小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2016/02/21

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人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり[2] (16/02/21)

 宅配先は、男女の比率が半々というところだった。全体的に女性独居のほうが多いことを考えれば、女のほうが面倒くさがらずに食事の支度をしているということになる。
 男はひとりでいると、いろいろと内側に向かって自分を掘り進めてしまうようだった。あるときから先、反省を始めてしまうのだ。その点女はたくましかった。

(中略)

 双方を見ていると、男の悩みの底の浅さが目立った。人に言える程度の悩みに終始とらわれている。あれこれと過去を思い煩うひとときが、彼らにとっていちばん心落ち着く時間なのかもしれない。 桜木紫乃著『起終点駅(ターミナル)』「潮風の家」(小学館文庫)より

 私の場合、体調を崩してダウンし世間から外れた2003年以来、何年もの間もがき、自分を掘り進めてしまっていました。多かれ少なかれ、男性にはいずれそうした作業が必要になるときが訪れるのかもしれません。
 懸命に掘り進めた結果、私には何もありませんでした。確固として存在するはずの底が抜けて、カラッポだったのです。それがわかったのに、己がカラッポなことを認めたくなくて、さらにしばらくの間は、何か底を塞ぐようなものをいろいろと継ぎ接ぎする作業に根を詰めていたのかもしれません。

        *        *

 昨年末のこと、旅にツーリングにと使っていたコンデジ:Canon PowerShot G15がたまにレンズエラー表示となって操作不能に陥るようになりました。まだ3年も経っておらず、修理することも考えましたが、この際、下取りに出して買い換えることにしました。

キャンペーン  カメラの量販店にはカメラ以外にも商品棚にいくつものスマートフォンが並べられていますが、北風がやや強く吹くこの日は、docomoの衣装をまとったおじさんと若い女性が入口付近に待ち構えていました。スマホ買い換えあるいは乗り換えキャンペーンで動員されたのでしょう。とにかく私には関係ありません。彼らを避けて店内に滑り込み、奥のコンデジコーナーへと進みました。
 展示されている各社のコンデジを見比べていると、先ほどの若い女性がすぐ側にやってきて、私に話しかけました。

女性「新しいスマートフォンのご案内です。ケータイはどこのキャリアですか?」
私 「auです。」

 若い頃は、若くてキレイな女性に話しかけられると内心浮かれて妙に意識してしまっていましたが、私は今やそんな歳ではありません。
女性は20代半ば前後でしょうか。50を過ぎた私にはどうしてもコドモにしか見えないのです。あいにく私はコドモには何の興味もありません。

女性「ずっとauなんですか?」
私 「ずっとです。」

 だいたい、カメラを買いに来たのに、スマホもケータイもまったく関係ない。失礼を承知で、私はコンデジが展示されている棚へと顔を向けました。

女性「スマホ乗り換えキャンペーン中なんですけど、いかがですか?」
私 「スマホは要らないんです。ガラケーはポケットに入るからね。」
女性「今日はカメラを探してらっしゃる?」
私 「そうです。スマホは要りません。」

 コンデジの展示から視線を逸らすことなく私は答えました。ショボくれたおっさんである私の相手をするだけ時間の無駄だ。もういいだろう、放っておいてくれ。


 しかし、閉じていた私の心を開いてくれたのは、女性のほうでした。

女性「自転車に乗っていらしたんですよね? 寒くないですか?」
私 「寒いですよ。ひたすら寒いです。」

 私が手に提げた自転車用ヘルメットを見て、気がついたらしい。先ほどの営業トークとはわずかに声のトーンが違います。
相手は一人の人間であり、あからさまに拒む必要もありません。

