過去掲載した編集◇コラム24
食にこだわる[5]─管理社会 (15/05/04)
昨冬も鹿や猪といった、自然の滋味に満ちた野生動物の肉を何度か味わいました。猟期が冬なので寒い時期に食べることになるのですが、たいていの場合、焼いても煮ても食べると体が温まります。
私の場合、それだけではありません。程度の大小はあるものの、一時的に体が内側から熱くなって行動力が上がります。場合によっては、何かせずにはいられないほど活動的になることもあります。ただしもっぱら肉体的な影響だけなので、現代人にとっては仕事の生産性は何ら上がることもなく、少々残念ではあります。
狩猟によって捕獲した野生動物を食用にするなんて、なんて野蛮な行為なんだ、と非難する方々もお見えでしょう。猟銃で仕留めたり罠で捕獲し解体する行為は残酷です。かわいそうだと主張する人たちは少なくないようです。
しかし近年、必ずしも自然豊かな地方でなくとも野生の鹿や猪の数が増えすぎて、里山が荒れたり田畑の作物が根こそぎやられるなど、もはや何もせずには私たち人間は共生できず、害獣として駆逐せざるを得ない状況に陥っていると言われます。
動物保護を主張する方々だって、焼き肉を求め、ハンバーガーを食べて、チキンナゲットをつまみ、それでなくとも牛脂の入ったドレッシングやレザー製品を使ったりしています。畜産によって生産された食品は残酷ではなくて、狩猟が残酷だというのは何だかおかしい。事前に畜産農家と契約して家畜になった家畜は存在せず、人間の都合で屠殺される家畜も捕獲された野生動物も、命の価値に変わりはありません。
と、ここまではよくある論点でして、こう書いても都会の人たちや動物愛護派はどうしても納得がいかない。理屈ではなく、心からそう感じるのでしょうからしかたありません。以前、私がそうだったように。
私たち人間、現代人は特に視覚および聴覚からほとんどの情報を取得し、取捨選択して自らのものとしています。個々人の考え方や生きかたはこれらの情報によって決まってくるのでしょう。
でも毎日摂取する食事だって、肉体だけでなく頭や心に少なからず影響を及ぼしているのではないか。貴方の体は貴方が食べたものでつくられるといわれますけれど、心だって影響されていないとは言い切れない気がします。
高度に管理され、何が原材料なのか表示を見ないとわからないほどに加工された食品ばかりを日々口にしていると、管理し管理されることが自ずと不自然ではなくなってくるのではないかと思います。飼い殺しの生命、活きてない食物を摂取していると、人工的に管理された環境にいないと無意識に不安を感じ、自然界と直接かかわることを避けるようになっていくことでしょう。野生動物を捕獲するのは残酷だという論調がしっくりくるのも不思議ではありません。実は野生が怖ろしいといったほうが合っているのかもしれません。
現代的な管理社会の中にいると、自然界の秩序とは離れていくせいか、先々のことが不安で、あまり考えないようにしてはいるものの、死を考えると恐ろしい。孤立するのが怖くて周囲に同化しようとする。現実を直視せず、不安を夢に、恐怖を希望に変えようと、様々な情報に踊らされるのも、無理のないことだと思います。
一方、加工度合いの少ない、人の手が最小限しか入っていない食品はどうか。養殖でも畜産でもハウスものでもない、精いっぱい生を謳歌した生き物を口にしているとどうなるのか。不安や恐怖が無くなるわけではありませんけれど、なんとなく “覚悟” のようなものができてきます。社会のため、という概念が薄れ、管理しされることに違和感が生じてきます。きっと自然界の秩序に近づくのでしょうね。
このような人民はコントロールされにくい。人間中心の世界や人間だけのための社会に貢献しようという理念が薄くなるからです。ひょっとしたら支配層はすべてを理解していて、パック詰めや活きてない食材をあえて流通させているのかもしれません。そのほうが単純な被支配層が増え、コントロールしやすくなるから。日本人は扇動されやすいといわれます。コントロールされた民意などあてにはならないのです。
ジビエ食材ブームの兆しはあるのかもしれませんが、市場に流通する品々は、衛生上問題があるとか臭みを抜くとか柔らかくするとか理由をつけ、徹底的に手を加えて不活性状態にすることでしょう。もしかしたら偽装だってあり得るかもしれません。為政者は巧妙に管理するはずです。
