小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2018/12/02

過去掲載した編集◇コラム29

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コーヒーがおいしいカフェ (18/10/14)

 わたしたちは「外」ばかりを見ている。そして、持っている「外」の数が多いほど、それで「生活が埋まるから、自分の生活は「豊か」で「充実」していると思う。人からも趣味が多彩、社交的、行動的、好奇心旺盛と評される。楽しさは最初、すべて「外」からやってくる。それが段々、自分のものになっていく。 勢古浩爾著『古希のリアル』(草思社文庫)より

 ぽっかりと時間が空いた休日の午後。
今から遠出するほどの時間はないけれど、オートバイや自転車を手入れする気分でもない。隣市のカフェに行って一人でゆっくりしよう。

 ここはコーヒーがおいしいカフェ。女性客が99%の印象ですが、オジサンお一人様だって嫌な顔はされません。もっとも私がそう思っているだけなのかもしれませんけど。

 ああ、とってもいい香り。酸味は少なくコクが格別深くもなく、取り分け美味というわけでもないのですが、なぜだかのぼせた頭が落ち着き、ゆったりとした気分になって、脈拍が下がり、呼吸が深くなっていきます。
 そうだったな。ここのところずっと呼吸が浅かったのかもしれない。己のペースを取り戻すかのようです。

 それだけではありません。目を閉じると邪念が消えていく。仕事のことも、バイクもクルマも自転車も、自宅も、このHPのことも彼方へ消し飛んでいきました。過去も未来すらも。
 その刹那、私の意識は己の殻の外へと浮遊し、自分の人生を俯瞰していました。カネのことや健康を憂慮して落ち着かない自分を。何でもない些末なことに心を奪われて頭に血が上り、イライラしていた自分を。
 あれこれ考えてクヨクヨしてもしかたないじゃないか。なるようにしかならない。結果とか実績とか、そんなもの要らないはずなのだ。もっとラクに行けばいいのさ。気味の悪い客だと思われるかもしれないけれど、構うことはないのです。


 もっとゆったりとコーヒーを味わっていたい。だけど、浮世を離れるようなこうした感覚は長くても数秒しか続きません。あとはいくら飲もうが目を閉じようが現実世界に引き戻されて、つまらないことをあれこれ考える自分がいるばかりです。

 そうだ、考えてもしかたない。なるようにしかならない。またいつか、コーヒーを飲みに来ればいいだけのことじゃないか。そのときまで、臭い娑婆でどうにかやっていくしかないのですから。

 気がついてみれば、「豊か」で「充実」していたはずの生活は、すなわち自分という人間の中身は、空っぽだったのである。ただ「外」に目を奪われていただけで、自分がなにも考えたことのなかったツケが回ってきたのだが、そんな自分にイラついても、もう遅い(いや、遅くはない)。自分でもそのことがわかっているから、他人のせいにはできない。 勢古浩爾著『古希のリアル』(草思社文庫)より

旅と実績 (18/08/19)

「慢」とは、良く思われたいといった自己の評価を気にし、プライドにしがみつく「欲」の煩悩のうちのひとつです。他人から良く見られたいという欲もありますが、それより深いのは、自分が自分の株価を下げたくないという自己イメージへの執着です。 小池龍之介著「考えない練習」(小学館文庫)より

 20kmほど離れた隣市のカフェへ行こうと自転車で走り、カフェまでの中間地点にあるJRの駅でひと休みしていたときのことです。
 電車から降りてきた乗客が改札口を出てきたところでした。地方の駅の、休日の日中ですから、全部で10人前後程度。その中に腹が突き出た恰幅の良い中高年男性がのっそりと私に近づき、「サイクリングですか?」と話しかけてきました。
 ここからたいして遠くないカフェが目的地であることを告げると、そのおじさんは「自転車はいいぞ」とご自分の昔話を始めました。40歳代のころ、北海道旅行で道央を訪れ、レンタサイクルで美瑛を走ったそうです。約50kmも走り、セブンスターの木も見てきた、など、とうとうと話すおじさんは止まる気配がありません。きっとこれまで幾人もの人たちに同じ話をしてきたのでしょう。

