小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2021/07/25

過去掲載した編集◇コラム35

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相対的貧困の経験 (21/06/27)

 ただ、この相対的貧困こそ、先進諸国で問題となっている現代の貧困であり、相対的とはいえ、一つの社会の中で格差が生じることこそが、そこで暮らす人々の心身に大きな影を落とすのだ。だからこそ人々は、それをみずから見えないように隠そうとする。

 (中略)

 つまり、個人個人が貧困を覆い隠そうとするだけでなく、社会そのものが貧困を見えにくくする装置となってしまっているのだと思う。 NHKスペシャル取材班著『高校生ワーキングプア』(新潮文庫)より

 40年も前の個人的な昔話で申し訳ない。
つい、手に取った文庫本を読んで自分のことを改めて振り返ってみたくなったのです。

 私は中学卒業と同時にアルバイトを始めました。当時は神奈川県在住、JR南武線沿線の小さな塗装業の会社がバイト先でした。カッコイイ仕事とは無縁の、機械部品や設備、資材などの塗装を請け負う仕事ですので、あちこち出かけては工場内や、資材置き場、建設現場でひたすら手塗り作業をしていました。規制が緩かった昔のこと、業務用のキツイ有機溶剤で日々クラクラしていたことを憶えています。

 地元の公立高校に進学した私でしたが、40年前の高校生とはいえ付き合いや娯楽費は中学生とは違うレベルのお金がかかりました。雑誌や軽食、菓子類、ゲーセン、被服。音楽が趣味の学友、カメラが趣味の友人がいたり。自転車が趣味の友人も、原付バイクを乗り回す友人もいました。高校2年生になると免許を取得し250ccのオートバイを買ってもらう友人すら出てきました。盗難車を乗り回す輩もおりました。
 己にかかる費用を稼がねばならなかったわけですが、家計を直接支えるまで困窮してはいなかったことが影響したのか、それよりも私自身に覚悟とか根性がなかっただけかもしれませんが、バイトは長続きせず、バイト先を幾度も変えることになりました。住宅家電の会社、パンやお菓子の工場、ファミレス... 年齢を偽り、18歳だと言って夜間のアルバイトもした時期もありました。
 肉体的には辛かったときも少なくありませんでしたが、社会に関わっていること、働いている大人たちと関わっていることが自信につながっていたし、何よりも労働の報酬として幾ばくかの現金を自ら手にできることは大きな魅力でした。250ccのオートバイなんてもちろん、50ccのスポーツバイクですら手が出なかったし、一眼レフカメラどころかコンパクトカメラさえもあり得ず、ゲーセンでもお金を使わず見ているだけの私でしたが、自分を相対的貧困だとも思っていませんでした。認めたくなかったと言ったほうが正しい。認めてしまうと居場所を失い、生きていけないような気がしました。

 僅かながら自分の貯金もでき、バイトを辞めて学業に専念するようになって半年ほど経過した高校3年生の初夏だったと思います。継母が急病で倒れ、フル介護を受けながらの入院を余儀なくされました。私はときどき病院へ見舞いに行く傍ら、日々の家事、特に父と弟を含めた家族3人分の夕食の支度や後片付け、昼の弁当作り、スーパーへ買い物の日々が始まりました。近所に親戚も、親しい知人もおらず、学校の教師陣にも頼れず、独学で料理しなければならなかったのは辛かったです。しかし近所に一軒だけの小さなスーパーに通うのは恥ずかしい。隣町のスーパーまで食料品や被服などの買い物、それに病院の見舞いに、原付バイクが思いがけず大活躍しました。


 入院期間が1か月を過ぎ、2か月を過ぎ、食事作りのレパートリーも増えてきたころ、弱いところを見せない父が、ある夜はじめて家計が立ち行かなくなってきたことを吐露してくれました。何度か転職を繰り返した父のこと、世間の平均に遠く及ばない収入ではとても継母の介護費用をまかなうことができなくなっていて、私に定職に就いてほしいと言われました。

 継母─ 血の繋がりのない他人のために、私の人生が変えられてしまう。当時私が憤慨したり、絶望したりしたかというと、そうではありません。曲がりなりにも家族の構成員として頼りにされていることが嬉しかった。高校を卒業できるかどうかは不確かでしたが、仮に私の人生が大きく狭められることになったとしても、それはそれで構わなかった。己の責任ではなく他人の事情でそうせざるを得ない、いわば与えられた道でありました。進路にあれこれ悩む必要はない。何か所か務めたバイト先の、失礼ながら中流以上には見えない社会人の方々と、そう大きく変わらないような人生を想像し、それはそれで自分勝手な安心感を抱いておりました。

