小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2017/03/26

過去掲載した編集◇コラム26

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体のメンテナンス再び (17/02/26)

 12年前を再現するかのように健康診断に引っかかり、大腸精密検査を受けることになりました。
 1月中旬の検査前日に数センチ積もった雪はあらかた融けたはずでしたが、そこへ未明からまた降った雪が積もって凍り、道路は激しい渋滞に。妻の車で病院まで送ってもらうはずが途中から全く動かなくなりました。これでは着かない。年に数度しか降らない雪に、地方都市の交通機関は極めて脆弱です。もはや電車やバスという選択肢もあり得ない。諦めた私はやむなく車を降りて自宅まで戻り、自転車を引っ張り出しました。ただでさえテンションが下がる検査当日に、よりによってこんな目に遭うなんて...
 動かない車の列を横目に、凍って白くなった自歩道を、自転車で慎重に走る私。さらに悪いことに雪が強くなってきまして、ヘルメットや上着がみるみるうちに白くなっていくのでした。幸いなことに受付に間に合う時刻に病院に到着。何事もなかったかのように平常通り開業しておりました。ドクターもスタッフの方々もスゴイ。雪に降られた程度で文句を言う自分が恥ずかしくなりました。

 12年前と同じように検査着に着がえ、大量の水薬をひらすら飲みます。私に選択肢はありません。なるようにしかならない。前回よりも水薬の量が少なく飲みやすいのがせめてもの救い。
 この日、同じ検査を受けるのは20人以上。ほとんどの人が40歳代から60歳代に見える中、何と18歳だと聞こえてきた青年が姿を見せました。こんな検査に全く縁が無さそうな、すらりとした美形でいかにもモテそうな好青年です。いったいどうしてこんな検査を受けねばならないんだ、なぜオレが?と思っていることでしょう。そして、検査着の穴あき紙パンツは若い青年にとってさぞかし屈辱的でありましょう。でも嘆くことはない。今はわからないかもしれないけれど、いつかきっと何かの糧となるはずです。私は心の中で青年を応援していました。

 今回は2時間少々で順調に検査の運びとなりました。12年前と同じようにベッドに寝かされて点滴をつながれます。私の2人前のおじさんが検査室から出てきて「手術が終わりました。ポリープを切除しましたよ。」と言われていました。おじさんは明日仕事があると申し出ましたが、看護師さんから「家へは帰れません。最低3日間は入院してもらいます。大きいポリープを切除するとはそういうことです。大腸に穴が開いてはいけませんから。」と諭されていました。入院だなんておじさんは予想していなかったのかもしれません。心中察するに辛いものがあるようです。でもポリープを切除できて良かったです。とにかくゆっくりと休んでください。ご自分の思うようにはならないのです。
 私の前の順番のおばさんは検査が辛いらしく、「力を抜いてください」「ああっ、余計苦しいですよ」と医師や看護師の大きな声が検査室から聞こえてきます。辛いだろうけれど、頑張っちゃいけないです。頑張らないように頑張ってくださいね。何の慰めにもならないでしょうけれど、私は心の中で祈っていました。

 とうとう私の順番が回ってきました。少々ドキドキしますけど、前回ほど心臓バクバクでもありません。鎮静剤を注射され、「眠くなったら眠ってください」と医師に声をかけられた次の瞬間、検査室とは違って明るい、回復室という場所に私は寝かされ、1時間以上経っていました。しばらく休んだ後、看護師さんから「着替えて待合室へ行ってください」と言われ、その通りにすると、じきにお茶とウエハースが出されました。飲んだり食べたりしていいということですね。同じように集まった人たちは10人程度でしょうか。 検査結果
 医師から検査結果の説明があり、問題なしとのこと。良かった、ありがとうございます。もう何でも食べていいですって。

 雪はとうに止み、日差しがのぞき、ところどころ乾いてきた自歩道を、ゆっくりと自転車で走っていきます。帰宅途中にある和食店は休み、近所のパン屋も休みでした。いいんですよ、検査結果オッケーだから。朝から何も食べてなくてウエハースだけだから少々フラつきますけど。自宅を通り越した先にあった、小さな小さなケーキのお店を初訪問。ここはイートインスペースがあって、ベーコンとほうれんそうのキッシュをいただきました。小ぶりながらヘンな味付けがされることなく美味しい。野菜も、特にミニトマトの甘さに驚きました。こうして食べられることが幸せです。