女性「自転車には、寒さを感じないような楽しさがあるとか?」
私 「いえ、どうしたって寒いんですよ。ただの変人です。」

 相手がコドモに見えるとはいえ、私は若輩者に接するときに偉そうな態度をとることが嫌いです。あくまでも対等に、できる限り自然で。うまくできないことも多いですけど。

女性「カメラとか自転車とか、いろいろ趣味を持ってらっしゃるんですね。」
私 「オートバイも乗るんです、しかも2台。」
女性「ええっ!?
   趣味が充実されていて、いいなあ。」
私 「家内も自転車乗るんです。それも2台を乗り分けて。」
女性「へえーっ... 乗り物一家ですね。」
私 「ビョーキですよ。ハハ...」

 気がついたらコドモ相手に余計なことまで喋っていました。相手の話術が巧いわけではないと思います。私が能動的に気を許したわけでもありません。
よくわかりませんが、女性は何か目に見えない、すごく小さなことを無意識のうちに発信し、私のほうが心を開いて無意識に受信したような感触です。それが何なのかさっぱりわかりませんけれど不思議に温かい気持ちになったのでした。ありがとう。


 たまにしか行かない量販店ですが、私の応対をしたのは顔見知りでも何でもない、若い男性店員。下取りにと持参したPowerShot G15は思った以上の価格がつき、新しいカメラにCanon PowerShot G7Xを選択しました。何だか今日は気分が良い。単純な私です。

 30歳には届いてなさそうな男性店員、私にはやはりコドモに見えてしまいます。

男性「今Canonがキャンペーン中でして、
   応募するのに販売証明のコピーが必要で、コピー1枚とっておきますね。」
私 「ありがとうございます。」

 応募のような類は全部自分ひとりで準備するものだと思い込んでいた私は、男性の親切に少々面食らいました。

男性「お買い求めの液晶保護フィルムですけど、ここで貼りましょうか?」
私 「え? あ、はい、お願いします。」

G7X  これも予想外の展開でした。購入客には全員同じサービスをしているのか、それとも私がユルいというか、頼りなく見えたのかはわかりません。
若い男性店員は白魚のような美しい指で、ためらうことなく丁寧に、正確に貼りつけ作業をこなしてくれました。私が自分でが貼るよりはるかにキレイ。さすがプロです。いえ、作業料金を払ってはいませんから、プロというよりサービス。ここでも温かい気持ちになりました。ありがとう。

 若い頃はこうした些細な親切を拒否していました。他人とかかわることで費やすエネルギーをセーブしたかったし、ちょっとしたことでも自分のことを誰かほかの人に代わってもらったり手伝ってもらうのが、恥ずかしかったのでしょう。
悔しかったといったほうが正しいかもしれません。不必要に優劣を意識し、架空の競争に負けまいとしていた気がします。
 50歳を過ぎた今、遠き日の己の若さを笑い、傲慢さを恥じ、ちっぽけなプライドに憐れみすら感じるのでした。

        *        *

 私は生産性の無い人間です。結果を出すこともありません。ただ、受信するだけ。単なるレシーバー。自らを掘り進め、カラッポであることをはっきり自覚し、受容することで、ようやく私はレシーバーであることに気がついたのでした。

 ここまで来るのに50年もかかってしまいました。私の人生には結果が無く、意味は無い。しかし、心を開き、レシーバーになるためには、意味の無い年を重ねてこなければなりませんでした。まったく非効率な、うんざりするほどの回り道をしなければなりませんでした。

「ほら、水。飲みなよ。あんたの息子が持ってきてくれたんだよ」
 美奈が舌打ちをして、今度は毛布ごと体を起こし文彦の口元にペットボトルを持っていく。無理やり開けた口に水を流し込んだ。口から溢れた水が父の耳に入るのを見ても、なにも思うことができなかった。
 わかりやすい嫌悪や、血縁なんぞくそくらえといった思いすら浮かばない。父が家を出ていったあとに味わった数々の屈辱も、ささやかな肩書きを手に入れたときの優越感も、それらをすべて失ったときに見てしまったのも、なにもかもがペットボトルから父の喉に流し込まれる水と同じ、無意味なことのように思えた。 桜木紫乃著『起終点駅(ターミナル)』「スクラップ・ロード」(小学館文庫)より

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり[1] (16/01/17)

