小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2012/07/22

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バイク雑誌の思い出U (12/06/03)

 新車情報に、各種用品の情報、批評、ツーリング情報。
バイク雑誌は、おおむねこうしたもので構成されていることが多い気がします。
 “オートバイ” という商品を扱う以上、経済活動と無縁でいられることはなく、最小限の投資で最大の効果を得るという、効率を求める側面も現れてしまいますし、時に、競争の要素も見られることがあります。私たち雑誌購読者が、そうした、底の浅いものを欲していると言えるのかもしれません。

 今回触れる雑誌は『ジパングツーリング』。この雑誌は現在も刊行されていますが、以前のものは比較にならないほど中身が濃いように思えます。
ジパツー  中でも印象に残っているのが、1999年12月号に掲載された、「[究極格安二輪旅]いくぜ! 1万円」の企画の中の「行くぜ!日本列島縦断」。文字通り最北端・宗谷岬から最南端・佐多岬へ、1万円で全費用をまかない、9月に走破した記事です。マシンはホンダ・ドリーム50。

 1万円しかかけず、つまり最小の資本を元に、最大のリターンを得る、一見、その種の消費行動にばっちりハマっているようにも見えますが、ただのおトク情報でもなければ、ノウハウの紹介でもなく、そんな観点からはかけ離れた世界が紹介されていました。
 一部を引用させていただきます。

1日目のおこづかい帳
 ガソリン 474円、アンドーナツ 93円、合計 567円、残金 9433円
本日の走行距離:294.2km(宗谷岬から294.2km)


 驚くべきことに、この日の食事はアンドーナツのみ。翌日以降もだいたいこの調子です。通常なら体力が低下、集中力も欠け、オートバイを運転するには危険な状態になることも考えられるのですが...

3日目
 途中、函館市内で100円ショップに寄った。当たり前だが、すべての商品が100円だ。その中から、細めではあるが、7本も入ったサツマイモを購入。しつこいようだが、もちろん100円。100円ショップよ、ありがとう。あんまり感激していたらフェリーの時間に遅れそうになった。

7日目
 7日目(新潟県寺泊)にしてこの旅初めて雨。だいぶ空腹には慣れてきたけど、その分水が飲みたくてしかたない。公園で遠くに水飲み場を見つけて、ペットボトルを持ってくみに行く。水飲み場にいくと、「オー、マイガー!! 蛇口が取れてなーい」。そいえば、あしたのジョーで力石徹が減量に耐えかねて、水を飲もうとした時、ジムの蛇口には針金を巻いて飲めないようにしてあったけど、かなりその時の力石の気持ちがわかったような気がした。


 こうした苦行のような内容ばかりではないのが、このライターの大きな魅力です。

9日目
 兵庫県豊岡市に入り、海岸線に出ると海岸美が広がった。御待橋からの海岸を眺めていたら、タコ焼き屋のおっちゃんが「いっしょにジュース飲もう」といって話しかけてきた。「どれでも好きなの飲んでいいよ」という。僕があまりお金を持っていないことを知ると「タコ焼き食べる?」と言って売り物のタコ焼きを1箱くれた。「あのお金持ってないんですけど」というと「そんなのいいよ」という。そんなのいいよって、おっちゃんタコ焼き屋でしょう?と思いつつも御馳走になった。アツアツのタコ焼き。久しぶりにまともな食事をする。
 「…うまい!! うまい! うまい!」気づいたら、稲川淳二か俺は、と思うくらいうまいを連発している僕。「この仕事をするようになっていろんな人と知り合いになれたんだ」とおっちゃんは、いい笑顔で笑った。チキショーその笑顔は反則だぜっ! おっちゃん!! そして別れ際に、「必ずまた来てね、後で食べて」といってもう1箱くれたのだった。


 かつては物流や情報伝達に活躍し、文化的側面すら見られたオートバイの世界。
現在では、郵便や新聞配達などのほかには、実社会でまともに役に立つことはほとんどありません。他の交通機関に比べると、実用性に乏しく、趣味の世界でしかない。
 オートバイを買ったはいいけれど、通勤や通学以外、どこへ行けばいいのか、何をすればいいのかわからなかったり、あるいは、ネットや雑誌の情報で満足し、群れて行動していると、いつのまにか、それがバイクライフの全てのように思いこんでしまうことも多いでしょう。

