小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2010/01/10

過去掲載した編集◇コラム14

  >目次へ戻る

心に刺さった特撮作品 (09/11/15)

今回もマニアックな話題で申し訳ありません。
どうでもいいことかもしれませんけど、40代以上の諸兄にとって、心に残る特撮作品がある方もお見えでしょう。
マニアの間で名作として知られる、ウルトラセブン「ノンマルトの使者」だったり、あるいは 帰ってきたウルトラマン「怪獣使いと少年」あたりだったり。
スペクトルマンDVD 私にとっては、以前ここで取り上げたスペクトルマン第48・49話(2話完結)が十分トラウマになっているのですが、もうひとつ、トラウマになってしまった作品があります。

同じスペクトルマンの第59・60話(2話完結)です。
DVDレンタルが無い上に、映像上 間違っても再放送されることは無いと思いますので、ここで非常に簡単にあらすじを紹介します。


ジェノス星人は特殊な薬品を使い、人間の死体を多数蘇らせ、ゾンビを都市に放って大量無差別殺人を行う計画を進行させていました。その企てを、類まれな予知能力により察知する少年ジュン。スペクトルマンの人間体:蒲生譲二に偶然出会ったジュンは、譲二がスペクトルマンであることを看破するのでした。
殺人事件を防ぐため、ジュンは譲二とともに敵のアジトを発見します。
出現した怪獣ドクロンに譲二はスペクトルマンに変身して応戦しますが、苦戦。ジュンは 能力を使う際の頭痛や体力の消耗も構わず、そんなスペクトルマンにテレパシー交信を試み、ピンチを救うのでした。

ジェノス星人のアジトを急襲するも、逆に捕らえられ、拷問を受ける譲二。
そこで少年ジュンはまたしても彼を救出するのでした。
再び現れた怪獣ドクロンに、拷問で視力を失ったまま立ち向かうスペクトルマン。
一方的にやられまくるスペクトルマンを救うべく、ジュンはその能力をフルに使い、怪獣の弱点を探り当てると共にテレパシー交信を行い、目が見えないスペクトルマンを助けます。
怪獣が倒されるのを見届けたジュンは、生命力を使い果たし、その短い生涯を閉じてしまうのでした。


この物語、一見すると自己犠牲がテーマになっているように思われます。
確かに他者のために自らが犠牲になるという構図は、美しく見えるのかもしれません。
ただ、自己犠牲の物語ならほかにもあります。ザンボット3の宇宙太とか、ファーストガンダムのリュウとか。
しかし私の心に刺さってしまったのは、ザンボット3でもガンダムでもなく、このスペクトルマンの物語なのです。それはなぜか?

もちろん、作品中の過激な描写─ゾンビによる無差別殺人シーンや、蒲生譲二が拷問でボコボコにされた挙句、ガスバーナーで眼を焼かれるシーンも、目が見えないスペクトルマンが、プロレスの流血試合のごとく、敵にいたぶられるシーンも、それだけでトラウマですけど、本題は他にあります。

少年ジュンは結果的に侵略者を退け、地球を救った形になりました。
でもそれがジュンの願いだったのでしょうか?
ジュンはなぜ能力を使い、自らを犠牲にしてまで譲二のピンチを救ったのでしょうか? 能力の使用を、譲二に止められていたにもかかわらず。
それはジュンの恵まれない境遇にヒントがあると思います。両親を亡くし、兄弟もいない孤独なジュン。さらにその特異な予知能力のために、周囲の信頼をなくし、のけ者にされ、社会から孤立していました。

「僕は生きていても仕方ないんだ」 そう話していた少年ジュンは、しかし、仲間と距離があって気持ちの上では孤立していた譲二と出会い、「僕たちは友達だ」と言われたことで、心を開いていきます。
譲二が普通の人間だったなら、ジュンも命を落とすことはなかったのかもしれません。能力を使わないよう、譲二にも忠告されましたし。
しかし譲二は侵略者と闘う使命を帯びていて、劇中幾度もピンチに陥ります。
言われたとおり、安全なところに身を潜めていればいいのに、なぜジュンは 譲二のピンチを救うべく能力を酷使したのでしょうか?