「いろいろあったの?」
「ま、ね。かすり傷ぐらいのことは。人には言われたくないけどね」英雄の本棚に目を移して言葉を続ける。「とくに、簡単に幸せをつくる方程式、なんて本を読んでるやつには」
「君はいま幸せ?」
 ちふゆがグラスを傾けた。首も傾ける。
「どうだろ。ま、ね、かな? 世の中のたいてのことってさ、YesかNoかでなんか答えられないんだよ。すべてが、ま、ね、だ」
 さっき年を尋ねたら、二十四歳だと言っていた。英雄だってぼんやり年を重ねてきたつもりはないが、自分のほうがいくつも年下に思えた。本気で死ぬことを考えたというのも、そんなに昔ではないだろう。 荻原 浩著『幸せになる百通りの方法』(文藝春秋)より

 個人的なことで恐縮ですが昨年10月ようやく満50歳を迎えることができました。反対意見もあるでしょうけれど、たかだか50歳でしょうけれど、生きるのは大変なことだと実感しています。
病気や怪我、交通事故など、何度も生命の危機に瀕しました。特に49歳のときは帯状疱疹の罹患を挟み、四輪車に自転車ごと撥ねられる事故が3回、まともに50歳を迎えられないどころか、50歳を迎えずに帰らぬ人となっていた可能性もありました。

 50歳は、世間的には働き盛りとも呼ばれる年代でしょうか。
すなわち、まだまだいける、頑張れるとか、これからが本番とか。それと、私の周囲だけかもしれませんが、特に男性諸氏は自慢話が非常に多いです。まず若さ自慢、続いて仕事自慢や功績自慢、それに家族や友人関係自慢、趣味の自慢、さらに不幸自慢など枚挙に遑がありません。
私には自慢できる若さも、仕事もありません。取り立ててアピールするほどの不幸な遍歴もありません。何かを為した実績などゼロ。何となく生きてきて、これといった結果の無い今までの人生は、幻だったような気もします。

 半世紀も生きれば物事の道理がわかるとも言われますが、私には人生が何なのか、今もってわかりません。私の人生に意味など無いのかもしれません。それでもわかってないことがはっきりしたのはひとつの収穫でありましょう。そして、人生に意味は無いことも何となく実感してきた気がします。
外見とか日常生活はともかく、私の内面 ─アウトサイダーの気質と弱い心根は何も変わっていないのでした。

 秋が深まる前のある休日、私はひとりポツンと川べりに座り、サンドイッチの昼食を頬張っていました。付近をときどき車が行き交うものの、人の姿はありません。
若かりし頃はこのようなとき、とてつもなく侘しくなったものです。カッコ悪い、友人がいない奴と見られているんじゃないか...

        *        *

 心も体も弱かった。強くなりたかった。それは己の弱さを隠すことでした。生活が窮乏することも、郷里を失うことも、一般的で標準的なレールから既に外れているにもかかわらず、懸命に隠し通しました。転落を過度に怖れ、世間に同化しようとしていました。
私はがむしゃらに働き、走りました。レールから外れまいと。落ちていく人々を気に留める余裕など全くありませんでした。もうこれ以上どうにもならず、とても続かないと感じるようになったとき、ついに体調を崩してダウン、レールから外れました。
それでも怖かったのです。世間から外れてしまったことが。早く復帰しようとすればするほど、ますます苦しみが深くなっていきました。

 今になって思うと、転機となったのは東洋医学であり、自然の食品や小さな個人店の数々だったような気がします。
それらは決して主流ではなく、市場経済社会からは少々外れているものを受け入れることでした。世間の常識、トレンド、民意と言われるようなものとは異なる世界を認めることでした。それは己の弱さを受容することであり、弱い己を愛することでした。立派でなくてもカッコ悪くても、多くの隣人たちを愛することでした。

