小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2019/12/01

過去掲載した編集◇コラム31

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旅の内食 (19/11/03)

 浜名湖畔の高級旅館。楽しみにしていた夕食は、期待に違わず豪華でした。前菜と食前酒に始まり、お造りや煮物、焼物、椀物、揚物、鰻丼、食後のデザートに至るまですべてが完璧。食材も調理法も、給仕係と気の利いた会話まで何もかもがパーフェクトで、微塵の隙もありません。宿泊客は皆、大満足に決まっています。高級旅館の豪華料理にケチをつける客なんて、いるわけがありません。
 以下は、世間から少々はみ出した変人の個人的所感です。まともな方々のご意見とは異なるので読んでくださらなくて結構です。

 供された料理の数々はパーフェクト。その出来映え、完成度がパーフェクトでありました。きっと厳しい修練を積んだ男性職人の方々の作品なのでしょう。作り手の関心はその完成度であって、宿泊客一人一人にはあまり向けられていないように感じました。そりゃそうです、宿泊客は皆、大満足に決まっていますから。
 確かに、パーフェクトかつバリエーション豊かな和食フルコースに、脳は大満足です。しかし変人の私にとって、脳は満たされても心や体は満たされず、何となく渇いておりました。どうしてそう感じるのかはわかりません。私が変人だからでしょう。

 20年ほどお世話になっている自動車ディーラーで、20年の間に数台の車を購入、妻が親族や知人にも紹介したことで宿泊券をいただき、高級旅館に宿泊することができました。1人当たり1泊3万円前後ではないかと思われます。ありがたいことです。私にとって、こんな機会はおそらく最初で最後。案の定、くつろぐどころか落ち着く気分になれずに場違い感いっぱいのまま、残念な時間を過ごしてしまいました。

        *        *

 一方、私が近年よく利用する小さな古い旅館や民宿で食事をいただくと、高級旅館とはずいぶん様変わりします。給仕係などいません。たいていの場合、すべての料理が一度に供されます。食材とか調理法とか味付けとか、パーフェクトというよりも突っ込みどころが多い。高級旅館に比べて多くの場合、顧客満足度は低いでしょう。ネット上の評価も低いことが珍しくありません。

 料理の味覚も視覚も、刺激に乏しいと指摘されてもしかたないかもしれません。確かに脳は満足しない。
 しかし反面、心や体は満たされます。料理の作り手の関心が料理の完成度よりも宿泊客一人一人に向けられているから。刺激の少ない食事は宿泊客の体に負担をかけないため。翌日も宿泊客が仕事に旅に、元気よく過ごせるようにという気持ちが表われているため。
 毎回毎回そうとは限らないのでしょうけれど、なぜかほとんどの場合、作り手の温かい気持ちが料理を通して伝わり、渇いていた心や体に沁みていくように感じます。

 わしはどんくさいのだ。世間のみんなはきらきらと輝いているのに、ただわしだけがじとーっと暗いのだ。みんなはいきいきとしていて、あれこれしゃべったりするのに、わしだけが一人でもやもやしているのだ。ああ、わしの心の中は、海は広いな大きいな、どうしてこんなに揺れている、なのだ。風もびゅんびゅん吹いて止まらないのだ。
 みんなにはどこか長所というものがあるのに、わし一人だけが頑固者で、田舎の人みたいなのだ。でも、わしにはみんなと違うところがあるのだ。それは大自然のおふくろさんであるTAOに養ってもらっていることなのだ。そしてそれを大事にしていることなのだ。これでいいのだ。 ドリアン助川著『バカボンのパパと読む「老子」実践編』(角川文庫)より

夏のショートツーリング (19/08/18)

 2019年春以後、独居となった父のことが気に掛かり、先の予定を立てづらくなっている状態です。この先しばらく心配が続くのかなのかどうかわからないし、事態が急に変わることもあり得るでしょう。でも先輩諸氏の方々も通ってきた道なのだ、あまり深刻に捉えることでもないのかもしれません。