ここからは私の勝手な推測になります。

ジュンは “自分のため” に能力を使ったのです。
孤独なジュンは、唯一の理解者であり友人である譲二を失いたくなかったのです。やっと見つけた自分の居場所だったのです。
その場所を必死で守ったのです。人類を救うなんていう崇高は目的は、あまり考えていなかったように感じます。ジュンは何かの犠牲になったのではない。譲二を救うことで、ジュンは居場所を守り通したのです。
もっとも、これは決して美しくもなければ、立派な行為でもない。
ジュンが誰にも看取られることなく、枯れ草だらけの草原で一人倒れこみ、絶命する描写にも、それが現れているのかもしれません。



人間は寂しがりで、弱い。それは普通の人だけでなく、孤独な人間なら なおのこと。良いとか悪いとか批評できる類のものではありません。

そんな、人間の弱さを思い切りえぐっている、この少年ジュンの生き様が、私の心にいつまでも刺さってしまっているのです。

旅とは (09/09/20)

 学生時代を経てから社会へ出て もう20年以上。夏を迎えるころには毎年 “旅” に出たくなります。
でも、日ごろ忙しいことを言い訳に、なかなか綿密な準備や情報収集もままならず、あまり満足な夏が過ごせないまま、夏が終わってしまう。そんなことを繰り返している気がします。
 タチの悪いことに、その “旅” 願望はくすぶり続け、秋の気配を感じるころには後悔の念さえ覚えるほどになることもあります。
いえ、もしかしたら どんな旅に出ても、完全に満足することなど ありえないのかもしれません。


 皆様にとって “旅” とは何でしょうか?
それは家族旅行を指すものだったり、温泉巡りだったり、まだ見ぬ景色を眼に焼き付けるためのものだったり、○○へ行ってきたという記録のためだったり、その目的もスタイルも人によって実に様々だと思います。
普段なかなか乗ることができないバイクを、存分に楽しむのが旅、というのもアリですね。あの、全身を使って、自然の中に飛び込んでいく感覚。他に代え難いものがありますし。

七つの自転車の旅  こんな方もお見えです。─『七つの自転車の旅』 白鳥和也著
自転車での旅が紹介されることも決して珍しくはなくなっていると思いますけど、たいていは観光がメインだったり、地元の人たちとのふれあいだったり、グルメだったり、あるいは大変だった道中の苦労話だったり。
 この本は少々違います。紀行文と文学とのクロスオーバーという書評を全く考慮しなくても。確かに地域の方々とのふれあいや、仲間との友情とか助け合い、観光的要素も入っていますけど、自転車モノにありがちな、汗臭さや泥臭さが薄いだけでなく、同じ場所を何度も訪れるという、目的達成型とは異なるスタイルだったりします。
 感動を求めているわけでもない。郷愁に浸るわけでもない。訪れた土地との一体感というか、人々や名物、名勝だけでなく、その土地を構成している過去のものも含めて体感したい、というような好奇心が底にあるようです。現代社会の、我が物顔で闊歩する人間社会ではなく、拝金主義まがいの経済活動でもない。自然を敬い、畏れ、共存し、利用し、時に抗う。そんな、目に見えない人間の営みが、見えてくるような気もしてきます。こんな旅もしてみたいですね。


 オートバイでのツーリングも、もちろん楽しいし、やめられるものではないのですけど、、私にとって “旅” の道具は やっぱり自転車。特に宿泊前提の旅となると なおのこと。ここ数年で その想いが強くなりました。
自転車で1泊以上、峠道なんかがあって、なおかつ人が少なくて、寂しい雰囲気すらあって、でもほんの少し人の手が入っているところでしたら言うことなしです。
 なぜ自転車なのでしょうか? なぜ峠なのか? なぜ人が少ないところなのか?
こうだ、とはっきり答えを出せるわけではないのですけど、もちろん “旅” を通して充実感とか、達成感も欲しい。心地よい疲労も。絶景も、季節感豊かな自然も。地元の人たちとのふれ合いも。
そう、現実逃避だってしたい。

 しかし、最近わかってきたのです、もっと大事なことが。
それは “己の肉体との対話”。
 売り上げとか、組織への貢献度とか、効率とか、納期とか、市場経済中心の現代社会に身を置いていると、日ごろ使うのは頭ばかり。もちろん体も使ってはいるのですが、なんだかそれは本来の姿から遠く離れているような気がしてなりません。知らず知らずのうちに、“頭” で生きている私は、自らの体との対話が無くなっているのです。自らの “心” とさえも。
飯田峠  そんな私が、失ったバランスを取り戻そうとする行為が “旅”。
日常生活の延長ではダメ。
ジムでのエクササイズも、プールも、一見 体を追い込むことはできますけど、“対話” にはなっていない。観光地を見て回るだけでもダメなのです。
 悲しいかな、自転車の旅で、自らを少し追い込むようなことをしないと、心や体と、まともに対話できなくなっているようです。
 日常、周囲との信頼関係はもちろん大事です。しかしそれ以上に、“自分” をないがしろにしてはいけない。
“自分の体” との信頼関係が大事なのです。
その信頼関係を構築・修復するために “旅” に出たいのかもしれません。


 ああ、また変なことを書いてしまっています...

