今から、約1000年前 大江定基(おおえさだもと)は
三河守に任じられた。
任に在る時、別邸にて赤坂宿の長者の娘 力寿を
側室に迎えた。
まもなく力寿は懐妊、定基と力寿は幸せな時を過ごしたが
突然、力寿は子を産むことなく、死してしまう。
強い嘆きと悲しみの中で、定基はすでに冷たくなった力寿
を7日間抱いて過ごすが力寿は腐乱し悪臭を放つようになった。
これにより定基は、人生の無常(万物は消滅変転する)を悟り
自ら寂昭と名乗り僧侶として、その後生を力寿供養に奉げた。
力寿の遺骸は別邸がある小高い山に葬ったので、ここを
姫山(後 姫ヶ城城跡)と呼んだ。
定基が僧となり建てたお堂が現在の胎蔵寺である。
山号は保母山と名をつけ、その後「保母」が村名から
今の町名となっていった。
後に寂昭(定基)は中国に渡り,宋王真宗帝より
円通大師の号を賜るまでになる。
歴史書 日本紀略や百錬抄には第六十七代三条天皇 長和時
左大臣菅原道長が円通大師(定基)に宛てた
書状などが記されている。
中国への旅立ちは44歳の時であった。
寂昭(定基)の
御位牌
胎蔵寺所蔵