 弱いことを受け入れ、若い頃に比べて感度が上がったような気がします。小さなもの、手作りのもの、積み重ねた歳月、そうしたものに感応するようになりました。存在感を出そうと自己主張することも無くなりました。高齢の人に学ぶこともありますし、そうでない人にも学ぶことがあります。 無名な若い人が立派なことも多い。年齢はあまり関係ないと思います。
景勝地だろうが、うらぶれた路地だろうが関係ない。感応するときは感応します。
敏感で、柔らかく、傷つきやすくたっていいじゃないか。弱いジジイなんて気持ち悪いと言われようが何だろうがどうでもよろしい。無用なもの、小さなものを拾い集めていきたいと思います。二次利用や再配分など考えずに、多くのことを受信していけるといいな。

 私はこれからも生産性のない人間であり続けるでしょう。有用な人間になる自信なぞ全くありません。無用でいいんです。結果を出さなくとも。
事故で何度か死にかけましたが、無用な私などいなくなったほうが、世の中のためだったかもしれません。そんな私なのに、数多くの方々にお世話になりました。何の生産性もない私のために。ありがとうございます。大変感謝しております。

        *        *

 秋の休日に川べりで座り込んだまま、サンドイッチを食べ終えました。河はのどかに、ゆったりと流れています。
河原 草むらでは秋の虫が静かに鳴いていました。モンキチョウでしょうか、黄色の蝶や白い蝶が舞っています。時折、ショウリョウバッタが「キチキチ」と音を立てて飛ぶのでした。
アキアカネとおぼしきトンボがたくさん飛び交っています。
上空にはツバメがたくさん。秋なのに、しかもこんなに? 今まで気づくこともありませんでしたが、秋、南国へ渡る前は巣ではなく川原で暮らすのですね。

 自分の存在はあまりにも小さい。自己実現なんて要らないじゃないか。こうして自然に身を委ねていることが幸せです。 何でもない風景ですけれど、この大地が愛おしい。イヤなことも良かったことも忘れていくようだ。世知辛い娑婆とはどこか異なる感覚。私が還るべきところはきっと自然の中なのでしょう。

 一匹のミツバチがすぐ傍に来ました。カワイイ。なかなか離れません。寄るところが違うじゃないか、私には蜜なんて無いのに。ミツバチはじきに数匹に増えました。ひょっとして私は彼らのテリトリーで障害になってるのかもしれません。ごめんよ、じゃまして。
 いつまでも楽園のような世界に留まっているわけにはいかないようです。厳しい浮世へと、私は戻っていかねばなりません。

 命が細くなっているのか。その細くなった命の隙間から見るから、葉の緑や風の白や空の青を一層鮮やかに感じるのか。ありうることである。しかも、そのようなちょっとしたことが、じんわりと愉しいのだ。いや、愉しいというより、単純に「いいな」と思うのである。その「いいな」は、よくいえば世界との親和、現実的には、たぶん、生きているということはいいな、という感慨である。 勢古浩爾著『定年後7年目のリアル』(草思社文庫)より

災厄とそれぞれの人々 (15/11/08)

 それでわたしは、冷たくこう言いました。
「あなたは、苦しみや悲しみをなくそうとしてはいけない。しっかりと苦しみなさい。しっかりと悲しみなさい、それがあなたにできることなんだよ」 ひろ さちや著『世捨て人のすすめ』(実業之日本社)より

事故現場  10月、自転車で交通事故に遭った後、整形外科で優しい言葉をかけてくれたのは医師だけではありませんでした。
 待合室では見ず知らずのお婆さんが、ガーゼを貼った私の酷い顔と包帯を巻いた腕を見て「あんた、どうしただ?」と心配してくれました。
 別に担当でもないのに、やや年配のある看護師さんは「まーはたぼうさん、どうしたね?」と声をかけてくれ、しばらくして回復してきたときには「ああー、だいぶ腫れが引いて顔色も良くなったねえ」と喜んでくれました。
 このHPでも掲示板を通して温かい言葉をたくさんいただき、感謝するばかりであります。もう少し仕事や日常生活に関係する方々まで事故の話が広がると、しかし、色んな考え方があって、必ずしも好意的な人たちばかりというわけではありません。

