過去掲載した編集◇コラム15
続)正解はどれでしょう?」 (10/06/26)
休日の県道、片側一車線で黄色のセンターラインが続く道。地方道路とはいえ、路線バスも走り、交通量も多いほうです。天気は快晴で、暑いくらいでした。
4輪で移動中の私は、前方をのろのろと走る軽自動車につかまり、低速運転を余儀なくされていました。制限速度40km、通常の流れはそれ以上の速度がごく普通の県道、渋滞しているわけではありません。
しかし この軽自動車は時速20〜30kmでよろよろと走るばかりか、交差点近くでもないのに、時折思い出したようにブレーキを踏んでいるのです。
私の直後の小型乗用車は業を煮やしたのか、たまたま出くわした左折レーンを利用して、後方からダッシュ、私の車とこの軽自動車まとめて2台、左から強引に追い抜いていきました。
その次に私の後方につけたVIP系セダン。対向車線にパトカーがいるのにもかかわらず、右折レーンに入ったかと思うと急加速、そのまま強引に直進し、交差点内で2台をパス、軽自動車の前に割り込んで先へ行ってしまいました。
こういった場合、貴方ならどうしますか?
そして正解は次のうちどれでしょう?
(1) 周囲のペースに合わせない車に、自分まで合わせることはない。
周囲に気を配りつつ、しかし迅速に追い越す。
(2) 片側一車線かつ追い越し禁止だし、この軽自動車が進路を変えるまで、
我慢して後ろを走り続ける。
(3) たぶん飲酒運転だろう。ナンバーを控えて通報する。
私だって、フツーの人間。我慢にも限度があります。
対向車が途切れたのを確認し、(1)作戦を開始しようと、アクセルを踏み増して、ハンドルを切る準備に入った、そのときでした。
ふと前の軽自動車の車内が視界に入り、運転席の背もたれから少々はみ出したドライバーの背中が見えました。そのルームミラー越しに見える、顔の一部から想像するに、どうやら年配の男性で、なぜか苦悶の表情を浮かべているように見えたのです。
決して飲酒運転ではありません。
どこか体の調子が悪いんだろうか? もし身をよじるほど苦しいのなら、早く運転を止めて休むなり、助けを呼ぶなりしたほうがいいのに。いや、そうできない、何かせっぱつまった事情があるのかもしれない...
すっかり、(1)作戦実行の意欲を削がれた私に対し、
「クラクション鳴らそうよ」
助手席の妻がそう言いました。
クラクションを鳴らして何になるというのでしょう。
前車のドライバーに、停まって道を譲れということを気づかせるためでしょうか? それが伝わるのでしょうか?
私はクラクションを鳴らすこともせず、そのまま低速走行を続けた後、目的地周辺で県道をそれました。
もしドライバーの体の具合が悪いとしたら、クラクションを鳴らされ、邪魔だとばかりに次々と追い越され、それだけでなく非難の目を向けられて、ドライバーは どう感じるでしょうか?
現代の交通社会で、周囲の流れに合わせないドライバーは迷惑な存在とされます。安全面からも身勝手な、マイペースな運転は控えるべきだと思います。 しかし、何か事情があって周囲のペースに合わせることが困難なドライバーがいたとしたら。
私たちは ときに、そういう “異質なもの” を排除しようとします。そして “異質” が迷惑な存在であり、当人に原因があると決めつけることだって少なくありません。
現代日本の交通社会に、心にゆとりをっていっても難しいのかもしれません。
今回も正解はありません。あるのかもしれませんけど、個人的には無いことにしたい。
私は4輪を運転すると、疲れを感じるほうです。
なぜなら周囲に合わせないといけないから。
運転を負担に感じるのは、きっと私自身が未熟だからなのでしょう。
一方、2輪、オートバイや自転車は、制約はありますけど、より “自由” な雰囲気を持っていて、それだけでも私にとっては とっても魅力的なのです。
カーネル 「神はわれわれを選んだのだ!!
わかったか
同じ誤ちは二度と起こしてはならん!