私は決して自然食品を薦めているわけではありません。自然界を意識し、管理社会から外れていくと生きにくく、かえって不幸に陥る可能性だってあります。安全で高度に管理された食物を常食し、管理し管理される社会に順応するほうが、生きやすいし幸福なのかもしれません。
だいたい皆が皆自然食を志向し管理社会を疑問視したら、社会の秩序が崩れることも考えられます。アウトサイダーはアウトサイダーとして生きていけばいいのです。
それでも人は自らの頭と体で思考する権利があります。人間は自然界の生物であり、自然界の一部。それを忘れてはならないと私は思います。自然界の秩序に命の優劣はない。共生はあっても従属は無いのです。
こういうことを書いていると、管理人はたぼうさんはさぞかし自立して生活しているのだろうと思われるかもしれません。覚悟を決めて生きているんだろうと誤解されるかもしれません。
ところが実態は全く逆でして、そうではないのです。覚悟なんかとてもできておりません。管理社会にどっぷりと浸っている日常なのです。自然に憧れるが故に何だか格好つけたことを書いてしまう私は駄目な奴。あかんたれです。
そういうふうな社会改革というか、社会をよくしていこうというのは、一般庶民が考えたことじゃないんです。これは全部知識人が考えたことなんです。近代に出現した知識人は、なんとか民衆というものの生活をよくしてやりたい。民衆というのは無知である、貧乏である、いろんな迷信にとらわれている、遅れている。だから民衆を教育して、一人一人啓蒙された市民にして、理想的な人間関係を作り、さらに社会の経済も含めて、一つの物資生産ということも管理し統制して、幸せな社会を作ろうとした。
これはぜんぶ、知識人のおせっかいなんですよ。
(中略)
僕らはもう、政府とか知識人とかにおせっかいを焼いてもらわなくていいんです。 渡辺京二 津田塾大学三砂ちづるゼミ共著
『女子学生 渡辺京二に会いに行く』(文春文庫)より
人生を構成する要素 (後編) (15/02/01)
(前回の続き)
昨年11月、愛知県で開催された岡崎Jazzストリート。その会場のうちのひとつで開催された、中村好江ニューオーリンズのステージでのことです。
温かみ溢れるライブが終わり、聴衆のアンコールに応えて「What a Wonderful World」の演奏が静かに始まりました。
中村好江がソロで奏でるトランペットの音色に、何か強い哀しみめいたものを感じるかと思うが早いか、私の胸が痙攣したように激しく波打つと同時に、唐突にボロボロと落涙したのです。きっと頭がおかしくなったと思われることでしょうが、私自身も訳がわかりません。とにかく次から次へと涙が頬を伝っていきました。
いったい何に感応しているのだろう?
まるで見当もつかないし、わかったとしても言葉にできるものではない気がしました。あえて推量するならば、ミュージシャンが感じているもの、原曲を歌ったルイ・アームストロングの魂というか、インスピレーションのようなものかもしれません。
気がつくと、聴衆の左前方のおじさんがハンカチを取り出して目頭を押さえ、右手のじいさんは眼鏡を外してしきりに目元を拭っていました。
* *
前編では「人生を構成する要素」のうち、2割に相当するらしい幻について触れました。後編では8割がたを占める苦労と、ほんの少しというご褒美について書いていきたいと思います。
苦労については言わずもがな。
生きていてまったく苦痛の無い人なんてまず存在しないでありましょう。今までうまく回避できてきた人にとっても、四苦八苦からは逃れられないそうです。
「四苦」とは、生・老・病・死の四つの苦しみに、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた「八苦」こそが人生の本質とも言われます。
そんな言葉を並べなくとも、先行きなどまるで見通せないどころか完全に行き詰ってしまったり、乗り越えられるなんてとても考えられない事態に陥ったり、自分には生きていく資格が無いのだと思い詰めたり...
私にもこれから様々な災厄が降りかかるのかもしれません。
何となくわかってきたのが、どうやら苦しまねばならないらしいということ。苦しみを避けたいあまり、問題をすり替えて他人のせいにしたり、自分を責めたりしても何にもならないようです。また、人が人を苦痛から完全に解放するということもほぼ不可能なようです。現世というところは厳しいですねえ。
しかし苦痛ばかりの酷な浮世において、ほんの少しご褒美があるのです。
ほっとしますね。私なんてご褒美が無かったら生きていけないでしょうから...