 真夏の休日、暑さでへばっているだけではよくないと、久しぶりにZZR250を少し遠くへ連れ出すことにしました。下道をゆっくり走って北上、県境を越えます。途中からローカルなガラガラのワインディング、さらに狭路に入っていきます。

 高揚感はありません。特に予定や計画も立てていません。ソロですから調整のようなものもありません。結果も要りません。気負うことが何もありません。オフ会を開催し複数で連れだって走ることも当面無さそう。
 独りで走って楽しいのか、と問われることもあります。正直わからなくなっています。ただ確かなのは、私は人の輪の中に入るのが苦手で、協調性に乏しいこと。

 岐阜県中濃地方の小さな町。その中心部を外れ、地域の生活区域であろう庶民的な喫茶店に入ってみました。メニュー表にはいろいろ書かれてあるようでしたが、私がメニューに目を通す前に「今日のランチは唐揚げね」と機先を制された形になり、そのまま日替わりランチをオーダー。
名物とかB級グルメとかは要らない。結果は要らないのです。

 常連客らしきおじさんが話しかけてきました。愛知県西三河地方から来たと応えると、妹が嫁いだ先だと仰り、話はおじさんの仕事関連に。近畿・中京圏のことや海外 -特に欧米系とアジア系の商売について... 興味深かったのですが、正午前後から近隣の店舗か工場からか、多くの客が来店、狭い店内がいっぱいになって、話は中断しました。 店のおねえさん方は大忙し、束の間の休憩時間にじっくり日替わりランチを待つ方々。ここにも地域の人たちの暮らしがあるのでした。


 食後、近郊の滝への案内表示を見つけました。少しは涼を感じることができるだろうと行ってみたものの、目的地の1km以上手前から路上駐車の列が連なっています。夏以外は賑わうことも少ないだろう小さな駐車場に数多くの車が詰めかけていてずいぶんと賑やか。駐車場の空きスペースにどうにかZZR250を止めると、滝まで徒歩15分だそうで... この炎天下、歩いていく元気はありません。もう結果が欲しくはない、素直に諦めました。

 どこかでゆっくりと休みたい... そうだ、年に1〜2度行く、なじみのカフェへ行こう。
 「あっ、来た来た」前回の訪問から確か10か月ぶりになるというのに、ママさんが優しく迎えてくださいました。
 この夏の暑さのことに始まり、あれこれお話させていただいた中でも、ご両親の介護をなさっていたお話が、今の私にはとても勉強になりました。特に実践的な話は、私の父親のケースでもきっと役立つばかりか、私のことも心配してくださいます。本当にありがたいことです。

        *        *

 やはり真夏の、別の日、天気予報は午後から雨。午前中ならと、街乗りご近所専用のクロスバイクで走り出しました。南東の風が強く、帰路がラクになるよう南東の方角へ。今回も計画はなく、結果も要らない。街乗りクロスバイクだもの、走りの充実感も要りません。
 1時間ほど走り、旧東海道の小さい宿場町にある小さなカフェに着きました。過去2度ほど、それも半年程度間をあけて来ただけで顔なじみでも何でもないお店です。

 「この後どこを走る予定ですか?」
 店のおねえさんのスマホが鳴った後、おねえさんが尋ねてきました。午後から天気が崩れる予報だし、このまま帰宅すると私が応えると、大雨警報が出たとのこと。一見客の私に「雨雲レーダー」の最新情報を見せてくれて、早めに移動したほうがいいと親切に教えてくださいました。ありがとうございます。
 グラスにはまだアイスコーヒーがだいぶ残っていて、私が帰宅する方向に通学しているという子供さんのことや地域のこと、お店のこと、他の個人店のことなど、なぜか話が途切れることなく、お店を出るころには雨雲が到達するであろう時刻まであと30分になってしまいました。

 かろうじて雨雲につかまらないかも、そんな淡い期待に反し、走り始めて15分ほどでポツポツ降ってきた雨は、すぐに大雨になり、なすすべもなくずぶ濡れに。どうにか高速道路の高架下に着いた直後には風雨が激しくなり、やや広いスペースで助かりました。