 もし当時何らかの形で金銭的援助を受けることができていたら、また別の状況になっていたのかもしれません。でも個人的な感触では金銭的援助で解決する部分はごく一部。中上層の方々が相談を受けてくれたとしても、相対的貧困のギャップはおそらく埋まることが無かったように思います。
 一つは私自身の問題。勉学に専念できる環境が整ったとしても、怠惰な私のこと、きっとサボって遊んでしまっただろうと思います。結果の出ない学生への援助について、理解が得られるとは思えません。日本社会は当時も今も狭量な気がします。
 それでなくても援助を受けることで、相対的貧困のレッテルを貼られ、落伍者の烙印を押されることは、そうならないよう張りつめていた自我が崩壊していた可能性も考えられます。

 もう一つは援助する側との信頼関係。相対的貧困の立場にある人々を支援し生活レベルを上げてやろう、と考えることがほとんどでしょうけれど、資産も社会的地位も手放して自ら相対的貧困と同じ立場に入ろう、とは微塵も考えないでしょう。援助を受ける側が、援助する側の転落を望んでなどいませんけれど、それだけの超えられない溝があるように感じます。

        *        *

 継母の入院から3か月後、奇跡的に病状が回復し退院できることになりました。家事の負担はしばらく続きましたが、次第に減っていき、幸いなことに秋には学業に専念できるようになったのです。
 何もかも幸いだったかというと、必ずしもそうではありません。学業に専念できるようになったことで大学受験に失敗することは許されなくなり、私は言い訳できなくなりました。自分の進路を自分である程度決めていく自由とストレスから逃れられなくなったのです。翌春、さらに幸運にも浪人を免れることができたのは経済的にも非常にありがたかったのですが、それまでとは比較にならないほどの相対的貧困に向き合わねばならなくなったのでした。

 続きはまた、気が向いたら書くことにしましょう。

定年後を考えてみる (21/05/09)

 いったい読者は、ハウツー本になにを期待して読むのだろうか。希望、だと思われる。「なりたい自分になる」ことであり、「成功」であろう。書き手はそのことを察するがゆえに、読者にはほんとうのことがいえない。無理でも希望を示したいと思う。そのため不安を確認し、ときには不安を煽り、その後で、こうすればこうなります、と希望を示す。しかしそれは一般論の希望でしかないから、どうしても大雑把になる。読者にしてみれば「ほんとかね?」という疑念がつねにつきまとうのだ。 勢古浩爾著『定年バカ』(SB新書)より

 前年末になじみのカフェに一人で立ち寄ったときのこと。
 同世代らしきご夫婦が隣のテーブルについていて、ご主人が定年後どうすればいいのかお悩みのご様子でした。頭脳派ぽいご主人と美人の奥様、何一つ不自由は無さそうに見えるのに、悶々と考え込むご主人を、奥様が心配されているようです。
 ご夫婦と会話していたカフェのおねえさんが、突如私に振りました。
「はたぼうさんは定年後どうするか、何か考えていますか?」
「あと5年を切っていますけれど、なんも考えていません」
「ほら、こういう人もいるんですよー」

 自分の定年まであと4年。まだ先のことだと何も考えておりませんでした。苦役としか感じない今の仕事はきっぱり辞め、出費を抑えつつゆったり暮らしていければとぼんやりとイメージする程度でした。この機会に情報収集から始めてみました。

        *        *

 仕事関係で話を聞こうにも定年退職し職場を去った方々の話を聞くことは難しく、ネット上にはFPをはじめ金融関係の情報ばかり。巷に溢れる数々の定年本に目を通すと、真っ先にお金の心配をしなければならないことが書かれています。
 定年本に書かれているモデルケースのレベルが高い。しかも運用に回せる資産を保有していることが前提となっていて、一般庶民は対象外のようです。しかも、元気で働き続けて老後を短くせよとか、生涯現役とか、賢い運用とか、私にとっては参考にもならないことばかり。成功者として著者が自慢話を展開しているような本も少なくありません。若者ならともかく、サクセスストーリーを目にした中高年が、よしオレもと奮起することなどあるのでしょうか?

 やはり自分のことは自ら考えねばなりません。2019年に金融庁が提示した年金2000万円問題も他人事ではありません。手元のねんきん定期便に提示された受給見込み額は、金融庁の示す月額20万円には全然届きません。体が弱く専業主婦の妻が受給開始するまでの数年間はもちろん、その先も生活費は足りません。2000万円どころか、もっと足りないことになりそうです...