 まず無関心・無反応な方々。そりゃそうでしょう、経験が無ければ、ましてやふだん自転車に乗らない方々にとっては、別世界の出来事であります。コメントしようがないですよね。

 次に「呆れた」「もう何も言うことはない」という方々。もっともでございます。私に過失がほとんど無いとはいえ、1年間で3回も四輪車に撥ねられるなんて、学習能力皆無。救いようの無いバカですね。

 じっくり話を聞いてくれる方々。私のことを心配してくれるばかりか、叱ってくださることもあります。実にありがたいことであります。
 ところが中には「他人の不幸は蜜の味」な方々がいらして、事故をネタに仲間内での話題提供にご執心というケースもありました。

 事故に遭った私にはもう関わりたくないという方も。災厄を遠ざけるという考え方ですね。ごく正常な反応だと思います。

 それから叱責・批判・軽蔑される方々。事故に遭ってない人たちが正義で、事故に遭った私が罪人と言わんばかり。ご自身は安全圏に位置し、事故の原因は私個人の自転車にあり、私個人の乗り方にあるとレッテルを貼るかのようなケースが多く、私は低い立場へおかれ、独りで苦しむことになります。

 このように世の中には様々なタイプの方々がお見えです。どなたが良くてどなたが良くないかを言いたいわけではありません。心が広いとか狭いとか、分類するつもりもありません。私にはそもそも何か批評できるような資格はありませんし、私だってもし逆の立場であればどんな言葉をかけていたか、想像が難しいのですから。
本音がのぞいたといっても、本性のごく一部であり、その人の人となりが全て現われているわけではないわけですし。様々な捉えかた・考えかたがあるというだけのことです。


 今回はさらに次のような経験までいたしまして、大いに勉強になりました。

 なじみのカフェの一つで店主のおねえさんに不運にも1年で3回目の事故に遭った話をすると、知人が占いの勉強をしているから個人情報を言わない範囲で見てもらってもよいかと訊かれ、そのときは気軽に受けて私の生年月日を伝えました。

 次の機会に、おねえさんが占いの結果をおしえてくれました。私の人生は浮き沈みが無く、今年は平穏無事なものの、来年は良くないことが起こるとのこと。
なあんだ、完全にハズレています。まぁ、占いとは所詮統計学。代表例なら何か言えるのかもしれませんけれど、個人個人のことになるとハズレるのが普通でしょう。私はそう思っています。

 ところがその次にカフェを訪れたときは少々雲行きが違いました。私の反応や生い立ちの一部をおねえさんが思わず知人に漏らしたらしく、しかもその知人女性が占いの師匠に教えを乞うたと聞きました。
 私はもともと不幸な星のもとに生まれ、今年起きた不運な出来事はまだマシなほうであり、来年は深刻な災いが起きると。であるから、詳細を伝え、災難を避けるためにも是非お会いしたいとの話だそうです。災いが起きるときに助けてくれる人物が現れるなんて話も。

 ええっ? そうなんですか?
だけど、何だか仰ることが変わってきましたけれど... この占いって生年月日だけで判断するのだから個人の事情など関係ないはずだし、災いが起きるのだったら統計的に判明していることであって避けることなどできないのでは??

 少し落ち着いてみましょう。素直でない、屈折した私は次のように考えました。
 占い師が全てそうではないでしょうけれど、きっと初めから良いことだけを言うケースはほとんど無いのではないか。仮にそうしたら客が二度と来なくなってしまう。銭を稼ぐためにはどうするか ─ 初めは相手の興味を引くか、あるいは不安にさせるようなことを言うのだろう。それも抽象的で意味ありげなことを。そして運気を上げると言って何がしかの対価を要求するはずだ。

 心身ともに弱っていたので、微妙に引き込まれそうになっていたみたいです。危なかった。私の推測が本当かどうかなんて相手に確認する必要はありません。このような占い師は話術のプロです。論破などできるわけがありません。そもそも相手の土俵に上がってはいけません。事故で弱った私につけ込み、不安を煽って搾取する商法です。もう近づかないことですね。