ただ、ご褒美といっても、人それぞれ捉え方が異なります。年齢や時期によっても違うことでしょう。社会的地位や職位、肩書きという人もいます。家族、子供や孫だという方々もいますね。夢と希望だという諸兄もお見えでしょう。酒と異性とカネだという御仁も。築き上げてきた有形・無形の財産と定義する識者も。
私には、なぜかはわかりませんが、このようなものは全てあまり深い意味を持たないものになってきています。私にとってご褒美とは、冒頭に紹介した体験のように、思いもかけず、不意に与えられるものであり、言葉にできないものだと考えるようになりました。
カネや地位のような社会的なものではなく、結果でもなければ、モノや人間関係のように役に立つものでもない。再利用や再分配ができないし、客観的価値をつけることもできないもの。決して求める対象ではないし、努力して得られるものではない。だからこそ “ご褒美” なのでありましょう。
* *
冬の自然は殊に美しい。
近年は冬を愛しく思う気持ちが内側から生じ、戸外に出る機会が多くなりました。年齢を重ね、己自身が冬へと入りつつあるからなのかもしれません。
北風が厳しく吹きつける中、独りで走っていると、ごく稀に、何てことはない冬の景色なのに、心をわしづかみにされるようなことがあります。
絶景でも何でもありません。バランスの取れた構図とか、絵画的な色彩といったものとは全く関係のない、景色の向こう側にあるような何かが、光のようなものが私の全身を貫くのでした。
私は、私という個体ではなく、自然でした。大きな自然の、ほんの小さな一部でした。苦しんだり、悩んだりすることはありません。だって、自然なのですから。
辛苦は受容され、怨恨は融けていきます。無かったことにはできませんが、己の惨めな部分だって赦せてしまうのでした。
ほんの一瞬の、数秒にも満たない時間ではありますけれど、こうした体験もご褒美だと思っています。ほら、何を言っているんだかわからないでしょうし、共有とか再分配ができないでしょ。
漫画界の巨匠:手塚治虫氏が遺した大作『火の鳥』の中でも、私が最も好きな「鳳凰偏」。終盤、腕を切られて都を追われた主人公:我王が、吉野近郊とおぼしき山中にて、ありふれた景色に理由もなく涙を流す場面が描かれています。
氏もきっと、風景を眺めて涙した経験をお持ちだったのでしょう。以前は全く理解できないシーンでしたが、今でははっきりとわかるような気がします。
ご褒美とは、一瞬の光のようなものではありますが、自然界に限らず、音楽や絵画などの芸術、文学などに感じることも少なくありません。洋の東西を問わず、いにしえより人々は享受してきたのだと思います。誰にでも、どんな人にももたらされています。たとえ一人ぼっちでも、一人ではないのです。もっとも、受け取る側が気づかないことばかりなのかもしれませんけれど。
そんなご褒美なんて受けたことがないという諸兄にも、時期が来れば、心を開けば、半ば自動的に、一方的に与えられるもの。一瞬で、はかないもの。
それが私にとってのご褒美です。
* *
昼時にしか営業しない、件のカフェ。
60代のマスターは数年前に奥様を亡くされ、ご自身は心臓の病気で生死を彷徨った後に、憂悶のリハビリ期間を経て、今、カフェを運営されています。
マスターが半分冗談ともつかない口調でこんなことを漏らしたことがありました。
「ああ、キツイ。心臓が痛いんだよ。
オレも早くかあちゃんのところへ行きたいよ」
そこへすかさず常連の年配女性がボケをかましました。
「ああ、そうかい。アタシゃあね、心がイタイの」
「...。
まったく、もう。どいつもこいつも...。
こんな安い店でよぉ、バカ言ってんじゃねえぞ」
そう切り返したマスターは、目を潤ませ、激しくまばたきするのでした。
旅と出会いと[6] (14/11/30)
皆様には故郷がおありでしょうか。
決して物質的・経済的に豊かではないものの、自然に恵まれ人情に厚い地方町村。よく語られるような場所が心の拠り所となっている方々は少なくないと想像します。
私には故郷がありません。
正確に言えば過去のものとなってしまいました。生まれ育った場所は東京の下町でして、当時はキレイでおしゃれな要素など無く、ゴミゴミしていて、蓋のないドブは酷い臭いを放ち、頻繁に光化学スモッグ警報が発令されておりました。
私の家族を含め、周囲の人々は借家住まいばかり。小さくて汚いアパートも多く、お店の2階を間借りというケースも珍しくはありませんでした。
後先考えずに人間がこさえた物は寿命が短い。それほど古くなくても数々の建物が取り壊され、整地、急造され、劣化し、区画整理されていきました。もともと隣近所は他人どうしで、地域活動の要素が醸成されるような地域ではありませんが、目まぐるしい変化の中、中流に届かない住民たちの儚い交流は次々に潰えていくのでした。亡母の思い出の残る地を離れた私の父親は再婚、他所へ移住しました。