 でも、そこから踏み出すことができれば、世の中は私たちライダーが思っているよりもずっと広く、シンプルなのに豊かな世界が拡がっている。それは、昔も今も変わらないはずだ。

 そんなことを教えてくれた、雑誌の記事でした。

夢は実現させるもの? (12/05/01)

 皆様は夢をお持ちでしょうか?
仕事で活躍する夢、家庭を持つ夢、子供の成長を願う夢、社会貢献する夢、将来リタイアして悠々自適に暮らす夢... いろんな夢があるかと思います。

 テレビや新聞、雑誌などを見ていると時折 夢が叶ったとか、夢の実現に向けて努力しているとか、だから皆、夢を持つべきだとか、夢があるのが当たり前とか、そんな記事も見かけます。
 美しい話です。 あるいはカッコイイ話と言ってもいいのかもしれません。私も大きな夢を持って、その実現に向けて努力していきたいものだと思います。

 一方、夢なんて持てない、という諸兄もお見えかと思います。
目の前のことで精一杯、明日の心配をするのがいいところで、遠い先のことなんてわかるもんか、という方々。あるいは希望なんてない、将来設計なんて考える気にもならない、そんな方々も少なくないのかもしれません。

 ところで世界の人々は皆 夢を持っているのでしょうか? 夢を持てない人たちは不幸なのでしょうか?
イメージ
 何だか消極的ですみませんが、私にはこれといって夢がありません。どんな些細なことでもいいからと言われれば、ひねり出せないこともないと思いますが、日々 夢に向かって過ごしているわけではないのです。
ポジティブじゃない、とか、熱意がない、という見方もあるかもしれません。努力しない人間に 生きる資格はないと言われればその通りかもしれません。
 では何のために生きているのかと聞かれれば、昔はあったように思いますけど、私が生きる目的なんて特に無いのかもしれません。

 でも、それでも別にいいではありませんか。夢が無くたって、これといって生きる目的が無くたって。
必ずしも全員が目標を定めて走るようなことをしていなくとも。
そのうち何か見つかるかもしれませんし、何か悟ることができるのかもしれません。
 何だか変な考え方かもしれません。 すっきりしない考え方だと言われれば それまでです。当の私自身もすっきりしていないですから...
 もしかしたら、世の中を生き抜くためにも、夢はあったほうがいいのかもしれませんね。

 だが、白沢には、そうした「娑婆」への未練はなかった。

(中略)

 採炭夫になったころのたのしみは、ヤマから上がった後、草の生えたボタ山の麓に腰を下ろして、ハーモニカを吹くことであった。
 目の前には、ボタ山や赤錆びたトロッコの軌道、地に伏すような炭坑住宅の長屋の屋根が並んでいるが、その先には水田が光り、島のように緑の山が浮かんでいる。空は青く、白い千切れ雲が、無心に流れて行く。
 そうした中で、思い出すままに軍歌のメロディを吹く。死者たちがひっそりまわりに集まって、耳を傾けてくれている気配があった。白沢自身も、死と生の間を漂っているような頼りなげな感じにとらえられた。その感じが白沢は好きであった。

(中略)

 白沢は、たのしかった。流れて行く雲に似て、人の世に漂っているような感じ。本物の人生に成り切っていない人生。その頼りなげな感じのままで生涯を終わることができたら、と思った。 城山三郎著『硫黄島に死す』「基地はるかなり」より

それぞれの1年後 (12/03/11)

 昨年、東日本大震災が発生し、被災地は壊滅的なダメージを受けました。
直接被災していない地域の、中部日本や西日本の人々も、絆や、身近な人々を、これまで以上に意識することになりました。本当に大切なものは何か、真の豊かさとは何か、を考えました。

 当時、直接被災していなくとも、いてもたってもいられなかったという人が少なくなかったと思います。
誰かに言われたわけではない。
被災者に感謝されたいわけでもない。
周囲が援助活動に懸命だったわけでもない。
ましてや義務感でもない。
自然災害によって、不本意に生じた格差を埋めるためでもない。
 私たち日本人の奥底に潜んでいた、互助の、助け合いの遺伝子が目覚めた、とでも表現すればいいのかもしれません。 ただ、私の場合は、遠方からどうすればいいのか悶々としていて、義援金を寄せる程度のことしかできませんでした。


 あれから1年。
 各地の都市は賑わい、イルミネーションも戻っています。節電は意識されているのかどうかわかりません。東北産の物品を購入しよう、とも言われています。がんばろう、という掛け声の一方で、復興特需という言葉も聞かれます。東電内部事情、政界の内紛、年金・税、アメリカ合衆国の大統領選挙、欧州の金融危機、...