キッシュ  振り返ってみると、前回は自分のことでいっぱいいっぱいでした。恥ずかしいほど小さかった。今回は2回目で多少落ち着くことができたとはいえ、やはり不安はありました。もし何か見つかっていたら余裕はたちどころに消えていたに違いありません。けれど、ほんの少しながら他人の気持ちに寄り添えることができたような気がします。相変わらず何の役にも立っておりませんが、それでもいいじゃないかと思っています。

 最初、この「がんばらない」という文字を見たとき、ぼくははっと胸をつかれた。知的ハンディをもった西沢美枝さんたちの「がんばらない」「生きている」「ありがとう」「ぼくのたましい」という作品は、力みのない悠々とした筆づかいとともに、すごい迫力をもってぼくらの医療のあり方に問題提起をする。
 多くの患者さんたちからも「不思議な勇気を与えられる」と声をかけていただいた。「あなたはあなたのままでいい」「競争しなくてもいいですよ」と語りかけているようだ。 鎌田 實著『がんばらない』(集英社文庫)より

オフ会のこと (17/01/15)

 オートバイ仲間のミーティングやオフ会の類は数多あり、内容も千差万別でしょう。おそらく多くの場合、参加者それぞれが主役であり、参加者の満足度によって成功の度合いを量ることになるのではないかと想像します。参加者数をバロメーターとすることもあるかと。ですから一般的には参加者の満足度を向上させることが大きな目的の一つなのだと思います。参加者のうち一部が主役で他は脇役というケースも少なくないように感じますけど。

 このHPの一つの柱なのが冬季以外は毎月あるいは隔月開催しているオフ会。特にテーマを設定しているわけではありませんが、少なからず趣向を変えつつ、参加者も入れ替わりつつ、オフ会を初めて13年、プチオフも併せて開催数100回近くになります。ありがたいことです。自分でも、よく飽きもせずやってるもんだと思います。

オフ会の一幕  走りとグルメ、たまに観光をミックス。
ときどき走りが乏しかったり、グルメがショボかったりします。それなりにバランスさせているつもりですけれど、どちらかというと仲間内でダベるとか、バイク談義するような機会は少ないかもしれません。
参加者に対するリサーチも特になく、ほぼ主催者の私自身の趣味になっております。
参加者を多く募ることが目的ではないし、メンバー制や会員制はとっておらず、参加は自由。やめてしまうのも自由。私自身縛られることが苦手なため、他者を縛ることを考えておりません。

 それでも長年続けてこれたのは、参加くださる方々のおかげであり、温かく支えてくださるおかげであります。本当にありがたいことです。いつも感謝しております。そこで僭越ながらこの機会に、私自身が感じていること、今後どうしたいかを書いてみたいと思います。


 細かく確認したわけじゃないので想像の範囲でしかありませんけれど、ヘビーなリピーターでもない限り、ここのオフ会に参加すると、きっと物足りないと感じるのではないかと思います。
カスタムや走りをはじめ、バイクライフについて語り合う時間が多くはありません。有名スポットに行くことも少ないし、ここに行っとけというような定番ルートも走らない。観光してもローカルエリアばかりで的外れ、絶景にも乏しく、有名店にも行かない。ネット上での評価の高いお店を選ぶわけでもない。特にライダー御用達の店にはほとんど行きません。むしろライダーにとっては少々入りにくい、小さな地元密着型のお店に寄ることが多いです。

 こうしたことが何を意味するかというと、その場はともかく、後になって他人に紹介したり自慢できるような体験が無いということになります。言い換えると、他人の価値観で量るような体験が期待できない。相対的な付加価値はありません。損得で考えると得なことが無いことになります。

 もう一つ。
メンバーでも会員でもない参加者どうしですし、連帯感はそれほどありません。濃厚なコミュニケーションは無い。日常連絡を取ることもありません。失礼ながら参加者それぞれが主役というわけでもありません。人間関係にとって重要とされる自己承認の欲求が満たされる機会が期待できない。主催者の私自身だって先導やガイド役を務めても、自分が主役だとは思っていません。