 定年後再雇用制度を利用して働けばいいじゃないか、というご指摘を受けると思います。しかし仕事の成績が悪く減給となった私は、ランク分けされた数十人の同僚の中でずっと下位、それでも定年後の再雇用を希望するか? と上役に問われました。仮に本人が希望しても雇用する側にとってはそうでないということです。私の上司はふた回りほど若く、その上の上役は私よりひと回り若い。勤務先の世代交代は確実に進んでおり、成績の悪い私の居場所はありません。他をあたっても、何の資格も能力もなく、体力もなく記憶力も理解力も衰えつつある私が再就職など望むべくもないでしょう。
 上手に世の中を渡っていく人たちがいます。時流に乗って順調に歩を進める人たちもいます。一方で私のように世間に合わせることができず、うまく立ち回れない人たちだっています。失敗は自己責任という風潮が支配する中、それでも生きてゆかねばなりません。生活のダウンサイジングを重ね、アルバイトを探して糊口を凌ぐしかなさそうです。

        *        *

 定年後を考えてはみたものの、私の足りない頭では先が見通せるどころか何も解決せずにかえって不安が増えるばかりでした。年金だけで暮らしていけるはずもないことを改めて認識しただけでも収穫だと考えるしかない。資産をはじめ準備なんてできてない、ダメな中高年です。
 そもそもこれまでも先を見通すことなどできなかったし、将来設計などしてこなかった。定年まで勤め続ける保証もないことですし、定年を境に不安が安心に変わるることなどありません。これからも先を見通せないことに変わりはありません。誰かが何か指南してくれるわけではない。自分で自分のことをどうにかしていくしかないと改めて感じています。

 周到に準備し努力を続ければ成功できる、というような話は珍しくありません。でも、成功して輝かしい定年後を手に入れることができる、とくるともう怪しい。うさん臭い。何かの宗教のようでもあります。希望って、何と厄介なのだろうか。現世は一切皆苦、都合の良い希望などありはしない。
 夢も希望もなく縮小一辺倒の話で申し訳ない。ただひたすら地味な暮らしの中にオートバイや自転車などの小さいスパイスをちりばめることができるとしたらそれでよいと考えるのみです。

 定年後も老後も、収斂するところ、結局は金の話ばっかりである。そして、わたしのいうようにすれば大丈夫、というウソつきにもうんざりだ。どうあがこうとも、宝くじで五億円が当たる、などの幸運でもないかぎり、金に関することはひとつの解決方法しかない。吉越氏がいっていたように「食うや食わずの生活でない限りは、残ったお金で何とかしていくのです」。
 わたしはこれでいいと思っている。というより、これしかない。あとは、どうしても毎月の不足分がでるなら、体を動かして稼ぐしかない。 勢古浩爾著『続 定年バカ』(SB新書)より

里山の春の中で (21/04/04)

 年度末と年度初めは慌ただしいのですが、どうしたことか例年になくキツくて、仕事の要領が悪い私はあらゆることに遅れていってしまい、疲労困憊寸前。記録的な暖かさや大量の花粉も手伝って、限界を感じる日々が続きます。週末、ステイホームでは回復が望めない私は、GSX250Rを走らせて近郊の里山へと向かいました。
 空いたローカルルートを走り、標高を上げていって視界が開けた先に山々が見えるようになると、己を覆っていた閉塞感が少しずつ晴れていくよう。桜はもちろん、花桃もモクレンも、圧巻の連続。居住地からわりと近いエリアなわりに、今まで走る機会も少なく、またタイミングを外していたようで、花いっぱいの景色を味わったのはこれが初めてです。
 桜はすでに満開を過ぎ、風が吹くたびに花びらが舞い、強い風だと視界不良になるほどの花吹雪。一軒の古民家カフェに立ち寄り、開け放たれた襖の縁側の席につきます。うららかな気候の下、何もせず、ただただボーッと飽きることなく外を眺めていました。里山の緑に点在する桜。数々の野鳥。今年初めて聞いたウグイスの鳴き声が嬉しい。黄や橙色のチョウが飛び回る。

 内部と外部との境があいまいな伝統的日本家屋に、散りゆく桜の花びらが風に吹かれていくつも入ってきます。里山と私自身の境界も無くなっていくようです。花びらだけではありません。目覚めたばかりのような綺麗な色の小さなアブも、好奇心旺盛なのにまだ動きの鈍そうなミツバチも。みんな生きている。精一杯生きている。追い払うことはない。そっと、そのままにしておきましょう。どれもが愛しく可愛らしい存在なのでした。

 その刹那、不意に切ない感情が私の内側から突き上げ落涙していました。いえ、内側というのは錯覚かもしれません。私はすべてを忘れて里山の自然とシンクロしていました。自然が切ないなんて、そんなおかしなことは考えられません。もしかしたら私の無意識が、一時的に彼岸の入口を旅していたのかもしれません。ともかく心が感じたことや少々不思議なことを、脳が判断して理性的に否定することはしないでおこう。完全な存在なのは自然界のほうであって、不完全なのは人間のほうなのだから。

