創成科学フォーラム14回研究発表講演会資料

意識を考える

まえがき

 生命に関する問題は古くから人類の神秘であり,関心の的でもあった。最近特に生命に関する話題や解鋭が盛んになってきている。あるものは古くからの宗教に関する教典の解説であったり,霊能的なもの,臨死体験,臓器移植,人口生命といった学術的な研究も盛んになってきている。しかし現在考えられている人口生命というのは,自己再生可能な機械あるいは自己進化する人工体といったものに重点が置かれており,私は何か?どうして生まれたのか?死ぬとどうなるのかと言った自己認鞄(=自分を他人と区別し,今の自分を認識しているもの),つまり意識(consciousness)に関する問題に関しては宗教的,オカルト的話題は多いものの学術的な検討は皆無と言ってよい。

 意識とは一体何であろうか,この間題に関しても古くから様々な人々によって考えられてきた。また、意識するしないにしても誰もが一度は考えた問題ではなかろうか。その結果は哲学あるいは宗教として発展してきたものと考えられるが,科学的には「定義できないもの」として見るべき成果は得られていないのが現実であろう。このような問題が簡単に解決できるわけではないし,何等かの進展が見られたという訳ではないが,1外野手としての考えを披露したい。

 

1.意識の位置づけ

 生命、知能などに対して意識はどのように位置づけられるのであろうか。人工生命、人工知能に対して人工意識というのは考えられるのであろうか。

 非常に荒っぽく言えば、生命は自己再生、知能は自己修正可能な情報処理と言えなくもないだろう。では意識とこれらの関係はどのように考えればよいか、図1のような関係を考えてみた。意識は知能から産み出されるが,人間の意識はそれ以外の生命要素とも関係があるかも知れない。さらに,生命以外の要素が意識の形成に関与していることも考えられる。知能と知識の違いは、知能は外部から見た反応で判断できるのに対して意識はその物の自覚(awareness)であり、どのようにすればその存在を外部から判断できるのかすらわからない。

 

2.意織の存在証明

 意織を科学的に取り扱う場合の1つの問題に、その存在証明がある。例えば人工知能が意識を持っているかどうかはどのようにすれば証明できるのであろうか。意識の存在証明と言えば、自分は明らかに意識を持っているのがわかる。つまり,自分の意識を認識することが意識そのものなのかも知れないが。しかし、私以外のあなたが意識を持っていることさえも確信できない。

 

3.意識はどこからくるか

 我々が物事(見えるもの,考え)を認識する時,我々の外に広がっている物事を認識しているが,情報は我々の目,耳,鼻,口,肌を通して我々の中に入って来,我々の中の生理的(生体物質,電気化学的)な現象の変化として認識されていると考えるのが妥当である。また,この生理的な変化は感覚器官での生理的な現象と,脳内での生理的な現象,つまり,情報処理や記憶を行なう生理現象に分けて考えることが出来るが,最終的に我々が認識しているのは脳内での生理的な現象,つまり情報処理の結果であると考えられる。従って同じ生理的な変化(情報処理)が起きるならば外に広がる物事が存在しようがしまいが我々が認識することには変りが無いであろう。このことは,実体の世界と認識の世界は必ずしも対応している必要はなく,切り放して考えられることを意味しているのではなかろうか。

 脳内で起きている情報処理に関する生理現象がコンピュータで行なわれている情報処理と完全に対応するか否かは難しいところであるが,本質的に異なっていると考える理由は今のところない。確かに(コンピュータに置き換えることのできる)情報処理以外の生理現象が意識の発現に関係している可能性もあるが、知能の一部はコンピュータによって再現されようとしている。従って,脳内で行なわれる情報処理と同じ情報処理がコンピュータで行ない得ると考えることに妥当性があると私は考える。この考えに基づけば人工知能が意識を持つことも可能であり、同じ情報処理が行われていることが証明されれば意識の存在が証明されるたことになるのではなかろうか。

 

4.情報処理としての意識と意識の並列性

 情報処理により意識が発生するということを前提に,一卵生双生児の意識について考えてみよう。−卵生双生児の場合,元々1つの細胞から分裂して成長し,全く同じ遺伝子を持っているわけだから,その後の成長の過程に置いてそれほど異なった脳が出来上がっているとは考えにくい。というよりは基本的には殆ど同じであると考える方が妥当である。それならば双子のABが自分を常識することに関しても同じであると考えた方が自然では無いだろうか?ということは2人は全く同時に同じ自分を認識していることになる。この2人には何か差が有るのだろうか? この一卵生双生児の内のAが死亡した場合,ABが全く同じであればAの意識はBに引き継がれるのであろうか,それは考えられない,なぜならば,そのようなことが可能であれば死亡するまでも無くABの意識は自由に往来出来てよいと考えられるが,そのようなことが可能であるという話ほ聴いたことが無い。全く同じであるのにABは同じではない,これはどの様に考えれば良いのであろうか?これと同じことをコンピュータで考えてみよう。2台の同じコンピュータに同じプログラムをインストールし同じデータを処理したとすると2台のコンピュータは全く同じ処理をして同じ結果を出すであろう,しかし2台のコンピュータは全く別々の物である。先の問題はこれと似ていないだろうか。しかしABが区別できないということ,Aが自分を意識していることとBが自分を意識していることが同じであるということはどういうことであろうか?