今ではかつての街並みや近隣住民などほとんど残らず、郷里は幻になりました。私は帰るところの無い、根無し草になったのです。
現在は愛知県に居住していますが、あまり地域に根付いた暮らしをしている実感は無く、どこか浮ついたような感触があります。いつかは静かな場所に落ち着きたい。
そんな私の心境を見透かされたかのごとく、10月に自転車で旅した瀬戸内海のしまなみの島々では、なぜかI(アイ)ターン、すなわち地方への移住に関する話題を何度も聞く機会に恵まれたばかりか、愛知県も度々話題に上り、移住のハードルを下げてくれるようでありました。
大崎上島でのカフェでは、「ここのワッフルおいしいよ」と声をかけてくださった60歳代のご夫婦にあれこれ話をうかがうことができました。私が愛知県から来たことを告げると、ご夫婦は以前、仕事の関係で愛知県春日井市に長年お住まいだったとのこと。愛知県内の各所を仕事で訪れたときのことまで懐かしそうに語ってくださいました。
今ではリタイアし、生まれ故郷の大崎上島に戻ったご主人に「いいですねえ、こんな素敵なところに帰ってこれるなんて」と話すと、「そうか? 良いところじゃろ」とご主人。
「この島が気に入りよったんなら住んでみんさい。Iターンの人たちもおるけんね」と奥様。本土と比べると少なくとも公共インフラはどうしても見劣りする印象があるものの、すぐそばの大西港から安芸津へ渡り、呉市まで出れば大きな病院もあって、それほど困ることが無いことまでおしえてくれました。
カフェの店主も「移住しちゃえばいいのに」なんて。
弓削島のカフェで長時間話し込んだスタッフの母娘、娘さんは以前東京の練馬や調布、それに横浜市の戸塚にも住んでいたことがあったそうで、青少年期の私の行動範囲にダブるところがあった上に、息子さんは愛知県豊橋市の立派な大学を卒業し、愛知県でご活躍されているとのこと。何か不思議な縁のようなものを感じました。
弓削島ではIターンの住民が少なくないらしく、お母様は真剣に話してくださった上に「私が空き家探しちゃる。これまでも何軒か紹介しちょるけえ」
しかも、数ヶ月滞在する形でもええよ、なんて、ずいぶんとハードルを下げてくださいました。覚悟して来てしまうとかえってプレッシャーになってしまい、うまくいかないこともあるそうです。
岩城島で入った喫茶店のマスターは、若い頃仕事の関係で神奈川県の相模原に住んでいらしたとのこと。「相模原だと海が見えんやろ。何か落ち着かんでのう。休みの日は横浜の山下公園に行って海を眺めちょったんや」音楽好きのマスターは当時ギターを抱え、山下公園で独り歌っていたら、地元のバンドから声をかけられて毎週ライブに出演していたとか。当時を振り返るマスターが実に楽しそうでした。
奥様は愛知県豊橋市に隣接する静岡県湖西市のご出身だそうですが、今やすっかり岩城島の人。同じ上島町の島々ながら、島それぞれに個性があり、隣の弓削島は進取の気風に富んでいて、他の地方からの移住者が多く、岩城島は農耕中心で穏やか、垢抜けてない、なんて詳しく話してくださって、Iターンのハードルはいっそう下がった気がしました。
私は島々に呼ばれているのかもしれない。
生活費や親族、どうでもいいしがらみといった不安はありますが、今まで落ち着くことができなかった根無し草に、地に足の着いた暮らしをするチャンスが巡ってきているのかもしれません。労働力にはならないし、特に何の役に立つわけでもない私のような中高年でも受け入れてくれるような、懐の大きさを感じていました。
弓削島南東部の法王ヶ原前の海岸で腰を下ろした私の眼前には、それほど大きなスケールではないものの、心地よい景色が拡がっておりました。空の下には小さな山と砂浜、海には小島。
どのくらい時間が経ったころでしょうか、なぜか山と空、海や砂浜の境界が歪み、滲んでいるように見えてきたのです。山も空も、砂浜も海も小島も、私からはいずれも同じ距離のところに位置し、互いに溶け合っているかのようでした。
私がどこにいようと居住地を変えようと、世界は見事に融和しているのでした。人間がおろおろして苦しんでいようと、世界は既に完璧でありました。
移住という目標を定め、邁進していく生きかたは、おそらく私のようなアウトサイダーには合っていない。根無し草が移住しても、いつまで経ってもその土地には馴染めない異邦人のままなのでありましょう。
住居を移したところで何かが変わるわけではない。肝心なことは自分自身の心のありようでした。移住するのかどうか、先のことはわかりません。あえて場所を移さなくても、目標を定めなくとも、目の前のことをひとつずつこなしていけばいい。
アウトサイダーにはアウトサイダーの、根無し草には根無し草なりの生きかたがあるような気がします。
道路の掃除をベッポはゆっくりと、でも着実にやりました。ひとあしすすんではひと呼吸し、ひと呼吸ついては、ほうきでひと掃きします。