 「信じる」には二種ある。一つは「正信」、もう一つは「邪信」である。正信とは、自身の心を汚れのない正常な仏の心と信じて、外なる対象世界に心の充足を求めないこと。
 邪信とは、自身の本来清浄なる心を仏の心と信じられず、外なる世界に心の充足を求めることを言い、たとい優れた行いでも邪信となる。 Toriino vol.36 2015 Autumn(日本野鳥の会)
弘 幻著『狐疑浄盡正信調直』より

 事故で被った肉体的および精神的苦痛のみならず、予想もつかない数々の苦しみが後になって待ちかまえているのでした。私のように苦境に陥り、弱っている、低い立場の人々は苦しまねばなりません。被害者は強くあらねばならないのです。

 私が頼るのは仏教的な考え方や文学─それも内的な感覚に合致するものです。苦痛を避けて救われたいと願うからダメなのです。
 人生に救いは無い。災厄を受け入れ、苦しむしかないのですから。

 世には運・不運があります。それは人間世界が始まった時からのことです。不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです。私はそう覚悟して、不運を生きてきました。
 私も弟も、自分の不運を嘆いたことは一度もありません。嘆くというのは、虫のいい考えです。考えが甘いのです。覚悟がないのです。この世の苦しみを知ったところから真(まこと)の人生は始まるのです。 車谷長吉著『人生の救い』(朝日文庫)より

亡母からの手紙 (15/07/05)

『去年の暮れから今までに「凱旋門」「ボヴァリー夫人」「母の肖像」「愛する時と死する時」「二十五時」と読んで今「異邦人」とよみ乍ら、小説の面白さをたのしんでいます。あなたや、Tさん、Gさんと渋谷でみた「太陽はひとりぼっち」をしきりに思い出し乍ら...
 きっと強烈な太陽と、「ボン」で観終わったあとのんだコーヒーの味と、人間って結局何だろう─ そんなものがどこかでつながっているのかもしれないわ』
     昭和43年5月28日の消印が押された手紙より

『よっぽど勉強しているみたいだけど、そうでもなくて、いろいろと子供のことばかりガミガミどなる母親になりかねないから、うるさい子供たちを忘れるために耳をふさいでいるだけ』
     昭和45年6月27日の消印が押された手紙より

極めて個人的な内容で恐縮ですが、ご容赦ください。
中高年のオッサンが母のことを語るなんてキモイかもしれませんが、私には話す相手がおらず、ここに記しておこうと考えた次第です。

手紙  亡母が他界してから37年が過ぎ、私自身の年齢は母のそれをとっくに越えています。母の記憶は既に不鮮明になり、命日を思い出すことも滅多になくなりました。そもそも死後1年で父が再婚してからは実母のことを家族で語ることは一切無いし、これからも話すことはないでしょう。

 縁が薄くなっていた実母の母方の親戚で優しかった叔父が亡くなり、線香を上げさせてもらいに叔母を訪れた際、古い手紙の束を渡されました。それは私が出生した前後の数年間、母が親しい友人宛に出した手紙でした。宛先の友人が長年大切に保管してくださっていて、叔母に託したとのこと。まさか半世紀ほども経ってから、友人に宛てた手紙を、息子が読むとは亡母も想像すらしなかったことでしょう。


 母は戦前、二・二六事件勃発後、軍部主導で中国東北部への大規模移住が本格化していく時代に東京で生まれました。国民学校初等科に通学中、戦局悪化に伴い地方に疎開。だがどこもそうだったように疎開先での生活は過酷なもので、骨と皮ばかりに母はやせ細り、栄養失調で命を落とす寸前のところを見かねた祖父に呼び戻されたそうです。親元に戻っても生活は苦しく、空襲の中を逃げまどったとも聞きました。