 “旅” に行きたいから行くんですよね。そもそも理由なんていらないのです。行きたい気持ちに無理に理由を付けたり、細かいスケジュールを決めたりするほうがナンセンスなのかもしれません。

アルジャーノンに花束を (後編) (09/08/02)

 (前回の続き)

スペクトルマンDVD  マニアだけの名作にしておくのは惜しい、70年代の特撮作品『スペクトルマン』の第48・49話。
この前後編は『アルジャーノンに花束を』をベースに作られたであろうことが知られていますが、前回紹介した同名のドラマとはずいぶん違った趣になっています。
 残念ながら現時点ではレンタルショップに無く、まともに見ようとすると、DVDを購入するしか選択肢が無いようです。ネット上を探せば、あらすじを紹介したサイトがいくつかありますけど、ここで簡単に触れておきます。

 そば屋で働く、知的障害を持つ青年・三吉は、IQ増進剤を発明した堂本博士による脳手術を受け、その後短期間で知能が正常化したばかりでなく、飛躍的に高まった挙句に医学博士になり、天才科学者としての名声が高まっていきました。
 一方、三吉よりも先に脳手術を受け、やはり高度に知能が発達、因数分解もできるまでになっていた犬のボビーに異変が発生。凶暴化し、怪獣化して人間の脳を食らうようになったボビーは、スペクトルマンに退治されたのでした。
 やがてその異変は、堂本博士が宇宙猿人ゴリに操られていることを見抜いた三吉にも訪れます。自らの異変を防止する研究を重ねていた三吉は ある夜 激しい頭痛に襲われた後に、怪人化(怪獣化)してしまいます。
研究室の大脳標本を食べるだけでなく、通行人を襲って、その脳を貪る三吉。
 まだ怪人化(怪獣化)が完全ではなく、人間の姿に戻った三吉は、罪の意識に苛まれるも、スペクトルマンの人間体:蒲生譲二に説得され、怪獣化を防ぐ研究に没頭します。
 しかし昼夜を問わない、その懸命の努力も空しく、三吉はとうとう怪獣化してしまうのでした。全人類を一瞬で廃人化するゲラニウム爆弾をその手に携えて。
やむを得ず譲二はスペクトルマンに変身、怪獣化した三吉:ノーマンと対峙します。
けれども、ノーマンには まだわずかに三吉:人間の心が残っていたのです。
 自分を殺してくれと懇願するノーマン。肉体の制御ができなくなりつつあり、爆弾を持つ手を必死に押さえながら「人間として死なせてくれ」と叫ぶノーマンに対し、スペクトルマンは躊躇するも、他の選択肢を知りませんでした。

 ノーマン絶命後、場面は質素な三吉の墓標が立てられた、誰もいない丘の上になります。キャストも、ナレーションも無く、簡素なBGMのみ。小児向け番組としては異様なエンディング。スペクトルマンが超能力を使って、三吉を元に戻すとか、他の惑星に連れて行くとか、おとぎ話のような展開は一切無し。三吉は救われなかったのです。

 前回触れたドラマ『アルジャーノンに花束を』が軟着陸だったのに対し、こちらは破滅的な結末。おそらく一般には受け入れがたい印象を受けるはずです。
私も幼稚園児だったころ、この作品を見て一発でトラウマになってしまい、その後ずーっと忘れられなくなってしまっていたのも、無理のないことなのかもしれません。

 三吉が怪獣化した、ノーマンのデザインも印象的だと思います。人造人間キカイダーに出てきた宿敵:ハカイダーや仮面ライダーBlackに登場したシャドームーンのような強くてカッコイイところは微塵もありません。憎めない愛らしさもありません。とにかく異様。頭でっかちで、その体は 羽化したばかりの昆虫をも連想させる生々しさ。
 “標準” から見れば “規格外”。しかし、彼は人間なのです。私たちと同類なのです。キモくてコワイ。だから余計に、幼児にとってはオソロシイのかもしれません。

