過去掲載した編集◇コラム18
旅と出会いと[2] (11/12/18)
立てた計画を消化する旅。
事前に入手した情報を、旅先で確認する旅。
知らない土地に同質なものを探す旅。
そういった旅では、異質なものに出会っても、気づかないし、わからない。旅に連続性はなく、行って帰ってくれば、それで終わりという感覚です。かつて私の旅はそのようなものでありました。
それが悪いというわけではありません。むしろ時間を効率的に使って目的地を巡り、無駄なく名物や名産品を手に入れる。観光業的にも地域経済に最も貢献するスタイルなのかもしれません。
10月に旅した、しまなみ海道〜四万十川〜土佐では数々の出会いがありました。
自転車店のイベントツーリングで一緒に走った、遠隔地在住の参加者、松山のビジネスホテルで自転車への思いを語ってくれた女性従業員、折りたたみ電動アシストサイクルで四万十川沿いを走っていった初老の男性、車中泊の旅をしていたおじさん、話好きな民宿の女将、...
人間たちばかりではありません。しまなみ海道の橋や島から眺める、穏やかで美しい内海、コロッケや海鮮丼、四万十川の悠然とした流れ、鰻丼、沈下橋、カツオのたたき、広大な土佐湾、桂浜、...
上述した人々や風景、グルメがわかりやすい “表” の出会いだとすれば、あまり知られてはいない、わかりやすくない “裏” の出会いもたくさんありました。
今治街道から見える斎灘、遍照院、大谷トンネル、四万十川中流西岸の小路、沈下橋付近の水中生物、仁淀川、春野町のあじさい街道、居酒屋での素朴な料理、...
これら “裏” の出会いの中でも、全く思ってもみなかったクライマックス、いえ、真のハイライトに相当する出会いが、旅の終盤にあったのです。
旅の3日目、集客施設が林立する桂浜に、やや失望した私が最後の目的地:高知市街へ向かう途中のこと。
前日までの晴れ渡った秋空はどこへやら、空は一面の灰色に覆われ、晩秋とそれに続く冬を予告していました。
特に予定していたわけではなく、たまたま案内板が目に入っただけの理由で、フラリと立ち寄ってみた四国三十三番霊場:雪蹊寺。
とり立てて立派な寺ではありませんけれど、空気が違いました。
桂浜周辺の、薄っぺらな喧噪とは隔絶された、静かな世界。桂浜を吹いていた海風も、ここではそよとも吹きません。心の感度が上がるような、特別な場所でした。
交通の便が特に良い場所でもなく、秋の平日なのに、ひっきりなしに訪れるお遍路さんたち。私も彼らに交じって本堂に続き、太子堂をお参りしました。
一人のおじさんが熱心に般若心経を読経していて、その美しい声が、私の体に染みていくようでした。
ふと、ひときわ存在感を感じる、茶髪の若者に気づきました。落ち着いた所作で灯明を点し、線香をたき、読経までしているようでした。札所を巡ることだけを目的としていないのがよくわかります。
20代前半〜半ばに見える、いかにも健康的な、活力に溢れていそうな若者が、こんな秋の平日、白装束で一人参拝しているなんて、よほど悲しいこと、人生が覆るほどのことでもあったのでしょうか。しかしその表情にはわだかまりや情念のようなものは無く、清々しさすら感じるものでした。
集団の中で互いの出方を探り、自らのポジションを確認している人々とは、違う世界の人でした。一人の時間ができるとイヤホンを耳に入れたり、わき目もふらずケータイをいじってる人々とは、まるで異なる世界の住人でした。友人と連れ立って、あるいは単独でもそそくさと参拝を済ませて立ち去っていく人々とも別の存在でした。
境内のベンチに座った私は、なぜだかいつの間にか、はらはらと涙をこぼしていました。
今、ここにいる参拝者たちだけではない。過去に遡り、ここを訪れたあまたの巡礼者の一途な志に呼応しているかのように、涙が止まらない。5分たっても、10分たっても。
涙は流れるに任せました。私の頭、意識下では認識できないけれど、私の無意識がここの空気に感応し、知覚できない幾多の何かに出会っているのです。
わからないなりにも何かわかったような気がしました。
この涙は、ただ嘆くばかりの涙ではない。災厄の類と向き合い、受け入れ、前へ歩むための涙なのです。
あの若者は大きなザックを背負い、徒歩で次の巡礼地へ向いました。
人生、深刻なものを背負ってしまうことがある。
いくら重くても放り出すことができないことだってある。
他人にはどうすることもできない場合もある。
そんな境遇を嘆き、苦しむのが人の常。だけど嘆いているばかりでは何も変わらない。背負ったものが重いほど、人は大きく、深くなるはずだ。もしかしたら四国巡礼の旅は、そのきっかけとなるのかもしれません。
雪蹊寺を出て、高知市街へ向かう途中、土佐電鉄の路面電車車庫を見つけ、寄ってみると、そこでは若い二人が結婚式の記念写真を撮影しているところでした。
ただでさえ微笑ましい光景なのに、こうやって地元の路面電車を愛する気持ちまで感じさせてくれることに、私も幸せな気分に包まれるようでした。