 だけど、おじさんの話を聞いても、北海道の自然も、色彩も高揚感も全然感じられません。自分のことをさしおいてこんな表現をして申し訳ないですけど聞いている話が灰色のようでした。
 「北海道はいいぞ、あんたも行くといい」と話すおじさん。しかしその話の中身は現地への敬意や憧れが一切無く、おじさん自身の心境の描写もなく、どこそこへ行ったという結果とか何々をしたという実績ばかり。おじさんの話は途切れることなく続き、私も北海道を自転車で走ったことがあるなんて口を挟む隙を与えてくれません。
 おじさんの気分を害さないよう「すごいですねえ、それは良かったですねえ」と、相槌を打つと、おじさんの話はさらに勢いを増し、「北海道はいいぞ」と繰り返すのでした。
 話がひと段落したところで「おじさんもまた行って走るといいですよ」と私が言うと、おじさんは急に顔を曇らせ「この歳だで、もう走れん」と仰います。先刻までの話の勢いは無くなってしまいました。確かに若い頃の体力には及ばないでしょうが、不健康には見えません。そんなに北海道が良いと感じたのなら、他人に説明するより自ら再訪したほうが幸せなはず。

 鈍い私はやっとわかりました。おじさんは北海道を称賛してほしいのではない。北海道の人々や自然を話したいのではない。北海道を走った “実績”、その実績を持つおじさん自身を承認してほしいのです。
 実績とか結果はたいていの場合、客観的であり相対的です。他者がその価値を評価できるように。話を聞かせた私に称賛してほしいからこそ、おじさんは実績ばかり強調していたのでしょう。そして再訪しないことを決めているのは、若かったときと同等以上の実績が得られないであろうから。相対的に下がった実績を、おじさんのプライドが認めないのだと思います。
 もう私は相槌を打つことはせず、目的地のカフェへ向かいますと言っておじさんと別れました。

 おじさんの話をもっと聞き、称えたところで、おじさんのプライドは一時的に満たされるのかもしれません。でもそれで満足することはないと思います。私のような、ショボクレたオッサンに承認されたところで満足なわけがない。もっと大勢の強い承認を渇望することにつながる気がします。もっとも、おじさんにはおじさんのプライドがあり、おじさん自身の人生があります。他人の私が口を挟む資格はありません。


 私は自分自身のことを省みなければなりません。私も結果とか実績を強調することが少なからずあります。このHPだって、結果や実績などの相対的価値観の塊かもしれません。その裏には相対的なものを提示することにより、手っ取り早く己自身のことを受け入れてほしいという浅薄な自意識が巣食っております。
 私の性根は醜い。
いい歳して、他人のことよりもまず自分のことを優先しています。ちっぽけなプライドを捨てたいのに捨てることできない。おじさんの話は、私自身への戒めでもあるのでした。

 結果とか実績にとらわれず、自由に旅をしたい。つまらないプライドに縛られず、自分優先でなく他者と分かち合えることが自然にできるようになりたい。
 50歳をとうに過ぎたというのに、他人から見たらどうでもよい苦しさを内面に抱え、解決することなく日々を過ごしています。でも、こうして内的に悩み迷って苦しむことが、相対的な価値では測れない幸せなことなのかもしれません。

 最初の「反」は他人にたいして生じるが、自分への「反」は、他人からやってくることもある。しかしその多くは自省によるものである。人から指摘されると、自分が悪いとわかっていても、指摘されたということだけで「逆切れ」する者がいる。それが嫌なら、人にいわれる前に、自分で気づけよ、このアホが、と思う。
 ボクサーの村田諒太が「人にいわれて気づくより、自分で気づかなきゃいけないんで。そういうやつじゃないと、強くなんないんでしょうね」といっていたが、その通りだと思う。 勢古浩爾著『古希のリアル』(草思社文庫)より

旅と出会いと [9] (18/07/22)

 2018年のGW後半のある日。岐阜県可児市のコインパーキングに車を置き、積載していた自転車を降ろして八百津郊外へと走っていきました。途中から坂を上り、12%勾配と表示されている箇所もどうにか越えて食事処へ辿り着くと、開店30分以上前なのにもう何組かが入口前に並んでいました。さすがGWです。
 このお店には1年半以上も前、オートバイのソロツーで1回、プチオフで1回訪れたきり。お店の方が一介の中高年を憶えているはずもなく、ただランチをいただいて引き上げるつもりでした。女将さんは、他の客にそうするように私と妻のオーダーをとり、料理を運び、忙しく動き回ります。
 食事も済み、「食後のドリンクをお持ちしますね」と女将さんがお皿を片付けようとしたとき、「あーっ!」と大声を出されました。
忙しいせいかどこか事務的だった表情に、温かみのある笑顔が浮かんでいます。
「えっ? まさか、憶えてらっしゃいました?」と訊く私に、
「憶えていますとも! 前も個性的な恰好(ヘンな恰好)でしたもの!(笑)」
そりゃあ、以前はみすぼらしいライダーズジャケット、今回も場違いなサイクルジャージですけれど、1年半以上前の、一見さんに過ぎない私のことを憶えているなんて驚異的な記憶力です。
 会計のときにドリンクをサービスしてくださいまして。「いえ、ちゃんと払います」と申し出る私たちを遮り「来てくださっただけで嬉しいですから」と女将さん。
慌ただしく混雑しているときに押し問答するのもよくないので、ご厚意を受けることにいたしました。お忙しいのにすみません、ありがとうございます。