 話を元に戻しましょう。とにかく考えさせられる作品です。
ドラマ『アルジャーノンに花束を』を見ると、手術は完全に成功したとはいわないが、手術を受けてよかった、何よりも仲間に囲まれていれば幸せ、という感想を持った面々も、この作品を見た後では まるで正反対の感想を持つことになるかもしれません。
 三吉が昔を回想する場面で、頭の良い事ばかりが幸せにつながるわけではないということが 今になってわかった、と言ったように、高望みするとロクなことはない、とか、障害者は障害者として生きるのが幸せとか。良くも悪くも あれこれと考えさせられることになるかと思います。


 せっかくなので、ここでもっと深く考えてみましょう。
“手術” は主人公たちを幸せにしたのか? 言い換えると、“救う” とか“保護”とか “矯正” とかといったアプローチが、果たして障害者にとって幸せなのか?
 もちろん様々なケースがあって、一概に良いとか悪いとか判断できないと思います。
でも私には、こういったアプローチが、障害者でない人たちの価値観によって構築されたもので、障害者の人たちを、そうでない価値観の世界へ無理やりに引きずり込むかのような考え方のような気もしてくるのです。合理的思考に凝り固まった、私たち現代人は忙しく、じっくりと問題に向き合うのが苦手です。物事は性急に分析し、解決しなければならない。無意識にそんな思考パターンになっている諸兄も多いはず。
 あるいは昔ながらの村落共同体意識を引きずり、“同化” あるいは “協調” できないものは早急に矯正、もしくは分断すべきである。無意識にそんな感覚にとらわれているのかもしれません。
 障害者の方々に対しては、援助を差しのべ、自立支援、時には矯正するのが良い、そうやって障害を持たない人たちのペースにできるだけ合わせることが、すべての障害者にとって幸せである、そういう発想に陥っているのではないかと。

 私の個人的な感触ですけど、こういう考え方は “切り捨て” とたいして変わらないような気がします。自分たちの価値観から出ていない。他の世界を想像できない。
 考えることを拒否しているのです。合理的思考を重視するあまり、あるいは旧来の村社会意識を引きずり過ぎていて、現代社会は発展しているともいえずに、逆に退化している部分もあるのではないだろうかとも思えるのです。

 ドラマでは、ハルを嘲笑したキャストに憤りを感じた面々も、障害者には温かい援助を、と考えている面々も、いざリアルな知的障害者を目前にすると、キモイとか、コワイとか、避けてしまうケースも少なくないのではないでしょうか。これだって、“切り捨て” ているのかもしれません。他人の気持ちがわからないのです。以前、私もそうでした。

 現実には、細分化された、実に様々な障害があり、日々治療に苦しんでいる方々がいます。私もかつて うつ病の治療に苦しんだ経験者として思うのですが、果たして障害者の方々、個々の気持ちを汲むことができているのかどうか怪しい気がします。こういった“治療”とか“矯正”という考え方に沿わない方々を、どう捉えるのか、疑問を感じることもあります。
 結果的に世間は病人と認定、早期回復を強要するとともに現実社会への適応を強いる。適応できない者は切り捨て、疎外する。そんな社会が心から望ましい姿なのかどうか、本当はわかっていないのに。

 仮に合理的でないものや弱者を、切り捨てて、もはや関係ない、と思っていても、実はその関係は断ち切れていないような気もします。仮に親子の縁を切ったとしても、親子だという事実は決して変えることができないように。
 世の中が合理的なものだけで構成されることはあり得ないのではないかと思います。ひとつの価値観で構成される村落共同体というのも、現実的ではありません。物事には裏表があり、その内部に必ず不協和音を内包しているからです。ちょうと光があるところに必ず影があるように。
 実際の社会では、強者の論理とか、勝ち組の理屈が正しいのかもしれませんが、弱者には弱者の論理があり、負け組の世界がある。強弱とか勝ち負けとか障害があるとか無いとかというような、一元的な見方では収まらないような気がします。そうかといって、これだ!という解決策や考え方が見つからないことも、問題を複雑にしている一因なのでしょう。

 すっきり解決できない問題も、かなりじっくり取り組まなければならない課題も、世の中には相当に多いことに私自身が気づいたのは、ここ数年のことです。
 あのドイツ人女性は、既に気づいていたのかもしれません。