 里山を一人で走ることに何の意味もなければ、何の役にも立ちません。まったくもって無駄な行為、無駄な時間の使いかたでありましょう。だけど都市部の住民たちが忘れてしまった、何か大事なものを取り戻すような、あたかも調律しているかのような感覚でした。まぁ、頭のおかしい変人中高年の私にとっての大事なものなんて、世間では何の価値もないとは思います。

 そりゃそうなのだ。カラスと話したり、ぼぅーっと雲を眺めていたりすると、どんどん社会からはずれていくことを感じるのだ。大自然の摂理であり、天与のエネルギーでもあるTAOを感じて生きようとすること自体、原発再稼働に走るような効率優先の社会の中では論外なのだ。でも、だからこそ、疲れた顔の人が多いのではないか。わしらは無駄も含めて、一日を成り立たせているのだ。しかもその無駄な部分に、生きていく味わいが隠れていることもあると思うのだ。 ドリアン助川著『バカボンのパパと読む「老子」実践編』(角川文庫)より

山裾の異空間2021晩冬 (21/03/21)

 冬の終わりが近づいた2月下旬。厳寒期ほどではないものの、それでも戸外は震える寒さ。オートバイを見かけることはほぼありません。山方面へ向かおうという私は常識を逸脱した変人なのかもしれません。

 半年ぶりに訪れた山裾の小さなカフェ。照明を落とした薄暗い室内の、一人席から見上げた小さな窓に映る山林の冬景色に、時折薪ストーブの煙が流れて被り、戸外は冷たい風が吹き荒れているのがよくわかります。
 夕雨、と名づけられた深煎りのブレンドを味わいつつ、椅子に深く身を沈め、目を閉じて情報を遮断します。スクリーンを注視し、せわしなくタップやクリック、スクロールやスワイプする時間とは真逆の世界に身を任せましょう。厨房の物音と、音量を絞ってあってかすかに聞こえるインストロメンタルぽいBGMも、戸外の風の音にかき消され、やがて気にならなくなっていきました。


 春が近づき、浮つき始めていた気分が落ち着いていきます。次々に浮かぶ思案も次第に鎮まり、意識が沈降していきます。すると代わりに、普段は奥底に控えていた無意識が浮上してきました。意識の側から無意識のほうを探っても、無意識が何を考えているのか一切わかりません。仮に一部がわかったとしてもきっと言語化などできるはずがない。無意識をコントロールしようと考えることがおかしいのです。放っておきましょう。

 頭で考えて活動してばかりの心身に、今はちょっとしたグリスアップのとき、東洋医学的には津液を巡らすとき。何かと世間の情報に踊らされていた自分、さらには、本当は何をしたいのか未だにわからずにフワフワしている自分が見えてきます。ダメだなあ。このダメな自分とつきあっていかねばなりません。まぁ慌てて何かを考えるのが正解だとは限らない。いつかはもう少しマシな状態になれるといいな。そのくらい無意識に委ねたっていい。

 夕雨ブレンドはまったく雑味がなく、スッキリしていながら深い香りと味わい。この日のお菓子:最中は微かな甘み、それも薄味ではなく、“淡い” 味が豊か。素晴らしい。店主が繊細な味覚の持ち主である証左です。
「ウチのお菓子はわかりにくいんです」
そう店主は謙遜されますが、他人からの評価よりも自分の信じる道を実践していっている店主の強さが素敵でした。


 今回も特に何も解決しないし前進したわけでもない。けれど帰路、北西の冷たい風に煽られつつ、走りには全く意識が向かないながら、不思議と気分は穏やかでした。

「最後の真実、それは、あなたもほかの人たちも、そしてわたしも、みんな、人工体だ、ということです。この身体はマシンにすぎません。というより、すべては、あなたや、ほかの人たちの主体が夢見ている、仮想の世界にすぎません。言い換えると、この世界には<外>が存在する、ということです。宇宙船の内と外という次元ではなく、あなたが自分は自分だと思っている、その思いを生んでいる主体は、あなたのその身体にはなく、その身体を含むこの世界のどこにもなく、世界の果てまで行っても見つからない、ということです。あなたの主体は、あなたのその意識を生じさせている、人工実存体の中にあります。ある、というより、その人工実存体が発生させている意識があなたの主体そのもの、ということです。」 『2010年代SF傑作選T』神林長平著「鮮やかな賭け」(ハヤカワ文庫)より

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