 ではオフ会では何が目的で、何が得られるのでしょうか? 私は勝手ながら次のように考えています。参加者どうし、ライダーどうしが仲間内でつながるだけの閉じた世界にしたくない。知っていることを確認するだけの機会にはしたくない。
閉じた共同体における相互承認を進めるのではなく、外へと、もっと広くてユルい共同体を意識したい。外界を受け入れることで、ああ、こんな世界があったのかと気づくことや、愛しく感じることがあるでしょう。
 何でもない風景の美しさだったり
 小鳥や虫の可愛らしさだったり
 歳月を経た古い街並みの味わいだったり
 細くて荒れ気味な道が見せる往時の物流だったり
 自分らしくシンプルに頑張っている小さなカフェだったり
 参加者の走りかただったり、それぞれの個性だったり

 どれもがたいしたことではないし、どうでもよいことかもしれない。私が主催するオフ会に価値はありません。
でも幾多のミーティングや集まりの中、数値化できないことや無意識なことを大事にするオフ会があってもいいではありませんか。今後もオフ会を細々と続けていくことができるのなら、小さいこととか目に見えないこと、地域のことをなるべく意識するオフ会にできたらなあと思います。高齢化やリピーター率が高止まりでも、たとえ参加者がゼロであっても。
 と何だか偉そうなことを書いていながら、参加者が誰も来なかったらどうしようと毎回ビクビクしてる、小さな私です。

 バークは、奴隷の身分に安住しなかった、人がよく、待ちくたびれて平凡な幸福に安住するようには。彼は奴隷の主人の親切を、奴隷の自分の喜びとすることを好まなかった。彼はいま不在のモハメッドのために、モハメッドがかつて住んだ家を自分の胸に大切に保存していた。住む人がなくて寂しいこの家ではあるが、ほかのだれにも住ませたくなかった。バークは似ていた、並木道の草と沈黙の退屈の中で、忠実一途に死んでゆくあの白髪の番人に。 サン-テグジュペリ著「人間の土地」(新潮文庫)より

ヒデリノトキハナミダヲナガシ (16/09/25)

 私がときどき通う理髪店は格安なだけあってサービス的なものはほぼ無し、理容師がメニューをこなすだけで客がゆっくり会話することも少ないお店です。
 先日、薄くなってきた私の頭髪を切りそろえてくれたのは、私よりも年齢が一回りは上であろう理容師のおじさん。私が昨年秋に自転車ごと四輪車に撥ねられて通院中なことは以前軽く話したことがあり、「まだ痛む?」といった挨拶程度な会話がここ数回続いていました。

 この日もその程度なはずでした。
「まだ病院行ってるの?」
「はい、通ってます。長くてイヤになっちゃいます。」

ところが今回はここで終わらず、おじさんが話を続けました。
「私はねえ、膝がもう元には戻らんのですよ。」

そう切り出したおじさんは、いつもと違って一気に、しかし静かに語ってくださいました。

 今から37年前、おじさんが29歳だったときのこと。
 愛知県東三河地方でおじさんがオートバイに乗って交差点を通過中、高齢者が運転する対向右折車に撥ね飛ばされました。出血多量で脚があり得ない方向に曲がってしまったそうです。
 おじさんは救急搬送されたものの、なぜかすぐ近くの救急病院へは運ばれず、現場から離れた個人病院へ担ぎ込まれました。さらに悪いことにその個人病院の高齢の医師が処置を誤ったらしく、膝が動かなくなる事態に。幾日経っても良くならないため大学病院へ転院。手術を受けるも失敗し膝の骨が欠損してしまいました。それではとさらに手術が施され、もう片方の膝から骨を部分移植するも、また失敗...

イメージ  おじさんには婚約者がいました。2年もの間待ち続けてくれたのですが、しかし一向に回復の兆しが見られないおじさんから去っていきました。

 2年間も待った婚約者は心優しい人だったのでしょう。当時若かったおじさんに心底惚れて一生連れ添うつもりだったに違いありません。
 だけど現実はあまりに過酷でした。度重なる手術の失敗もあって大量の鎮痛剤と睡眠薬を投与されたおじさんは意識が半ば混濁し、もはや元の人格を無くしていたのです。
 おじさんから離れていく婚約者を責める資格は誰にもありません。月並みな暮らしを望んでいた若い女性に、いつまで続くかわからない過酷な状況に耐えろと言うほうが非道です。