 激しく降った雨は1時間少々で上がり、無事走り出すことができました。また雨が降らないか心配ですけれど、さっきのお店でおしえてもらった別の店でお昼にしよう。
 少々場所を探しましたが、目的のカフェを見つけることができました。カフェの優しそうなおねえさんに先ほどのカフェのおねえさんのことを話すと、「○○ちゃん、ここのところ会ってないなあ」。「元気にやってますよ」と返した私でしたが、常連客でもない私が言うのもおかしな話です。
 こじんまりとしていて良い雰囲気のカフェに、次々と常連客が集まってきます。オートバイの話が始まったので、ついつい私も話に加わりました。たまに集まってツーリングに行くらしいです。いいじゃないか。部外者が加わってもいいのなら、参加してもいいかもしれない。頑なでいても意味はありません。

 人の輪を避けていながら、一方では人の温もりを求めている自分は何なんだろう? とっくに達観していい年齢なはずなのに 未だ心根がフラフラしています。でも無理せずにこのまましばらくフラフラしてみようと思います。外部に惑わされることなく、己と対峙し、人から学ぶために。

 わたしは生憎「なにもしない」おじさんに属している。もしかしたら最下等のおじさん族ではないのか。弱ったね、というのはウソである。わたしはわたしである。どんなおじさんを見ても、ああいいな、おれもあんなことをやっていればよかったな、と思わない。結局、今生きているように、今後もそのように生きることが楽なのである。かくてわたしは、今日もまた町にぶらつき出てしまうのである。 勢古浩爾著『定年後7年目のリアル』(草思社文庫)より

旅の宿泊 (19/06/09)

 「これでもな、昔はえらい賑やかやって...
新道ができる前は、前の細い通りをトラックがごうごう行き交ったんやで。
ときどきな、ウチの庇に当たって壊れてもうて」
 先日泊まった宿の女将さんは、遠い目をしながら優しく話してくださいました。

 私は近年、旅先ではなるべく小さな古い旅館や民宿を選んで泊まるようになりました。部屋が狭かったり、畳が古かったり、カギが無かったり、階段が急とかトイレが別とか。
 機能的で合理的、プライバシーも確保されるシティホテルやビジネスホテルとは大きく違うケースが多いばかりか大型観光旅館とも違い、面食らうことがあるかもしれません。

 そんな古旅館や民宿を、以前は避けていました。せっかくだから設備が整ったところが良い、評判の良いところに泊まりたい、他の部屋の物音が聞こえるなんて論外、宿の人との会話が面倒...

 今、改めて考えてみると、自分の矮小さが浮き彫りになってくるようです。
 設備が整ったところが良いというのは、自分が大事に扱われたい自己中心的な欲と同時に、初めから揃ってないと不安だから。足りないのは設備ではなく、渇望状態にある自分の心のほう。
 評判の良いところに泊まりたいというのは、○○に泊まったという実績が欲しいから。失敗したくないと考える、その失敗かどうかの基準も自分自身でなく、他人が考えたもの。
 他の部屋の物音が嫌だというのは他者を許容できない、これも自己中心的な考え。
 宿の人との会話が面倒というのは、宿へのリスペクトが欠如しているから、世話になっているという己の立場を理解できてないから。会話によって己の薄さを見透かされることに耐えられないから。
 すべてつまらない、どうでもいいこと。なぜこんなことにこだわっていたのか恥ずかしくなります。

 小さな古旅館や民宿で過ごすと、己の外側の虚飾が剥がれ、自分の内面が浮かび上がってきます。私は大事に扱われるような、価値ある人間ではありません。上昇志向は要らないし、世間の価値観に合わせる必要もない。私が求めているのは日常の延長のような場所、等身大で水平的な場所でした。


 小さな無名の古旅館や民宿には決してわかりやすくはないものの、歳月を経た重みがあり、数多の旅人を見送ってきた歴史があり、血の通った温もりを感じる場所が多いです。また、宿の人たちの生活を垣間見ることもあり、慎ましやかで実直な暮らしは上昇志向や欲が無く、それが眩しい。大事なのは外側ではなく内側。カサついていた己の心がゆっくりと深く呼吸するようです。

