過去掲載した編集◇コラム13
クオリティ (09/03/22)
『禅とオートバイ修理技術』
伝説の名著であると同時に、ずいぶん難解であることが知られていて、評価が分かれる書籍です。
精神を患い、脳に電流を流すショック療法のために記憶を失った元大学教師が、息子と共にオートバイで旅をする物語と、精神世界を分析・探求する哲学的(随筆)が交互に展開されていきます。
ツーリングの紀行文ではないし、ガイドブックでもない。また、哲学書でもなければ、教本でも、論文でもない。そういったスタイルの本とは一線を画すので、さらに難解なイメージがあるのかと思います。
私もこの本を理解できたわけではありません。でも、そうかといって、到底理解できないこともなかったように思います。書いてあることの、その片鱗だけでもわかった(気になっている)のは、もしかしたら筆者と私と、僅かな共通点が見られるせいかもしれません。
まずオートバイ乗りであること。オートバイのメンテナンスもある程度自分でこなすこと。おそらくオートバイの旅が好きなこと。文庫本のカバーに掲載された写真を見ると、旅に使ったオートバイはハーレーでもBMWでもなく、ホンダCB72(77?)という小排気量のオートバイであること。これにキャンプ道具一式を積み、タンデムでアメリカ大陸を走るのだから、車格のわりにはずいぶん過積載に思います。
次に哲学。
まだ私が中学生だったころ、いくつかの哲学書を読みふけった時期がありました。カントは難しすぎて断念したものの、ルソーやヘーゲルは何冊も読んだものです。いえ、所詮ローティーンのガキ。理解できるわけがありません。僅かな共通点というのは、哲学書を読むに至った心理とか背景です。恵まれた環境や充実した精神状態で哲学書を読みたくなる人は ほとんどいないはず。
そう、当時は少々荒れ、つらい心境でした。
思い出すだけでもつらいので、またの機会に、いずれこのあたりのことにも触れようと思います。
さらに精神疾患の経験があること。
他の病気もそうですが、この類の病もなったことがない人には想像もつかない苦しみに苛まれるのです。
この本に表面的な結末を求める時点で、既に二元論に陥っているのかもしれません。片鱗だけわかった気になった、といっても、筆者の真意はわかりません。わからなくていいと思っています。論点を見極める必要はありません。要点をまとめる必要も、起承転結を分類する必要も、問いや答えを探す必要も。
『クオリティ』を感じるだけでいいのです。
しかも必ずしも今すぐ感じられる必要はないような気がします。それぞれ個人のペースでいいはずです。
この書にあるように、きっと誰もが定義できない《クオリティ》を知っていて、その《クオリティ》は遠く離れていってしまう類のものではないからです。
オートバイに乗りこんでいる諸兄なら《クオリティ》を感じるはずです。
この本を読まなくても。
せっかくだからこの休みに乗らないと、などという理由は不要、他人の情報に惑わされること無く、気ままに、乗りたいときに乗って、ソロで淡々と走る。
風を感じたとき、季節を感じたとき、いつもと違う風景に心動かされたとき、旅先で思いもしない人情に触れたとき、きっと《クオリティ》を感じているからです。
でも《クオリティ》は無意識下のもの。意識的に《クオリティ》を追求したり、他人と共有しようと思ったとたんに、それは色褪せ、遠ざかる。計画とか、目的とか、共通認識とか、そういったものとは縁遠い存在なのでしょう。
だから これ以上《クオリティ》を意識するのは もうやめておきます。
バイク乗りなら、いつでも《クオリティ》を感じることができると思いますから。
長かった一日 (09/02/22)
また私事で恐縮です。日常の、何でもないことといえばその通りなのですけど...
先週末の日曜夜のことです。
「腹が痛い」 妻がそう言い出したのは午後11時をまわったころ。
床に就いてからは 2回ほどトイレに駆け込んでいて、念のため、胃腸薬を服用しました。
ここまではそれほど珍しいことではありません。
そころが それから30分もしないうちに妻が猛烈な腹痛で苦しみだしました。
しかも下からだけでなく上からも激しく戻すようになってしまい、 ─不快な話で申し訳ないです─ 鎮痛剤を服用するも、とても収まりそうになく、ともかく病院の夜間外来へ連れて行くことにしました。
妻の容態はますます悪化していき、車で病院に向かう間も苦痛に身を捩りつつ、ようやく到着した病院の受付には「重症患者処置中でお待ちいただくことがあります」の表示。
順番が来るまでじっと、いえ、呻きながら待ちます。
ようやく順番が回ってきた診察の結果、「急性胃腸炎」とのこと。どうやら いわゆる “胃腸カゼ” のようで...