 一卵生双生児の場合は殆ど同じ意識が同時に存在している事になる。2つのものが同じ認識を持つということと,2つのものが一体であるということはまったく別のものである。同じものが同時に存在しても何等矛盾する事はないのである。

 Aが自分を意識し始めてから死ぬまでは情報処理が連続している。では生涯を閉じた後意識はどうなるのか?

 情報処理と物理的な時間は一敦しない。情報活動の停止=死は時間の停止ではなく無である。時間の概念すら意味をもたない。つまり,情報活動=生の中にこそ時間はあるのであって意識が時間の基準である。人が眠って起きた場合,眠っていた時間が長いか短いで意識の連続性にどれほどかの違いが生じるで有ろうか?良く眠ったとか眠り足りないなどと感じるかもしれないが,人間の場合,眠っていても意識が完全に停止している訳ではないし,身体的な状態の変化状況(疲れが取れたとか取れないとか)でおおよその睡眠時間が解ると考えられる。しかし,退屈な時間でも眠っているとすぐに過ぎ去ってしまうことを経験したことはあるだろう。これは,意識の世界では睡眠=停止している時間は無であり,意識の時間はこの物理的な時間は飛び越して繋がる。従って8時間の睡眠も100年の睡眠も意識の時間では区別できないと考えられる。つまり浦島太郎現象である。

 では死が訪れた時に人はどのように感じるのであろうか?それは眠りにつく場合と同じである,眠って起きなかった場合を考えてもらえば良い。人の死を永遠の眠りにつくというが良く言ったものだと思う。但し,永遠のというのは生きている人の時間の概念であるから,死んだ本人に取っては眠りに就いた時点までが意味が有るのであって死後は全く無意味なものである。では,死は意識の終わりなのであろうか?物理的な時間は動いているが,意識の時間は死をもって停止する。従って死後,物理的な時間で長時間たってから同じ意識がよみがえったとすると,死後の意識は存在しないから,死から再生までの時間は意識上無意味なものである。長時間(何年もの間)眠って起きた時と同じことになるだろう。しかし,再生の時点で眠りについた時点までの記憶を忘れていた場合はどうであろうか?この状態では昔の記憶が全く無いわけであるから昔は無かったのと同じになる。記憶喪失症であれば記憶を取り戻す可能性も有る訳だが,この場合は記憶の欠けらも脳内に残っていないとすれば,思い出すことは無いのであって過去とは完全に隔離された別のものとなってしまうだろう。この状態で人は過去の人と再生された人が同じであると言えるだろうか。同じ意識を持っていれば同じ人間であるとも言えるし,過去との繋がりが絶ち切られているのであるから全く別の人とも考えても良いのではなかろうか。別の考え方をすると,この再生の時点で他人の記憶と入れ替わっていればその入れ替わった他人として蘇ると考えた方が合理的でないだろうか。

 こう考えると意識とは一体何なのか,コンピュータでいうと記憶を管理する基本プログラム

OS=オペレーションシステム)のようなものではないだろうか。記憶が無ければ意味の無いものであるし,記憶だけでは使いようが無い訳で,それぞれが同時に存在して始めて意味を持つものである。更に,延々と伝えられてきたDNAによる情報伝達を考えると全ての人々の意識が同じである可能性も考えられる。

 

5.時の流れと意識

 前章で述べたように物理的な時の流れと意識の時間の流れは必ずしも一致しないと考えた方が合理的である。意識の時間の流れはそれが流れている間だけ物理的な時間と一致している。物理的な時間の流れを基準に意識現象を見ると,意識は発生(誕生)から停止(死)の間だけ存在するように見えるが意識の時間の流れを基準にして見ると,意識の時間が流れていない間は無意味であるから,意識が停止から再生した時点で時間的に繋がる。つ女り意識からしてみれば停止と再生の間に時間的な空間は存在しない訳で,如何なる場合にも意識は連続していなければならな

い。これを人間の意識の停止(死)に当てはめるとどういうことになるのであろうか。死の瞬間(次の)誕生に繋がることになる。臨死状態を経験した人は花園とか,手招きする人を見ると言う。しかしこれは意識活動の一端であって,別の世界が存在するとか神の存在とは関係ないことであろう。従ってこれらの現象も意識活動の一部分であるから経験しないと言う訳ではない。意識が再生する時,もし記憶が継続したとすると,手招きする人に誘われて,花園を通って再び誕生し,母の手に抱かれる経験をするであろう。しかし,死んだ肉体が再生する訳ではないので,記憶は引き継がれない。従って母の胎内から誕生した我々がこの様な経験を持っていなくても当然のことである。

 先に,死の瞬間(次の)誕生に繋がるといったが,この(次の)という意味は物理的な時間を差す訳ではない。意識にとって意識停止時の物理的時間の流れは無意味なものであるから,物理的な時間の前後関係も意味の無いことである。従って,この(次の)誕生は死の後で有る必要は全く無いのである。それでは,我々が死んだらどうなるのか,何処に・(誰に)生まれ変わるのか。それは全く解らない,というよりは誰であるかということを特定すること自体が意味の無いことである。全ての意識を持つ人類に対して等価であると考えてよいだろう。

 

6.むすび

 意織が情報処理の結果発生するものと考えると,意識の時間軸は生から死までの間に於てのみ存在し,その間は物理的時間と一致する。同一の意識が同時に或いは時間を隔てて存在することが可能で,全ての意識が同じものである可能性も考えられる。

 

 

発表資料