人々は、それぞれに暮らしています。
わかった気になっている人もいます。
苦しんでいる人も。もがいている人も。それぞれに右往左往している人も。


 昨年末のこと。
地元のCDショップでレジに並んだときのことです。私の前に並んでいた、小学校高学年とおぼしき女子2人連れが、それぞれCDを購入した後、財布の中の硬貨すべてを店頭の募金箱に入れました。2人とも。このくらいの年頃なら、欲しいものがたくさんあるだろうに。お菓子やアイス、文具や小物、そういったものではなく、募金箱へ気持ちが向いていたのです。

イメージ  私は自分を恥じた。
私の気持ちは募金箱に向かっていなかったからです。
時間が経ち、私は、震災以前に戻りつつあったのでした。息の長い支援が必要と言われていたのに。
 できることは僅かでも、少しずつやっていこう。
そして今ならもう少し落ち着いて行動できるはずだ。
店頭の募金箱へ硬貨を入れ、改めてNGOにも募金、わずかな額ですが復興ファンドへも投資(応援)しました。
それで満足した気分になっているわけではありません。
自分の金が何にどう使われるのか、私自身はどうでもよい。被災地の方々が少しでも安心できるのなら。少しでも希望が見えることにつながるのなら。

 成功者ともてはやされたリーダーたちにとっても、苦しい1年だった可能性があります。立身出世や滅私奉公という座標にかつての重みは無くなりました。いえ、リーダーと呼ばれる成功者たちにとっては、特に関係の無いことなのかもしれません。

 ある知人は旅行をしなくなりました。
何かあったら帰れなくなるから。不安を抱えたままの日々が続いています。

 空が灰色の雲に覆われ、冷たい北風が吹きつける日、国道1号線の、旧東海道入口付近で、ホームレスの老人が座り込んでしまっているのを見かけました。その視線の先は、暖房の効いた車両が激しく行き交う車道を見つめているようにも、虚空をさまよっているようにも見えました。

 苦境にあるのは被災地だけではありません。
不況に立ち向かう力も残されていない会社や、独居高齢者たち。
人々や金、経済活動が大都市に吸い寄せられる一方、地方は搾取され、疲弊していく構図も、震災以前から変わりません。

 すべてが現実であり、すべてが支援を必要としています。だからといって金を出すことが全てではありません。経済を回せばいいだけではない気がします。

 私は強い類の人間ではありません。私自身まで落ち込んで気力を無くしてはいけないと思いますし、自分自身の生活もあります。己の居場所を確認するかのように、今年も旅に出かけ、バイクで、自転車で走りたいと思います。できれば直接東北の被災地を訪れて、自分の目で確認したい。

 そう、私自身もひとつではないのです。支離滅裂。行動はバラバラ。
バラバラなまま、もがいているようです。

できることを懸命に行う人がいます。
支援に社会的使命を感じる人がいます。
マスメディアやネットの情報を入れるだけ入れて満足している人もいます。
その日の生活が精一杯の人もいれば、停まっている人も。
立ち直る気力を失っている人もいますし、
立ち直るとは何なのか、考え込んでしまう人もいます。

 おそらく正解はどれでもない気がします。もしかしたら無いのかもしれません。
「心をひとつに」 それが常に正解なわけじゃない。
何ができるか、何をしたかを支援する側どうしが比べたところで、何の意味もない。

 グローバル化が進み、情報社会の昨今。市場経済が席巻し、情報に振り回される現代。だが太古の昔から、人間は進歩などしていない。難題は、解決できないまま時が過ぎていく。

 おそらく私たちはバラバラなまま、それぞれに生きてゆくのでしょう。
それでいいではありませんか。それぞれが、それぞれのペースで。

バイク雑誌の思い出T (12/02/12)