薬は整腸剤を処方されただけ。念のため翌日内科にかかるよう言われた後に「お帰りください」と。
半分良かったような、そうでもないような... 10年近く前に 似たような症状になったときにはベッドに寝かせられ、注射と点滴をしてくれたのに、今回はずいぶん違います。
とはいえ この程度の診療で治ってしまうわけもなく、耐え難い苦痛が全然収まらないまま、病院の長椅子の上で、床に這いつくばって、2時間近く呻いていた妻。
空も白みかけるころ、ようやく酷い痛みは引いてきました。
いったん家に戻り、勤務先へ休む旨の連絡を入れ、改めて内科へ出直すと、そこはいつもの3時間待ち、3分診療の世界。ここでも胃腸薬が処方されただけでした。
その後 まともに食べれるようになるのにまる1日、そこそこの体力が戻るのにさらに1日かかりました。
この程度で済んだのですから、良かったほうかもしれません。
さて、今回のことを通して感じたこと...
初めに病院へ連れて行くことになったとき、5年前、10年前のの私なら 口にこそ出さないものの、「えっ? マジかよ。まいったなあ。睡眠時間がずいぶん少なくなりそうだし、明日の仕事大丈夫かなあ?」なんて考えていました。
ずいぶん冷たい人間だと思う方々もお見えかもしれません。そんなモンです。人間、意外と自分のことしか考えてないことも多いはず。
さらに、リズム通り睡眠をとって、なるべく規則正しく食事し、平日は就業、という予定が崩れてしまうことに、大きなストレスを感じる性格でした。
いえ、生活リズムだけではなく、仕事もそう。
多くのことに対して計画を立て、その予定が大きく狂う事態に見舞われると、動揺し、何とかして挽回しようというタイプだったような気がします。
また、身近な人が急病や怪我で苦しむ姿を見ると、気が動転するほうでした。今考えると、決して “他人の痛みがわかる” わけではなかったように思います。何とかしようと あれこれ気を揉むのも、たぶん自分自身を、苦しんでいる人に重ね合わせ、“自分だったら苦しい、早く楽になりたい” と感じていたからでしょう。ただの自分勝手な偽善者だったのかもしれません。
苦しんでいる人が 自分と遠い関係の場合、一刻も早くその場を立ち去りたいと思い、見て見ぬ振りをして通り過ぎたこともあります。自分自身が同じ苦しみを長時間味わったら、とても耐えられない、と感じたせいかもしれません。
大の大人である妻が腹を抱えこんで苦痛のあまり転げまわる状況を目の当たりにして、以前の私なら気が動転し正気を失っていました。病院での診察待ちでも、じっと順番を待っているなんてできず、「早く診ていただけませんか」と、受付に詰め寄っていたことでしょう。
しかし今回は比較的落ち着いていました。妻と一緒になって慌てるようなこともしていません。呻く病人を乗せての深夜運転も安全運転でした。何が起ころうと、なるようにしかならない、そんな覚悟が無意識のうちにできていたのかもしれません。
それに他人が苦しむ姿を見ても、多少冷静でいられるようになった気がします。
見方によっては冷酷になってしまったのかもしれません。でも、たかが一個人にできることは限られています。ましてや苦痛に苦しむ人を、私がその苦痛から直接解放することなど、できやしないのです。できることはすごく限られています。
人は人を、思うように助けることはできない。ですから、できることを、落ち着いて、確実にこなすことが大事なのです。そう思うと気持ちが少々楽になり、何回も繰り返される吐瀉物の処理も、それほど苦痛に感じませんでした。
そういえば、こういうときに、若くても実に落ち着いている人がいますね。尊敬します。生まれつき落ち着いているような印象を受けるときもありますけど、おそらくご自身の経験の多さか、育った環境の影響なのでしょう。私もそんな人たちに一歩近づいたのかもしれません。
この日は夜明けまで一睡もせず、 夜明け後もうたた寝しただけで すぐにまた病院へ行き、長時間待つことになりました。予定されていたことならともかく、まったく予定外のことです。以前の私なら激しく消耗していたでしょう。
何年も前に発症した うつ病。たぶんもっとずっと前から私の肉体は消耗していたのだと思います。運動能力などといった、目に見える数値には表れないところで。
しかしこの数年で僅かずつではありますけど、消耗しきった肉体に、計ることのできない体力がついてきたような感触を覚えました。