 光- ボロく見える場所ほど、光があるのかもしれません。それは、見ようとしなければ見えてこない、淡い輝きなのでした。

「えっと、あの、宿泊したいんですけど」
「シュクハク?」
 男はごつい手で顔をごしごしこすった。
「ここ、民宿ですよね?」
「ああ。そうやな」
「だから、あの、ここに泊まりたいんです」
 男はしばらくぼんやり考えて、それから思いだしたように、「上がれば」と、スリッパを出してくれた。安物のスリッパに足を入れると、つま先がひんやりした。
「えっと、どうしたらええんかな」
 男はぼさっと突っ立ったままで私に訊いた。 瀬尾まいこ著『天国はまだ遠く』(新潮文庫)より

山裾の異空間 (19/04/14)

 冬の終わり。
 気温は低いけれど、芯から冷えるわけでもなく、気分が少し明るくなる時節。冬枯れの草にも生気が戻ったかのように色合いが濃くなってきて、すっかり葉を落としていた木々の芽が膨らみつつあります。
 少しだけ走りたい気分にかられた私は、自宅からしばらく離れた山裾のカフェを初訪問しました。それらしい建物が見つからず、ウロウロ探した挙げ句、倉庫というか資材置き場のような建物で看板も表示も無く、一見さんを拒むかのような入口がお店でした。

 内部のレイアウト上、中に入るとすぐに客席があり、くつろいていた女性たちの冷ややかな視線が、場違いなライダージャケット姿の小汚いオジサンに注がれるのは、まあ、珍しいことではありませぬ。
 女子好みの可愛らしいインテリアとは趣を異にする簡素な店内は、カフェにしては窓が少ない。冬の曇天という天気のせいか淡い光がかえって好印象です。フォトジェニックなんて一切関係ないかのようなシンプルさは、茶道の茶室のようでもあり、ひとつのギャラリーのようでもあり、アトリエのようにも感じます。
 メニューを見ながら、「えっと、このトウセツ… ブレンドください」と言うと、カフェの若いおねえさんはクスリと笑って「ふゆゆきって呼びます」と応えました。

 お喋りに没頭することもなく、戸外の冬景色を眺めるわけでもなく、本を読みふけることもなく、スマホをいじることもありません。淡い光の中で、浅いソファーに身を沈め、ただただボーっとする静かなひとときが何とも言えず、外からの刺激が極端に少ない時間が存外に心地よい。


 じゃあ何を考えるのかって? 何も考えません。何かを考える必要もありません。呼吸が穏やかに、深くなっていきます。表層の煩悩が静まり、意識が己の内部をゆっくりと沈降してゆく。沈んだ意識のまま、自分の内的世界を深く旅しているようです。
 私の中身はカラ。言葉にできるものなど何もありません。でもこうして数々の煩悩から離れる時間の、何と豊穣なこと。瞑想とかマインドフルネスとか、まともに実践してみたことはありませんけれど、それに近い状態なのかもしれません。

 顧客満足度とか損益分岐点とか投資回収とか、そうしたものとは無縁な、淡くて深い、澄んだ世界。娑婆のいろんな価値観が霞んでいく世界です。
 私は幻影を見ているのか? 現実社会がまぼろしなのか? だとしたら、タチの悪いまぼろしですね。この後しばらく、ワインディングをブイブイ走るとか、速いとか遅いなんてもうどうでもよくなってしまっていました。
 カフェの空気と、おいしく深いコーヒーだけでなく、若いおねえさんの器の大きさが伝わり、こうしてゆったりした時間を過ごせたのだと思います。

 人間のことは、よくわからない。何回生まれかわっても、思う。
 どの人間も、変化してゆく。しなやかだったものが、硬くこわばってゆく。あきらめていたものが、突然息を吹き返したように抗いだす。気持ちは移り、心はとどまらない。きれいはきたない。きたないはきれい。かつて飼い主だった戯作者の男が、戯曲の中に書いていた。人間にしてはうまいことを言うものだと、少しばかり感心した。 『100万分の1回のねこ』川上弘美著「幕問」(講談社文庫)より

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