 その後幾度も手術が繰り返され、9回にも及びました。薬のため人格を半ば失っていたおじさんには自死を考える自由意志すら無かったのかもしれません。退院するまでに4年半ほどかかったそうです。退院後は想像もつかないほど苦しい暮らし向きとなり、30年以上経った今でも膝は満足に曲がらない。



「はい、終わりましたよ。」

 理髪店にいることも忘れて私の意識は己の肉体を離れ、おじさんの無念さに同調していました。おじさんにかける言葉が見つかりません。私が車に撥ねられた体験など比較にならないほど小さく、浅薄な私ごときの精神力ではこれほどの残酷な境遇に耐えられないことでしょう。
 体にまったく力が入らず、私は心の中で手を合わせるのが精一杯でした。
「おじさん... よくぞ、よくぞ生きていて、そして私に話してくださいました。ありがとうございます。」


 何か明るい話題を振れば良かったのか、それとも冗談を飛ばしておじさんを笑わせればいいのか。きっと違う。おじさんは笑い飛ばしたくもなければ安っぽい同情も期待していない。元気づけてもらうことなど求めてはいない。

 とはいえ、私にできることは何もありません。何の役にも立たない、ただのレシーバー。デクノボーです。
でもいいのです。おじさんの魂は無念とやりきれなさ、屈辱や怒りを抱え、ぶつける先を求め、私のようなレシーバーを探していたのかもしれませんから。

 あの日、彼女は悪意をもって大津をそこで待った。階下で荘重な音をたてて大きな時計のチャイムが鳴り、眼の前に表紙のゆるんだ聖書が開かれていた。

  彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい
  人は彼を蔑み、見すてた
  忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる
  まことに彼は我々の病を負い
  我々の悲しみを担った

(わたしは、なぜその人を探すのだろう)
 その人の上に女神チャームンダーの像が重なり、その人の上にリヨンで見た大津のみすぼらしい姿がかぶさる。 遠藤周作著 『深い河』 九章「河」(講談社文庫)より

選択肢と生きる実感 (16/08/07)

 こうやって遠のいてゆくのだ。何もかも、自分には手の届かぬところで変化し淘汰してゆく、されてゆく。悪者をつくれば心のおさまりも良いに違いないが、そんなことをして何になる。 桜木紫乃著『ホテルローヤル』「せんせぇ」(集英社文庫)より

 昨年10月、自転車ごと四輪車に撥ねられたときの怪我が遅々として回復せず通院を続けていたところへ、事故相手の保険会社から治療費支払い打ち切りの通達が届いたのが6月下旬。
 病院の医師に相談するも客観的な検査データを提示できないという理由で、治療費打ち切りを受け入れる以外の選択肢がありませんでした。それでも右手首の痛みと右耳の違和感は残ったままなので、しかたなく自費で通院を続けています。

承諾書  治療費打ち切り処置の後に届いたのは、事故の損害賠償に関する承諾書。人身事故のごく一般的な書類であり、早い話治療費をはじめ金銭を払うことで解決済みするというものです。これまでも今でも痛くて辛い思いをしているのに、こんな紙切れで解決なんて到底納得できません。
 しかし現実的に私には他の選択肢が無い。全く無いわけではないでしょうが、先方と争っても、己のちっぽけなプライドを満たしたとしても、私の怪我が良くなることはありません。自分の身に起きたことを、ただ受容するしか無いのです。
 それと、怒りや恨みといった感情がほとんど湧きません。保険会社との交渉がなぜか自分のことではなく、別世界の出来事のようにも感じられます。


 今年は梅雨が明けてもしばらくすっきりと晴れる日が続かなかったせいか、どこか気怠さを拭い切れない体調を抱えています。それ以前の、梅雨明け前のほうが酷かった。体に力が入らず、生きている実感が薄く、空虚な日々を過ごしている気がしていました。特に体のどこかが具合悪いというわけではなく、心と体が分離しかけている感覚、自分の体ながら遠隔操作をしている感触でありました。
 病院で検査を受けても異常値は見られず原因不明。東洋医学のクリニックで診察を受けると、身体の内部が冷えて胃腸の活動や基礎代謝が低下しているらしい。
 漢方薬の服用と、梅雨明け後の天候が好影響だったのか、徐々に回復してきた感触はあるものの、まだ生体エネルギーが不足していて、わずかながら分離しかけている感覚が残っています。唯一己の肉体を実感するのが事故で傷めた右手首の疼痛というのは何とも皮肉です。