 八百津商店街で買い物の後、私たちは可児市まで戻り、カフェに寄りました。なじみのカフェとはいえ、年に1〜2度のことですから常連客ではありません。
店内に入るとママさんが私たちを見てパッと笑顔になり、「そろそろ来る頃だと思ってましたよ。待ってました」と優しく迎えてくださいました。
 カウンター席に座った私たちとママさんとの話は弾み、旅のことや健康のこと、食べ物のこととか、買い物のこととか。コーヒーも素晴らしくおいしい。おそらくママさんは私よりもひと回りは年上かと想像しますけれど、全然偉ぶるところもなく、わかったようなことも言わず、誰に対しても自然で、柔らかい物腰が素敵な女性です。こうしてママさんとお話できることが幸せ。ありがたいことです。


 その前日のこと。
GW期間中の渋滞を覚悟で南信州へソロツーリングに出かけました。
随所で道が混み合っていたのは予想通りでしたが、行こうとしていたお店はランチの予約客で満席。近くの蕎麦屋も店の外まで行列が並び、道の駅でも満席で1時間待ちの構内放送が流れるほど。
 しかたなく長いこと走り、おやつの時間に寄ろうと思っていたカフェに入りました。
ランチタイムギリギリ終盤なので案の定満席状態でしたが、カウンター席が空いていて、どうにかランチにありつくことができました。
以前訪れたときとスタッフが全員入れ替わったようで、見知らぬ方々ばかりでしたが、嬉しかったあまり、「よかった、席が空いていて」と、カフェの若いおねえさんが忙しそうなのに声をかけると、おねえさんは手を休めずに「ツーリングですか?」と返してくださいました。
「友達でバイク好きな子がいまして」と話すおねえさんは、忙しい中、みすぼらしい中高年お一人様の私にたくさんのことを話してくれました。ご友人のこと、旅のこと、仕事のこと、趣味のこと、ご家族とのこと... 話して話して、気づけば1時間半も経っておりました。
 初対面で見ず知らずの私に対し、心を開いていろんなことを話してくださり、本当にありがとうございます。誰にでもそうするわけではないでしょう。私も心を開放できた気がします。おねえさんはこれまで順風満帆ではなかったのかもしれない。苦しんで、でも自分を取り戻しているようなこともおしえてくださいました。そんな姿が美しいと感じます。なぜここまで話し込むことになったのかわかりません。おねえさんもわからないのかもしれません。世の中にはわからないことがいっぱいあります。わからないままでいい気がします。

 人と人は出会うべくして出会い、別れるべくして別れるのでしょう。そしてほんの一瞬、何かが共振することがある。それが何だかはよくわからないし、再度同じように共振することもないのだと思います。

 他者の悲しみはいつも自分の悲しみを知るためにある。そして人が人を必要とするのは、お互いの心にある相似形の感情と共振するためだ。
 誰かと誰かの悲しみが、共鳴しあう瞬間に、人はたぶん、悲しみそのものを通過していくんだと思う。
 わかりあえるかどうかなんて、その瞬間の前には、どうでもいいことなんだ。 田口ランディ著『神様はいますか?』(新調文庫)より

旅と出会いと [8] (18/07/01)

 2018年春の自転車旅でも様々な出会いがありました。中でも自転車の旅を終え、愛媛県のJR松山駅で自転車を分解して輪行袋に収納し、改札を通ってホームへ移動しようかという頃に印象深い出会いがありました。

 未明に激しく降った雨は奇跡的に一時止んだようです。疲れている体を動かし、早めにJR松山駅まで移動、輪行作業を済ませました。
移動中の食料などを買い、そろそろ改札を通ってホームへ移動しようかという頃、一人の若い青年が自転車を抱えてすぐそばにやってきました。
「あのー、改札で通れないって言われて...
 でも輪行のやり方がわからなくて、教えてもらえますか?」