アルジャーノンに花束を (前編) (09/06/07)

 もう5年以上前の話です。 その日の仕事も何とか終わり、来日した、取引先のドイツ人と夕食を食べたときに、急にこんなことを訊かれました。
「日本に来たら不思議に思うことがあった。駅や街中で、障害者を ほとんどみかけない。なぜか?」

彼女が疑問に思うのは身体障害者だけでなく、外見でわかるような、知的障害者や精神障害者を含んでいました。他にも同席者はいたのに、どうして私に質問をしたのかはわかりませんが、当時、そういった障害者の方々には ほとんど関心が無かった私は、回答に困りました。
 日本に障害者がいないわけではありません。つたない英語で こう答えたのを憶えています。
「おそらく偏見や迫害、嘲笑を恐れて外に出づらいし、同居している親族も、他人に迷惑をかけたくなかったり、世間体を意識してか、あまり外に連れ出さないと思う」

 そのときの彼女の不思議そうな、それでいて どことなく悲しそうな表情を、私はたまに思い出すのです。


 それからあまり時間が経たないうちにTVドラマが放映されました。「アルジャーノンに花束を」という題名で、ハルという知的障害を持つ青年の、見ていた人も多かっただろうドラマです。私も何気なく見始めました。
 主人公が からかわれたり、イジメられたりするシーンでは、相手側への憤りを感じ、ラブロマンスもどきの場面では もどかしさを感じたり、泣いたり、笑ったり。
 最終的に主人公は周囲の理解を得て救われます。手術を受けて良かった。バラ色の結末とはいきませんが、いい感じのところに軟着陸。早い話、ひとつのハッピーエンド。おそらく多くの人がそうであったように、私もそれで満足し、年月とともにこのドラマの存在を忘れていきました。

 ところが数ヶ月前、ふと立ち寄った書店で、原作の文庫版を入手しました。その本を読み進めるうちに、原作はTVドラマとは別物であることがわかりました。いえ、TVドラマが 原作を逸脱して作られた、そうせざるを得なかった、と言うべきでしょうか。

アルジャーノンに花束を  TV映像では どうしても視聴者は 第3者的視点から入ります。窓からドラマの世界を覗くような感覚とたとえればいいのかもしれません。
 対して原作は 主人公の手記の形で進み、主人公の知的成長、そして退行を通して、驚きや喜び、苦悩を深く掘り下げています。
 急激な知的水準の上昇に追いつかない、青年期の感情。それがときに爆発し、暴走し、無理解や利己主義への怒りが憎悪へと変わり、逆に周囲に対する蔑視をも生む。意識は凝縮せず、四散する。
 それは社会的問題提起にもつながる要素を含んでいます。高度に効率化・情報化され、利便性の高い社会が、万人に理想的な幸福をもたらしているのだろうか? 限界に達した歪みは亀裂を生じ、行き場を失った隠ぺい物が噴出する。
 だから感情をコントロールすればよい、といったような、安易な問題ではないように思います。
しかし、私には 著者は社会に警鐘を鳴らしているのではなく、あくまで読者個人の内面に問いかけているような気がするのです。

 物語は決してハッピーエンドではなく、解決されないままの事柄も多く残しつつ、手記が終わっています。ドラマのような、それほど考えることも少ない作品とは ずいぶん違い、考えさせられる小説です。


 もっとも、だからといって、私たちにTVドラマを責める資格はありません。
昨今はTVでも何でも、“考えさせられる” 作品は敬遠されるようです。
障害者のドキュメンタリー作品を放映し、その作品が前向きでなかったりハッピーエンドではないと、局に苦情が寄せられたりすることもあると聞きます。
「見たら気分が落ち込んだ。こんな作品を見たいのではない」
「私は前向きになりたいのに、困る。もっと元気が出る番組を放映してほしい」

何て思考範囲の狭い、しかも自分中心の発想でしょう。
この日本に、苦しみつつ生きている人々がいるというのに、その人たちの気持ちを想像できない、いえ、考えてみようとする気持ちすら無いようです。
「他人の気持ちを想像したからといって、何かが解決するわけではない」
そういう合理的な考え方の方々もお見えなのでしょう。
それが正しいのかもしれません。


 ところで70年代には、TV作品でも “考えさせられる” 名作があったのです。(続く)


      目次へ戻る