(中略)
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」 ミヒャエル・エンデ著『モモ』(岩波少年文庫)より
人生を構成する要素 (前編) (14/10/05)
昼時にしか営業しないカフェがあります。
私はたまにそこへ行って昼食をとるのですが、しばらく前に、60代のマスターがぼそりと話してくれたことが印象に残っています。
「人生ってやつは8割がた苦労だな。残りの2割は何だと思う? 幻なんだ。
それとなぁ、ご褒美がちょっとだけ。ほんの少しだけな。」
画像の腕時計を購入したのはたしか12年ほど前のこと。当時、私はバリバリと働いていたし、一定の地位を得て、おそらくこのままガンガン働く以外の選択肢が無いように感じていました。
スマートフォンなど出回っていないときのことです。腕時計は正確かつ多機能であるべきで、時差のある外国の各都市の現在時刻を瞬時に把握できることが望ましかった。電池切れもあってはならないし、電池交換などという手間や時間のロスも回避すべきでした。だから分不相応でも少々高級品をと思い、貧乏性の私には珍しく2万円以上をはたいて購入したのでした。
1分1秒が惜しく、自分の体一つでは到底さばききれない量の仕事と格闘していました。毎日遅くまで働き、当たり前のように休日も出勤しました。己を消して、社会の一員であろうとしました。若いときにはなりたくないと願っていた組織の歯車になろうとしていました。それでも充実した毎日を過ごしているという思い込みすらありました。今思えば、ほかに選択肢があったのかもしれません。しかし、そのときはそれしか道が無かったのです。
「あの人たち、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?」モモはめがねのむこうをながめながらききました。
「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう、彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」 ミヒャエル・エンデ著『モモ』(岩波少年文庫)より
私は体調を崩して病を患い、仕事における地位はもちろん、仕事以外での人間関係も含めて、それまで築いてきたものが雲散夢消しました。私という人物が評価されていたわけではなく、代わりはいくらでもあったのでした。市場経済社会にとって、主流の人々にとって 私は所詮別世界のアウトサイダーだったのです。
私は苦しんだ。仕事に人生を捧げようとした自分を悔いた。
歯車になろうとした過去の自分が羨ましく、惨めでした。仕事に打ち込んできた過去は、見たくない過去であり、消してしまいたい過去でした。
過去を想起させる腕時計は奥にしまいこみ、引っ張り出すこともありませんでした。
病気を治療し年月を経るうちに、私自身の座標が変化し、将来の夢とか希望といったものが無くなっていきました。と同時に、築き上げた(と思いこんでいた)過去と、削除してしまいたい過去を分け隔てすることも無くなりました。
やりがいを感じて働いた時も、必要とされていると錯覚し頑張っていた日々も。
頭脳労働系のバイトに限界を感じ、肉体労働系のバイトへと転身した学生時代も。
中学生時分に実母と死別、わずか1年で父親が再婚し、やりきれなかったことも。
通常の家庭とは違い、それからやはりうまくはいかなかったことも。
高校に黙ってバイトを続けていたとはいえ、継母の急病に伴い、治療費と入院費がかさんで一時高校中退寸前までに困窮したことも。
もう過去はどうでもいいのだ。
後ろ向きな発想で申し訳ないけれど、過去の蓄積の先に未来が築かれるのではないし、経験を重ねた先に展望が開けるのでもなかった。
別の腕時計を長年使ってきましたが、動作が少々おかしくなってまいりました。
私はあの腕時計を引っ張り出しました。何年もの間、暗所で放置状態だった時計はピクリとも動きません。処分も考えましたが、時計自体には何の罪もありません。
修理に出すと、安くはなかったものの、メーカーで分解清掃した時計は、完全に元の機能を取り戻しました。
消してしまいたい過去などはありませんでした。すべて赦してしまおう。
過去に価値はなく、優劣もない。同じく夢見る未来に価値はない。
過去は変えることができず、忘却の彼方へ葬ることもできない。夢見た未来は手が届かず、予想とは違う。
私にとっては、過去も未来も、こうして幻となっていくようです。
この幻は泡沫のように消えて無くなるものではありません。不確かで、普遍性など無く、決して実証できない、他人にとっては無価値なもので、妄想のごとく迷惑なことだってあります。
しかし個人個人の胸に刻まれ、生き続けるものであるような気がします。(続く)
目次へ戻る