それには優秀な民族
同じ思想で統一された民族が必要なのだ」
ケンシロウ「すでにそれが誤ちであることに気づかないのか!?」 ジャンプ・コミックス『北斗の拳 第2巻より
正解はどれでしょう? (10/05/16)
休日の昼に、とあるエスニック料理店に入ったときのことです。ランチセットの価格がたしか\1,200ほど。
すごく庶民的ではないが、かといって気取ったわけではない、一応チェーン店。
そこでランチセットをパクつき始めたのですが、なんだか隣の女性グループの席が騒がしくなりました。
別に聞き耳を立てたわけではありませんが、騒いでいる声が聞こえてくるのだから仕方ありません。
どうやら注文した料理に髪の毛が入っていたらしく、それが太めで短いことから、客側のものではないと言っているようです。
こういった場合、貴方ならどうしますか?
そして正解は次のうちどれでしょう?
(1) レストランで出された料理に髪の毛が入っているなんて、不潔極まりない。
すぐに料理を取り替えてもらう。
(2) いや、それだけでは気が済まない。
店としてはどう考えているのか、店長か支配人を問いただし、謝罪してもらう。
(3) 昼どきだし、店の人たちはとても忙しそうだし、声をかけるのはやめておこう。
しかたないけど料理は残す。
私だったらどうするか?
店の人に声をかけることもしないし、料理を残すこともしません。魚の小骨を扱うかのごとく、髪の毛を取り除いて、料理はそのまま食べてしまいます。もちろん髪の毛は入っていないほうが望ましいですが、1本や2本入ったところで、特に不潔とは思いません。もちろんこれは程度問題で、あまりにも長い毛だったり、本数が多かったり、見てわかるほど整髪料が付着していれば事情が違ってきますが、そんなことよりも、強力な界面活性剤がたっぷり入った合成洗剤のカスが残っているほうが困りますし、たっぷりと化学調味料が加えられているほうがイヤなのです。
これも程度問題ですが、小さい虫が入っていても不潔だとは思いません。そもそも食材についていた虫なら不自然ではないからです。
料理がおいしければ良いのです。料理に対する姿勢は味に現れると感じていますし。
ところで、私の考えを他人に押しつけようとも思いません。
いくら小さくても虫の姿を目にしただけで食欲が失せる人もいるでしょうし、異性の髪の毛は生理的に受け付けない人もいるでしょう。人によって価値観や感じかたは異なるのが当たり前です。
しかし、10年前の私は、きっと(1)を選んでいたことでしょう。そうするのが当たり前だと思っていたから。
友人や仲間の手前、何か言わないとカッコ悪いような気がするから。
当たり前だと思っていたのは特に深く考えず、常識だととらえて思考停止していたのです。
カッコ悪いような気がしたのは自分に自信が無く、属している集団内の居場所とかポジションとかを常に気にしていて、それ以外の人々に対する配慮が全くできていなかったのです。関係ないと思っていたのです。
今では おバカだったと思っています。
というわけで今回の場合、正解はないのです。
そんな〜ズルイ、という意見もあるだろうし、なるほど、という感想をお持ちの方も見えるでしょう。
ケッ、バカバカしい、という向きもお見えでしょう。
それでいいのです。
それぞれがそれぞれの意見を持つこと。
それぞれの考え方があること。
他人に流されないこと。
こういったことは なぜか学校でも職場でもおしえてくれず、日本人にとってはやや違和感があるのかもしれません。
ちなみに冒頭の女性グループは、丁寧にマネージャーに苦情を述べ、料理を取り替えてもらった上に、マンゴージュースをサービスしてもらっていました。
いいではないですか、これも模範解答のひとつなのでしょうから。
いつまでたっても (10/03/14)
出先でCDショップに立ち寄ったとき、目に入ったのです。
思わず見本を手に取り、試聴し始めると、ヘッドホンから懐かしい音が聞こえてきました。
デジタル・リマスタリングというけれど、もうずっと聴いてないとはいえ初期のCDなら全部持ってるし、今さらねえ… と思いつつも、すぐには試聴を中断できずにいました。
間もなくボーカルが、ギターが、私の心に突き刺さり、忘れたはずの、昔々の埋もれた記憶とともに、胸の奥から何だか熱いものがこみ上げてきたのです。
華やかで楽しかった記憶なんて無い、あの頃。
最後までキャンパス・ライフというものに馴染めなかった自分。周囲からは それなりに立ち回っているように見えていたのかもしれませんが、何をどうしたらいいのか、常にわからない状態でした。夢とか、将来への希望も何もなく、体の内側からわき出るエネルギーなんてものも感じたことはありませんでした。
学生生活もあと半年あまりとなったころ、それまで3年近くバイトしていた頭脳労働系職場の人間関係や勤務体系に疲れきった私はそこを辞め、何を思ったのか夜間の肉体労働系バイトへ転向。人間関係も悪くなかったし、変なかけひきも無く、今思うと ここがもっとも居心地が良かったような気がします。
社会人になり、そことなく華やかな部分を見たこともありました。
しかし不器用な私は会社生活に馴染めず、自分がなぜか惨めで、苦しく、周囲に合わせることができない苛立ちやもどかしさ、何をしたらいいのかわからない閉塞感に満ちていました。
会社の先輩にブルーハーツの音楽を鼻で笑われ、ブルーハーツのコンサートに行って跳ねるも、すぐに体力を消耗...