ロードバイクの前輪だけを外し、輪行袋が被らず申し訳程度にバスタオルをかけたかのよう、後輪もフレームも思い切り露出している状態。いくら何でも無理でしょう。車輪もハンドルも袋で覆い、露出部が無いようにしなければなりません。
「後輪を外せば輪行袋に入るのではないですか」と私が言うと
「レバーが硬くて外れなくって、初心者で何もわからないんです。
 昨日しまなみ海道を走り通して、輪行するのはこれが初めてで」と青年。
事情を察した私たちは輪行作業を開始しました。輪行袋を広げるとどうやら縦型。私たちとほぼ同じなので話は早い。しかし後輪のクイックレバーがかなりきつく締まっていて容易には外れません。おそらくショップの人が作業したのでしょうが、きっと悪気はありません。自転車の整備は車やオートバイよりも指先の力が要求される作業が多いと思います。ショップの人も良かれと思ってちょっとだけきつめにしたつもりでも、普通の人にとっては外せないほどになってしまうのでしょう。あまりにきつかったらウエスを巻いて作業するつもりでしたが、そこまでしなくとも外れました。青年の自転車は買ったばかりに見える、ピカピカの最新カーボンロードバイク。軽い。総重量9kgを切っていることでしょう。軽い軽いフレームを立てて前後輪で挟み、ストラップで固定、ショルダーベルトを取りまわして輪行袋へ収納できました。手際よく10分程度で終了。
「ありがとうございます! あのー、何か飲み物でも」
まだあどけなさの残る爽やかな青年はそう申し出ましたが、
「いいんですよ、誰か他の人に親切にしてあげてください」
と返答しました。

 本当はちょっと違います。
しまなみ海道を走った旅の後、輪行できずに特急列車に乗り遅れたのでは後味が悪いでしょうし、同じサイクリストとして私も残念。旅の最後に輪行して列車で移動する、そのお手伝いができたのですから、嬉しいのは私たちのほうなのです。

 いえ、やっぱり違う。
青年の、仏のように邪念の無い笑顔。それだけで私たちは幸福感に満たされた気がします。ありがとう。これからも良い旅を。

 岡山駅で新幹線へ乗り換えました。腰を落ち着けるとまぶたが重くなってきます。次の停車駅:新神戸ではホームが列車左側という車内放送。私の自転車が入った輪行袋を置いたのは左側のデッキ乗降口。乗降の邪魔になるので右側へと移動せねばなりません。まぁ毎度のことですが眠気をこらえて席を立ち、デッキに向かうと想定外の事態。移動先のデッキ右側には車内販売のワゴンと販売員の若いおねえさん、さらに研修中らしきもっと若いおねえさん。どうしよう...
 しかし輪行袋を担いで隣の車両に移動する元気も無く、おねえさんたちに狭いけれどわずかなスペースに輪行袋を移動させてよいか尋ね、了解してもらえました。デッキ右側へつけたワゴンの前後におねえさんたち、ワゴンの横に輪行袋を置き、その輪行袋を挟んでおねえさんたちと反対側が私の立ち位置です。可能な限りリスクを避けねばなりません。万が一にも偶発事象が起きてはなりません。
 新神戸駅での停車時間が過ぎ、ドアが閉まり始めたところで「すみません、ありがとうございました」とおねえさんたちに礼を述べ、輪行袋をデッキ左側へ移動させたところで、もっと若いほうのおねえさんに話しかけられました。
「自転車ですか?」
「そうです」
「生憎のお天気で残念ですね」
「はい、でも昨日まで天気が良くて四国を走ってきたんです」
「これってロードバイクですか?」
「う〜ん、ロードバイクといっても鉄フレームの旧いタイプです」
「あっ、じゃあ重いですよね」
「え? お詳しいですね」
「自転車、好きなんです」
もっと若いほうのおねえさんと話していたら、先輩格のおねえさんの表情が厳しくなってまいりました。
「お仕事頑張ってくださいね」
もっと若いほうのおねえさんも仕事に戻り、ワゴンを押し始めました。初々しさは残るものの、柔和な表情に落ち着いた所作が大ベテランのようです。小さな私と違って、器量が大きいように感じました。
 おねえさんたちは山陽新幹線の区間だけ乗務するのか、その後車内販売が通りかかっても姿を見ることはありませんでした。


 今回の旅も様々な出会いがあって、助けられたり、気づかされたり。本当にありがたいことです。でも楽しい時間は過ぎるのが早い。あまりにも早すぎて旅に出かけた実感が薄く、なんだか夢を見ていたような感覚に陥ることがあります。足腰、腕だってしっかり疲れているというのに。

 笑顔の青年も、もっと若いおねえさんも、まったくの偶然の出会い。しかも一瞬だけ。ただ一瞬だけ、お互いの人生が交錯し、またそれぞれの方角へと去っていく。微かな、ほんの僅かな波動を残して。そんな、不思議な出会いを大切にしていけるといいな。

 「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただうごくようにきまっているからうごいているのだ。ごとごと音をたてていると、そうおまえたちは思っているけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれているためなのだ。」 宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』(旺文社文庫)より

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