっくり話がしたかったのだ。グロールフィンデル」
 回廊をまわり、ブルイネンが間近に流れるテラスに出ると、ギル=ガラドは言った。
「それは・・・光栄です・・・上級王」
「金華公といえば、余が幼い頃から歌に聞いていた英雄だ。まさに伝説だな」
「その伝説の正体がこれで、失望されましたか?」
「いや。聞いていた歌のとおりの英雄だった。エルロンドがここまで無事だったのは、そなたがいたからだ」
 ブルイネンの流れの輝きを背後に、ギル=ガラドの表情は逆光になってよく見えなかった。 
「これから先、この世界はますます荒れてゆくだろう。その中にあって避難所となる事を表明したここの前途には、幾多の困難が待ち受けているだろう事は想像に難くない」
「はい」
「余はエルロンドに、ヴィルヤを譲った」
「え・・・?」
「余の手にあるよりも、ここにこそ相応しいと思う。それでもな、グロールフィンデル」
 ギル=ガラドが微かに笑ったのが、気配で伝わってきた。
「力の指輪など、所詮は物でしかないのだ」
「上級王・・・」
 ギル=ガラドは頭を巡らせ、回廊の奥にあるエルロンドの私室に眼差しを送る。
「そう・・・余はエルフの王だ。誰か一人だけを護っておる事はできん」
 そう言って、ふいにグロールフィンデルを睨み付けた。
「あれはエルフの行く末を見届ける気でおる。それ故、何があろうと西へと行こうとはしないだろう。それでも共に居るか?グロールフィンデル」
「喜んで!」
 片膝をつき、手を胸にあて頭を垂れる。その上にギル=ガラドが手をかざす。
「頼んだぞ。金華公」
 水音が激しさを増したような気がした。


 今思えば、とグロールフィンデルは密かに息をつく。
 あの時すでに、ギル=ガラドは自分の死を覚悟していたのだろう。
 そして、マンドスの館から戻らぬ事も・・・・・
「もしかしたら・・・」
 ギル=ガラドは恐れていたのかもしれない。
 ただ一人だけのために生きてしまう事を。
 王としての義務を忘れ、すべての者よりその一人を優先してしまうかもしれない日を・・・・
 グロールフィンデルは我が身が王でない事を嬉しく思った。
「王よ」
 今も変わらず聞こえるブルイネンの水音を耳に、あの日の幻影に囁く。
「私がここにいるのは、貴方に命じられたからでは無い。私自身の意志だ!」
 今はまだ、貴方の影を消し去る事はできない・・・・
 しかし、いつかきっと。
 
 今、傍にいて、その手をとれるのは私なのだから。

 そう、心の奥で強く叫んだ。


 数日後。エルロンドの目も回復し、何事も無かったように執務に戻った。
 いつもと同じ日々が、また始まる。
「グロールフィンデル・・・」
 二人だけになった時、エルロンドが呼んだ。
「はい」
「貴公は・・・船に乗らんのか?」
「はい」
「何故?」
「卿のお傍に」
「そうか・・・・・」
 安堵のするように呟いて、エルロンドはまた執務を続けた。








-END-
2003,3,17





おかしい・・・・もっと軽い話のはずだったのに(^^;)
やっぱり、3つ混ぜてリサイクルしたせい?