結婚は、相手の人生を背負うことでもあります。過去を背負うことでもあります。これから起きるかもしれない、互いの災厄を担うことでもあります。でもこんなに爽やかな二人ですもの、何があっても乗り越えて行けることでしょう。
異質なものに出会う旅。 それはきっと世間とか、社会生活、しがらみから、己自身を開放する旅でもあるのでしょう。
こうした旅は、旅人それぞれの内側で連続する。
もしかすると四国八十八か所が、終わりのない旅と言われていることと同質なのかもしれません。
共振U (11/11/06)
この感覚。何でもない文章なのに、クライマックスでもないのに、わけもなく動揺し勝手に目頭が熱くなる。
伊吹有喜著 『風待ちのひと』 (ポプラ文庫)
中年の男女が出会い、少しずつ互いに惹かれ合うラブストーリーで、物語にはやや退屈なところもあったり、無理に感じる展開もあったり、失礼ながら正直な話、物語の展開にも結末にも、特に共感したわけではありません。
そんな次元での話ではないのです。
読み進めていくとすごく不思議な感覚がありました。私の目は文字を追っていて、登場人物の動きを頭に入れ、手はページをめくる。なのに、物語を読んでいる感覚が希薄なのです。
なぜか私の意思とは無関係に、体が熱くなり、目から勝手に涙が溢れていきます。心と体が勝手に感応していて、脳は事態を把握できずにおろおろしている状態です。
物語の展開は主題に沿って書かれた脚本。登場人物は台本の台詞を呼んでいるだけ。私を揺さぶるものは、文章そのものではなく、行間の、紙面の奥の何か。どんなに本を読み進めても、それが何なのかはさっぱり説明できません。
きっと、著者はわかっているのだ。感じているのだ。
上の世界に対する下の世界を。此岸に対する彼岸の世界を。実体世界に対するファンタージエンを。
そして勝手な想像で恐縮ですが、私と同様、作者もおそらくわかってはいない。
異なる世界を自由に行き来する方法を。
小説の舞台は架空の場所ではありますけれど、モデルとなった場所周辺に強く惹かれ、9月の終わりに東紀州へ行ってきました。
紀伊長島から、熊野古道のツヅラト峠を登ると、少しわかったような気がしました。
トビが飛び交う空の彼方に。
日差しを受けて輝く、熊野灘の向こうに。
その、決して手の届かないところに、かすかな楽園を感じました。
私たち人間は、この地上から離れることはかなわない。
土や石、泥とともに。草木や虫、動物たちとともに。立派な人々と、私のような愚かな者たちとともに。
世俗にまみれようと、災難に苦悶しようと。
モノとのつきあい (11/09/18)
少し前にノートPCを手放しました。
2003年春モデル。8年半使ったことになります。そのうち5年ほどはメインマシンとして活用し、このHPを立ち上げたときにも ずいぶん世話になった、思い出深いPCでした。
実はこのPC、まだ使えるのです。
OSは現役のWindowsXPだし、CPUはAthlonXP 1800+、メモリーを768MBまで増強、HDDは60GBに換装済み、液晶に劣化は無いし、コンボドライブやSDカードスロットまで装備されています。
でも、すべての部品規格が旧世代なせいか、昨今のWEB環境や取り扱うファイル容量が大きくなったせいか、あらゆる動作が緩慢に感じられるようになり、CPUファンの音が大きいこともあって、他人に譲るわけにもいかず、最近はあまり使わなくなっていました。
私は使わなくなったものをコレクションしておくタイプではないので、リユース業者へ譲渡したのでした。
さて、モノとのつきあいかたには様々な形があります。
まず消耗品としてのつきあい。
オートバイや車の場合、オイル類に始まり、タイヤにブレーキパッド、エアクリーナー、チェーン、スプロケットなど、数々のモノを消耗します。減ったり、汚れたり、使用限度になったら惜しむことなく交換することになります。
次に単なる道具としてのつきあい。
冷蔵庫や洗濯機、エアコンなど、白物家電はこれに相当するのではないでしょうか。
人によって少し違うと思いますが、使えるだけ使い、軽微な故障なら修理しますが、そうでなければ、あるいは道具としてあまり役に立たなくなったら手放す。TVやPC、ケータイだってそうですし、USBメモリーなんかもそう。はさみなどの事務用品もこれでしょう。場合によっては家屋も。
道具は使いやすく、役に立つことがその存在意義であり、役に立たなくなったり、利用するのにストレスが大きいようでは価値が薄れます。
ここまではモノに対するつきあいかたは合理的でドライ。すべてのモノに対してこのようなつきあいをしていても、何ら困ることはないし、無駄を排除した、効率的な生活が送れることでしょう。
ここからはモノに対して少し情緒的な要素が入り込む、ややウエットな関係になります。
生活の伴侶、パートナーとしてのつきあいかた。
オートバイや車をこう捉えている人たちも少なくないでしょう。直接触れるところ以外も清掃し、必要以上に手を入れ、程度の差はあるものの、愛情を注ぐ対象になっていたりします。