ブルーハーツに惚れ込んでいた何年かはそんな時期でした。
実家から独立し、これから先、自活して生きていくために、一生懸命背伸びして、自分を世間に合わせていくのに懸命だったのかもしれません。
今、あの頃からいったい何が変わったんだろう?
私の社会人としての、この22年間って、いったい何だったんだろう?
たしかに持ち物は増えたし、守るべきものもあるし、年は重ね、経験も増えた。
でも変わったのは見かけの、外郭の部分だけ。
世間という、まるで得体の知れない乗り物から脱落してしまわないように、自分をごまかして必死でやってきたような、そんな気さえしてきます。
その見かけの部分を除いてしまうと、心の核の部分は 実はなんにも変わっていないのかもしれない。
夢とか、将来の希望なんて相変わらず無い。
周囲に合わせることができず、かといって開き直ることもできず、自分を偽り、背伸びしようとする。その結果、病んで組織から落伍。不器用なのはちっとも変わっちゃいないじゃないか。
旅に、ロングツーリングに出たい。放浪したい…
試聴していた私に、そんなもろもろの思いと、ぐちゃぐちゃな感情とか入り交じり、涙が浮かんで こぼれそうになってきました。
もうこれ以上聴き続けることができません。
早々に このCDを手にしてレジに並んだのでした。
いつまでたってもおんなじ事ばかり
いつまでたってもなんにも変わらねえ
いつまでたってもイライラするばかり THE BLUE HEARTS 『平成のブルース』より
「いい年して、ブルーハーツなんか聴いてるんじゃねえよ」
そうなのかもしれません。
多数派の人たち、日なたの人たち、あるいはキレイな世界にしか縁のない人たち、努力すれば報われる人たち、変わってしまった人たちにとっては。
だけど、なんにも変わってない自分だって、悪いもんじゃない。
妙に ものわかりが良くなるよりも、マシなのかもしれません。
生きる目的 (10/01/10)
ケンシロウ「ユリア……」
シン 「フッ おまえのことは完全に忘れたとさ
あの時おまえの命と引きかえにな
おまえはユリアのおかげで七つの傷だけで済んだのだ!」
ケンシロウ「忘れてもいい 生きていてくれただけで」 ジャンプ・コミックス『北斗の拳』第1巻より
いきなりですが、あなたは何のために生きていますか?