        *        *

 先日ふらりと出かけたツーリング先では多くのツバメを見かけました。
ツバメの巣 もうずいぶん大きくなっているヒナたちは餌をねだり、親鳥は休む間もなく餌を運ぶ。ツバメたちにも選択肢は無いのでしょう。自然界とはそうしたものなのかもしれません。ツバメたちは、だけど懸命に生きていました。巣作りや餌の確保も大変でしょうし、カラスをはじめ他の野鳥や動物の脅威から身を守らねばならないでしょうし、決して気楽なことなど無い営みを連綿と続け、これからも続けていく。その姿は崇高で美しい。
 自ら進路を選択し運命を切り開いていく人生の人たちも多いことでしょう。しかし、運命に抗えずに流れ流されていく人生の人たちも少なくないはず。人間だけが選択肢を持っているというのは幻想に過ぎないのかもしれません。


 いい歳していても、暑くても寒くても、私は気が向くとオートバイや自転車で走ります。右手首が痛くても。
 何のために走るのか自分でもよくわかりません。だけど走っているときは、自然と心を通わせているときは、心と体が合致し、自分自身が生きていることを実感できる気がします。ただそれだけのために走っているのかもしれません。

 あがき、もがき、迷いながら、日々を生きていく、ただそれこそが、生きているってことだ。そのなかに、喜びも悲しみもある。そのダラダラした日常を一人味わうってことが、生きるってことなのだ。絶望しようと、解脱しようと、それはその人にとって意味があることで、私は私、人は人、それぞれの道を歩くしかないんだ。 田口ランディ著 『生きなおすのにもってこいの日』 (バジリコ株式会社)より

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり[3] (16/03/27)

 人はこれまで生きてきたように、そのあともそのように生きる他はない。人には人生の上でいくつも岐路がある。たいした岐路ではなかったが、わたしにもあった。いくつかの岐路があったし、いくつものべつの生き方もあったはずだが、結局、この道を生きてきてしまった。世の中には、驚くべき転身をしたり、それまでとまったく違う生き方をするような人がいる。しかしそのような場合でも、人は変わるべくして変わるのであろう。それもまた、その人の資質だったとだったといいたい気持ちがわたしにはある。 勢古浩爾著『定年後7年目のリアル』(草思社文庫)より

 普段映画を見ることのない私ですが、たまたま格安鑑賞券が手に入ったのが昨年の終盤。スターウォーズの新作でも観ようかと思い、今年初め、正月気分も抜けた頃にシネコンを訪れました。5年ぶりどころか10年ぶりくらいかもしれません。
 シネコン入口の展示でスターウォーズの隣に並んでいた『母と暮せば』という映画が目に止まりました。邦画には特に興味ありませんが、そのときなぜかスターウォーズを止めて『母と暮せば』を選んだのでした。内容には全く期待しておらず、どのみち格安鑑賞券が元手ですし、つまらなかったら途中で寝てもいいか、くらいのつもりで。日曜にもかかわらず、観客は非常にまばらで9割以上が空席でした。

 太平洋戦争後の混乱期、夫も息子二人をも失った女性が、物資が不足し超インフレで窮乏する中、傷んだ家屋に住まい続けながら暮らす物語。

チケット  母子の家族愛がテーマの一つでしょうが、家族の絆をことさら強調しているのではありません。愛憎でもありませんし、懐古趣味でもありません。サクセスストーリーでもなければ、仲間との連帯でもありません。反戦がテーマだと言うには無理があるようです。同情を誘うわけでも、慕情とも違います。
 刺激的な場面は無く、興奮することも無い。ハラハラするようなスピードは無いし、特にドラマチックな展開もありません。マーケティングとかトレンドとか、そうしたものとは縁がない。人によってはつまらないと感じることでしょう。