 私の幼少時に母が読み聞かせてくれた本は「淋しいおさかな」をはじめ、情操教育的には少々歪んでいるかのような変わった本が多かったのですが、「ベトナムのダーちゃん」が特に印象に残っています。
 近所の大きな寺でお祭りが開かれると、ほぼ毎年、並んだ出店の一角でゴザに数人で座り、楽器を奏でていた人がいました。軍帽を被り白装束の人たちはたいてい手や足が無く、黙って頭を垂れていました。何もわからずに彼ら傷痍軍人に無邪気に近づく私を、母が強く制したことを覚えています。


 私は幼い頃から協調性が無く意気地なし、泣き虫かつ強情という、恥ずかしくなるほど醜く、始終親を困らせていた記憶があります。弟が比較的愛らしいルックスで素直、親戚からもずいぶん可愛がられる性格だったのとは対照的に、さぞかし私は育てにくく強いストレスがかかったことでしょう。
 周囲よりも貧しかったとはいえ、母が育った厳しい環境に比べ、モノや便利さに恵まれて育つ私の甘ったれた性格は、許容範囲を超えていました。積極的に情操教育を試みても、私の頭の中はウルトラマンやサンダーバードで満ちていました。
 あまりに浮薄で軟弱な私を一人前にするため、母は厳しく接した。その厳しさに驚いたと後年従兄弟たちから聞いたほどです。私は行動に現し、結果を出さなければなりませんでした。そうしなければ親から承認されませんでした。

 小学校高学年になると学校でお受験ブームが起こりました。
もともと東京在住で高級住宅地の住民たちが、公立中学の良くない噂を信じこんだ結果、国立大付属中学や有名私立中学を受験させるのであります。そもそも居住地の異なる貧乏人の私たちには関係の無い世界だったはずですが、なぜか母は巻き込まれました。評判のよくない公立中学へ進んでも先は暗いと考えたのか、裕福な住民たちに対して中卒の母が意地を張ったか、今となってはわかりません。
 我が家の少ない可処分所得は学習塾費用へと消え、私にとってはレジャーの無い灰色の生活に変わっていきました。結果を出さなければならないことに変わりはありませんでしたが、残念なことに私はバカでした。難しい算数を教わろうと、頭の中はキカイダーやゲッターロボで占められていて、勉強はただの苦痛でしかなかったのでした。意欲の無い低能に高い教育を施そうともバカが治らなかったのは、誤算だったのでしょう。ストレスを蓄積させた母は徐々に体調を崩していきました。

 受験が近くなっていたある日。母が外出した隙に、当時大流行したスーパーカー消しゴムを並べ、狭い廊下に筆箱や下敷を使ってコースを設営、弟とレース大会を開いて夢中になっていたところへ、外出した母が帰宅。私の背信行為に大きく落胆して怒ることもせず涙を見せた母に、さすがにマズイと子供心ながら自省したこともありました。

 血の滲むような刻苦勉励を重ねた学友たちとは比較にならないほど、浅薄な構えのまま望んだ受験は、当然のことながら全て失敗に終わり、バカ息子に託した母の夢は潰えました。
 望んではいなかった公立中学の制服姿の私を見た母は、堪え切れず落涙しました。悔し涙だったのか、あるいは失望の涙だったのかもしれません。
 夢を失くした母は急速に体調が悪化し、私が中学生になってひと月もしないうちに41歳の若さで早世したのでした。


 なぜ半世紀も経ってから息子である私の元に手紙が届いたのかはわかりません。手紙には他愛もないことや育児のことのほか、映画や本のことなど、子供には知り得ない世界が母にもあり、一人の、不完全な人間として見ることができるようになったような気がします。母の友人のご厚意には大変感謝しています。

 何の因果か巡り合わせか、私は今、夢や目標の無い人生を生きています。
もしもあの世というものがあって亡母に会えるのならば、決して老いることのない母に対し、中高年になった私は案外落ち着いて接することができるのかもしれません。

 もう何かを目指す必要はないよ。頑張らなくていいんだ。
 そのままでいい、そのままで。




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