子供のため、家族のため、会社のためという人は多いのでしょう。
夢の実現のため、という人もいることでしょう。
そんな対象があって日々頑張れる人は強い。と同時に脆くもあるような気もします。
その対象物との関係性が崩れてしまうと、生きる目的を失いかねないから。
いずれにせよ、この問いにすぐに答えられる人は幸せなのかもしれません。そんなこと考えてるヒマはないという人や、とにかく食べていくのに精一杯で、そんなことは二の次だという人も少なくないと思います。ヒマがあったら働け、生きる目的をあれこれ考えるなんて ただの甘え、という人も。
ともかく、生きる目的は人それぞれだと思います。
小さいころから既に素直でない性格だった私、小学校高学年にさしかかると、人は何のために生きてるんだろう? 自分はなんで生きてるんだろう? と時折考えこむ、ヘンな子供でした。
その質問を両親にぶつけても、期待するような答えは返ってこないであろうことが何となくわかっていたし、友人にきいてもダメそうだし、学校の先生も、親戚のおじさんも、従兄弟もそう。
子供らしくなく、一人で悶々としていたある日、バスの中で知らないおじいさんに席を譲ったとき、お礼を言われた、その笑顔が印象的で、長い間の疑問が解決したのです。“そうだ、ボクが生きてる目的は、他人に喜んでもらい、笑顔になってもらうことだ” と。
その答えは どうやら現代日本の社会構造、市場経済、合理的思考とも うまく合致していて、疑問を挟む余地が無いどころか、“立派な考え方” として、世の中に通用するであろうことも、私の自信につながったのです。
そして その後の学生生活でも、社会人になってもその自信が揺らぐことはなく、自立した生活を送り、仕事という役割を与えられたことによって、世の中と価値観を共有し、ますます自信を深めていきました。
他人の役に立ちたい。
他人に必要とされる人でありたい。
それにはまず健康でありたい。
生活基盤もしっかりしていたい。
自分自身のスキルも磨きたい。
これらは一見、志の高いものに見えます。実際そうなのかもしれません。
しかし、別の側面からこれらを見ると、“欲” が見えてきます。
“自分の人生は自ら切り開いていく”、 “人生をコントロールしたい” という欲なのです。
世の中には成功談やハウツーものの情報があふれています。おそらくその多くは強者とか勝ち組が提供した情報。強者が成功するのは当たり前。
働かざるもの食うべからず。成功しないのは努力が足りないから、なんて言われることもあります。
だから、“人生はコントロールできるんだ” なんて思ってしまうんですね。
そんな私が ずいぶん前に うつ病を罹患し、早期回復は望み薄だとわかったとき、絶望は深いものでした。
他人の役に立てないから。他人に必要とされてないから。
長い間信じこんできた、“他人に喜んでもらう” という生きる目的は このとき崩れ去ったのでした。
“自分の人生は、自分のものではないのかもしれない”
他人の役に立てず、社会にとって無用の長物と化した私。何の価値もないどころか、日々エネルギーを消費し、温暖化ガスを放出しているのだから、逆に迷惑な存在なのかもしれない。
希望など持てないまま、長い間苦しみました。
傍から見ればただ一日中伏せたり起きたりのグータラ人間に見えたことでしょう。
なぜ私は生きているのか、考えていました。そんなグータラ人間だって苦しんでいたのです。
結局その答えは出ませんでした。
私が生きる目的は わからなかったのです。
でも、何となくわかったことがあります。
生きる目的そのものはわからないけれど、人は “生き抜く” ために生きてるということ。
人は必ずしも何かを為すために生きているわけではない。他人の役に立つ立たないだけが、その人の価値を決めるわけではありません。
それよりももっと大きな価値、それが “生き抜く” ということなのではないかと思います。自分本位に生きることとは違います。他人よりも自分、という考え方でもありません。排他ではなく、むしろ周囲との共生。それも “生き抜く” 手段ですから。
病気をしてわかったのです。生き抜く、ということが いかに大変ですごいことか。今日を生き抜いた人は、それだけで実はすごいのです。あなたも、私も。世の中の人すべてが。
充実した生活を送っていようが、何となく生きていようが、今日を生きている人たちはすごい。ましてや何十年も生き抜いた、年配の人たちにはもう、ただただ感嘆です。病気だろうが、無職だろうが、引きこもっていようが、“生きる” 人たちのことを とやかく言う権利は無いのです。それぞれの命の重みに、差は無い。
命の大切さは、経済活動で測れるものでもなければ、地位や功績で測れるものでもない。つき合いが多い少ないで測れるものでもない。
“生き抜く” のは目的であり、権利でもあり、義務のようでもあり、そもそも何かのカテゴリーに分けるのが不自然なほど、実は崇高なことなのかもしれません。
フロントランナーでなくていい。リーダーでなくてもいい。
周囲とか世間に過剰に合わせる必要もない。やりたいことができなくともよい。
安心して、生きている限り、今日を生き抜こう。
それぞれの人たちの、それぞれの人生を大事に考えていこう。そう思うのです。
Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today... John Lennon 『Imagine』より
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