 しかし良い意味で期待に反し、私はほとんど泣き通しでした。心震え、共感したからです。何に?── 人それぞれ受け止めかたが異なる映画だと思いますが、私が感じたのは “喪失”。原爆によって喪った息子の幻影を見つつも、悲しい現実を受け入れていきつつも、さらに厳しい現実を生きていかねばならない。それは敗戦国の被害者という設定ながら、特殊なケースではなく、普遍性があり、シンプルなテーマだからこそ、観る者に入り込んでいく。いえ、入り込むのではなく、観る者の内部の奥底へ光を当てるのだと思います。優しい光を。

 一般的には、ボロボロに泣くとその後はすっきりすると言われますが、今回は様子が違いました。



 シネコンで風邪を引いたのでしょうか、一日経ってから身体が何となく熱っぽくなり、具合が悪くなるとともに気分まで悪化してしまいました。
わけがわかりませんが、なぜだか生きていてもしかたなく思え、生きる意欲が極端に低下したのです。不思議なほどマイナスな感情が酷くて、発作的に思い詰めたようになっていました。
 風邪による一時的な気分の落ち込みとはまるで違う。どうしてこんな心境に陥ってしまうのか頭ではさっぱり理解できません。私に悲劇が起きたわけでもないし、何か大事なものを失ったわけでもありません。
 ここで行動を起こしてはいけない。あまりにも危険な状態。落ち着かなければなりません。やはりまだ映画の余韻を引き摺ったまま、いえ、私の心身が何かに強く感応したと考えるのが自然でしょう。

 映画を観ていたとき、私は無意識に心を開き、レシーバーでありました。うまく表現できませんが、普遍的といえるテーマ:死や喪失について、思った以上に強く感応したに違いありません。

 劇中、主人公の伸子がこんなことを言う場面があります。このまま生きていても何も良いことはない。いっそのこと息子の後を追って... 息子の婚約者だった町子が、やめて、おばさんと遮ります。
 他のシーンもそうですが、俳優の演技が真に迫っていました。迫真の演技に感じたのは、俳優自身が少なからず感応していたからでしょう。もちろん映画監督や脚本家はそれ以前に感応していた可能性が高い。何に? ──どうしようもない悲しみに。苦しみに。

 他にもいくつか選択肢があるはずなのに、劇中、苦しみながらも逞しく生きようとする他に人々が描かれつつも、主人公は亡き息子の思い出に捉われて不器用にしか生きることができない。おそらく主人公はこのように生きるしかなかった。原爆という特殊性を除けば、似たようなことは現代でも数多いことは容易に想像できる。はるか昔から、今も、きっとたくさんの人々が同様な苦しみを抱えている。そんなあまたの思いに感応してしまった。感応するべくして感応したのでしょう。


 私は未来を悲観し、人生に酷く絶望していました。行動を起こさないようにすることが辛い。余計な感情があるから苦しい。どうしてだろう? 何も考えずにただ黙々と生きることができればいいものを。

 若い時分は原因を突き止め、気分転換など解決策を模索しました。しかし今は違う。年齢を重ねたからこそわかる。大事なことは共感すること。苦しむこと。こうしたときに何か行動を起こしてはいけない。これは私自身に降りかかった出来事ではない。落ち着かなくては。
 なぜそうなのかはわかりませんけど、人生には苦しみや悲しみも必要なようです。だから、そのまま受け入れ、しっかりと向き合い苦しまねばなりません。じたばたせず、このマイナスの感情をそのまま受け止めよう。


 わけのわからない絶望感はまる一日続き、すっかり憔悴してしまいました。その後、直ぐにとはいきませんでしたが、苦痛が無くなり、回復しました。いったい何だったのだろう。今振り返っても不思議です。

 50年も生きてきたのに、私は生産性の無い、何の役にも立たない単なるレシーバーでした。しかもマイナスを受信することで具合まで悪くなれば、他人の手を煩わすことになることでしょう。でも、いいのです、おそらく。
きっとなるべくしてこうなったのでしょう。そんな気がします。
 映画に登場した上海のおじさんや、町子がこう言っているような気がしました。
 「よかよか。 レシーバーでよかとよ。」

 夕焼けの美しい日暮れだった。田彦が家に帰ると、章江が台所で一人で泣いていた。
「お母さんは、数彦はどうしたんだ。」
「家にいないの、私が学校から帰って来たら。」
 卓子の上に置き手紙があった。「数彦を連れて、海を見に行きます。蘆江。」 車谷長吉著『忌中』「三笠山」(文春文庫)より

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