モノによって享受したメリットを、モノに対して感謝することだってあります。モノに意思とか人格は無いのに。
調子が悪くなれば原因を調べて対処し、壊れたら修理する。なるべく長く使う、いや、付き合っていくために、大きな故障があっても容易に手放すことはしません。PCやケータイ、あるいは はさみや台所用品といったものが対象になることもあります。
場合によっては、師としてつきあうことだってあります。モノに触れることにより、使うことによって、教わるのです。私は詳しくありませんが、茶器や楽器、一部の車やオートバイなど、見方によっては多くのモノが対象になり得ます。
ほかに収集あるいは鑑賞の対象としてのつきあいかたがあります。
このつきあいかたには特徴があって、対象となるモノを使わない、あるいは使う機会が非常に少ないにもかかわらず、しまいこんだりせずに展示、あるいはいつでも眺められるように保管しておくというつきあいです。
このケースではモノが汚れたり、傷んだりすることを極端に嫌う。または ある程度使い込まれた、ウンチクとか武勇伝を語れる状態が最高であり、そこからの劣化・風化があってはなりません。場合によっては、ウンチクや歴史、ストーリーが対象なのであり、モノそれ自体ではなくて、モノを所有していることに意義があるのではないかとも思えることもあります。
さて、2番目に紹介した単なる道具としてつきあう場合、用が足りればよろしい。モノそれ自体が個々にどのくらい良いのか悪いのか、肌で感じる感覚といったものは、どうでもよい。モノの良し悪しは役に立つか立たないかであって、それはスペックとか口コミとかイメージとか、他人に決められる要素が強いようです。
次々に新製品を買い求め、消費することが正義な時代です。経済の活性化につながるから、と。
アンティークなモノはともかく、旧式な品々をいつまでも使い続けることが、必ずしも歓迎されないばかりか、エコでないから、という理由で、反社会的に見られることもあるように感じます。合理性の低いモノや、負け組なモノを持っていることに、どことなく抵抗を感じてしまうような時代です。何を使っているかで所有者を一部判断してしまうことだってあります。最後に紹介した収集のケースもある意味そうなのかもしれません。
良いモノかダメなモノか、価値かあるか無いか、といったような二元論が、ずいぶん世間に浸透した影響でしょう。モノは、社会の縮図でもあるのかもしれません。
3番目に紹介した、生活の伴侶としてのつきあいが理想だというわけでもありません。耐用年数を過ぎ、いつかは役に立たなくなります。そうでなくとも、年月が経つにつれ、思ったように動作しなくなってきたとか、周囲についていけないとか、ストレスを感じるようになっていく。
それでも、数々のモノを手放すことができない人たちもいます。モノに縛られてしまっているような人たちもいます。いろんなケースを目にしますが、それはそれで良いこともあり、そうでないこともあるようです。
やはりモノはモノ。使わなくなったり、役に立たなくなったものを、思い出の品々として永久に保管しておくのは現実的では無いでしょう。
用済みになったものはさっさと捨てる、というドライな考え方もありますけれど、私にはなかなかそうできないことも多く、冒頭に書いたノートPCも、手放す決心をするまでには時間がかかりました。
大げさかもしれませんが、生活の一部であれ、伴侶として過ごしてきたモノです。だからこそ、別れかたが大事なのではないでしょうか。今までの感謝を込めて念入りに清掃し、相手がモノとはいえ、礼儀をおろそかにしない。こうすることで自分の中でも区切りをつけることができるように思います。
モノはほとんどの場合、劣化します。モノも老いていくのです。
所有物を見れば、その人がある程度わかると言われることがあります。モノの老いと向き合える人もいれば、老いを許容できない人もいます。モノは所有者の考え方を表しているのかもしれません。
こうしていろいろ書いてみると、モノとのつきあい、なんだか人とのつきあいに通じるようなところも多いような気がします。
ボロボロの車両だったのだ。
それでもなんとか、座ることのできるボックス席がみつかった。席に座ると、やけに懐かしい感覚に包まれた。
この車両に乗ったことがある。
(中略)
そう、あのとき乗っていた車両……。急いで窓際のテーブルの下をのぞいた。
あった。
そこにしっかりと日本の文字が読みとれた。
『センヌキ』
これは日本の車両だった。かつて日本の線路の上を走っていたのだ。車内の日本語を探した。乗車口周辺の壁に懐中電灯の光をあてた。
─スハフ12 111
─JR東日本
─昭和52年
─新潟鉄工所 下川裕治著 『鈍行列車のアジア旅』 第六章◆フィリピンより
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