ところで、病院で診察を待っている間、突然少々年配の看護師さんから声をかけられました。私がうつ病で ここに通院している間、精神神経科の受付をされていた方でした。
「だいぶ酷かったから、転院後どうしたかな、と思っていました。」と優しい言葉をかけられ、覚えていてくれただけでなく、細やかな気遣いまでしてくださり、感激です。合理的経済効率主義ではないところでの、見えない人のつながりまで感じることができました。
今回も個人的なことですみません。
なんだか、あれこれと思うことの多かった、長い長い一日でした。
こころの健康診断 (09/01/25)
勤務先で「こころの健康診断」なるものを受診しました。
紙面上のたくさんの設問に回答するというもの。強制だから仕方ありません。その結果が先日郵送されてきました。私事で恐縮ですが、ここに紹介したいと思います。
※もし関係者の方々がこれをご覧でしたら、どうか気を悪くしないでください。
ここに書いたことは、例外中の例外。採り上げる価値もない、個人的なことですので。
・性格傾向
「前向きなエネルギーが感じられなくなっています」
─そうなんですか...
「人と交わることが苦手な、いわゆる内向的な傾向です」
─まあ、当たってますよ。
「新しいことや、奇妙なものには興味がないというタイプです」
─そうかなぁ。確かにそういうところもあるとは思いますけど。
「こだわりを持たないという性格は美徳ではありません」
─なんか否定表現ばっかりで、私の性格を否定されてるみたいです。
こういう書き方をされると凹んじゃいますね。
・職場環境
「仕事はこんなものだとあきらめムード。仕事への批判的思いは忘れて、
思いっきり仕事に打ち込んでみてはいかがでしょうか」
─仕事好きじゃないですし。
我を忘れるほど没頭するほど熱くなれません...
「職場の雰囲気は悪いし、自分と個々の仲間との関係もうまくないようです。
まず自分の身近なところから変えていこうという考え方をとれませんか」
─仕事は仕事、そんな環境だってあるでしょう。
変えなくちゃいけないものなのでしょうか?
「会社生活での将来に希望がないと感じているようです。
そう感じさせる具体的なものが何なのか、
心当たりの対策を考えることになります」
─私はもう、会社には、将来の夢とか、熱い希望とかはありませんよ。
給料もらえればそれでヨシです。
あなたは希望とか熱意に満ちていていいですな。
・総合コメント
「今回の調査では、精神的健康面で特別な注意やアドバイスをする点は
見当たりませんでした。今後ともこの状態が続くことが望まれます」
─!?
これまでボロクソに言ったあげく、この状態を続けろと言うのですか?
何考えてるんですか? マジメに応えるつもりないですね。
・相談先のご案内
「電話相談、面接予約。お気軽にご相談ください」
─あきれました、まったく。
あんたのとこに相談なんかするわけないでしょう。
他人をコキおろすばかりで、何のアドバイスも無いではないですか。
郵送されてきた結果の紙は、さっそくビリビリと破って捨てました。
久しぶりに非常に不快な思いをしました。これをお読みの皆様にも不快な思いをさせてしまい、申し訳ないです。
おそらく5年前、10年前の私だったら、うん、まずいぞ、何とかしないと。変わらなきゃ、これから気をつけよう、などと思ったことでしょう。
でも今は違います。
それは屈折した性格がさらにどうしようもなく屈折してしまったせいとは言い切れないような気もします。
考え方や性格、生き方は人それぞれ。いろんなスタイルがあっていいはず。
そりゃ、前向きな生き方が理想的で、カッコイイに決まってるけど、そうなれないときだってあるし、必ずそうしなければいけないこともないでしょう。
誰かがお手本を示したとして、それに従わなければならないということはない。
こころのよりどころ、は他者が示してくれるものではなく、ましてや画一的なものではない。個人個人それぞれの中に内在するものだと、年を重ねて思うようになりました。
こんなこと書いているから内向的と言われるのでしょうか。変人の私自身、きっと反省すべき点が多いのでしょう。もっと謙虚に耳を傾け、この屈折した性格も、いいかげん矯正しろということなのかもしれません。
今回はあまりにも個人的な内容で失礼いたしました。
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