 ここ数年バイク雑誌を滅多に買わなくなりました。

 オートバイへの興味が薄れたわけでもなければ、情報源はネットで十分と思っているわけでもありません。年齢を重ねた私自身が変化したせいもあるでしょうし、今どきはネットとの棲み分けが難しいのかもしれません。
 バイク人口も減った中、雑誌刊行の予算も限られ、厳しい事情であろう中、勝手なことを言うようで申し訳ないのですが、バイクの選択肢=車種が減少しただけでなく、個人的な感触では、バイク雑誌に掲載されている記事それ自体も、以前に比べると平板化、均質化してきているような気がします。

 そもそも性格が屈折した私の場合、以前も頻繁にバイク雑誌を購入することはなかったのですが、数年の間、定期的に買っていた雑誌があります。
 その雑誌は『バリバリマシン』。

 「バイクはかっとびマシンだ!!」なんて刺激的なサブタイトルが印字されていた記憶があります。
内容は全国各地の峠で、膝を擦らんばかりに、いえ、擦りつつ走る姿を撮影した投稿写真が主力。それらの、まっとうな(?)写真に対し、オフザケ的な肘擦りや頭擦り、ウイリーにジャックナイフ、その失敗など。
愛車自慢、カスタム自慢の内容もありました。数人〜数十人で結成された走り屋チームの紹介も。

 全盛期はやや過ぎつつあったかもしれませんが、全国各地の主要な峠道でローリング族がはびこり、休日の早朝ともなると、その手の輩が押し寄せる上にギャラリーも加わり、相当な賑わいとなる場所もありました。
 速いライダーは憧れの対象でした。一方、少数派ではありましたが、肘擦りや、頭擦りのように、パフォーマンスに走る輩もいて注目を浴びました。

 当時、これらローリング族は社会問題化しました。
確かに迷惑極まりない行為で、理解不能な集まりであり、とても賛同できるものではありませんでした。しかしそこは、まともではない、ある意味社会から外れた若者たちの、一種の理想郷だったのかもしれません。
 多くが行き場の無い、若いエネルギーをぶつけていました。車体はもちろん、パーツ代やガソリン代など、ある程度の資金もそうですが、何よりも腕と、度胸が必要でした。
 社会的地位、虚勢、駆け引きは不要でした。腕のある走り屋たちは実力を認め合い、かといって遅いライダーを駆逐することもあまりなく、不幸にもコケたり事故ったりしたライダーに対しては、その場に居合わせた皆が協力して助け合いました。

イメージ  峠に行けば、誰かが走っていた。
友情というわけではないけれど、はかなくてゆるやかなコミュニティが、そこかしこに見られていた。
 大規模資本や商業的要素の影はほとんどありませんでした。資本のほうが入り込まなかったと言っていいでしょう。反社会的行為に加担するわけにはいかないですし。
そこがまた、俗世間とは一線を画した空気を醸していた要素のひとつでありましょう。


 しかし、ユートピアは長続きしませんでした。各地の峠で取締りが強化されただけでなく、事故も多発しました。一般車を巻き込んだ事故も。
 そうでなくとも圧倒的加速力の大型バイクが徐々に増えていき、速度が上がり、それにつれてコース攻略の難易度も増大しました。リズムが少しずつ変調していったと言ってもいいかもしれません。毎週のように腕を磨いている輩以外は少しずつ近づきにくくなっていきました。
チーム同士のいさかいも珍しくはなくなっていった感もあります。
 ほかにも、あからさまな違法改造車をトランポで運び、異次元の速さで峠を席巻する輩も出現しました。
社会や市場経済とは無縁でしたが、単純に速いバイクを上位に見るコミュニティ、あるいは群れることを目的としたコミュニティは、逆にその価値観が仇となって崩壊していきました。

 『バリバリマシン』は決して短命ではなかったものの、徐々に過激さが抑えられていき、ついに廃刊となりました。雑誌の性格上、スポンサーが少なかったのだろうし、読者も峠から遠ざかっていきました。



ローリング族よ、もう一度、などとは決して思っていません。
だけど、あのエネルギーが懐かしい。
どこか浮世離れした空気が忘れがたい。

 こんな雑誌が刊行されることはもう二度とないことでしょうけれど。


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