過去掲載した編集◇コラム43
それぞれのカフェもよう (25/01/12)
2024年も物価高が続き、特に食材の高等が酷く、ストレスが大きい印象でした。個人的に訪れていた名店にも大きな変化がありました。
隣市の隣市、たまに訪れていた雰囲気良くコーヒーもおいしい喫茶店、物価高で経営難に陥り、昨年末閉業されました。個人経営のお店がまた一つ無くなってしまい、寂しい限りです。
自宅から比較的近かった、お店が急に閉業されたこともショックでした。それも “破産” だそうで... モーニングサービスにトーストだけでなく、温かいうどんもセットだったので、たまにありがたく利用させていただいておりました。残念です。
もう1軒、自宅からは少し離れた場所にあって、オートバイや自転車でたまに訪れていた小さいカフェが昨秋に突然閉業されました。自分自身が減給になり、少し足が遠のいてしまってはいましたが、なじみ客になっていただけに残念... 閉業の理由は存じませんけれど、重い決断だったであろうことを想像するばかりです。ちょっぴり日常から解放された、穏やかな時間を過ごすようなコンセプト、物価高が続いて一般庶民には難しくなってしまったのかもしれません。
一方で逐次値上げを選択したお店も。数年前からたまに訪れていたカフェ、オシャレな外観から、かつては話題だった人気店なことが想像されます。ここ1年少々でブレンドコーヒーが¥450税込→ ¥500→ ¥550へ。物価高ですのでしかたない。ただしそのまま客側が受け入れるかどうかは別で、オシャレというより、ややファミレス的な雰囲気の店内は目立って客足が減ったように感じます。
画像は昨年終盤にいただいた、おにぎり焼きそばセット¥1,000税込。焼きそばはソース過多でビショビショ、おにぎりは塩分過多。割高感ばかりか接客をはじめ、店内の空気も刺々しさすら漂ってきたように感じます。もう再訪はないでしょう。
他方、アッパーミドル層をターゲットにしているかのようなカフェ。お店側の主張はほぼゼロ、客層に合わせた少々上質な内装、上質をうたう雑誌群、上質チックなメニュー、... 私が訪れたとき、店内の雰囲気とは違う、スタッフの方々のご苦労やストレスが垣間見えてしまっているように感じました。来店客のプライドや優越感を支える、お店側は分断されていました。客側もお店側を気遣うことはありません。そもそも私のような、二輪車の客、それも原付二種の客は完全に想定外。歓迎されざる客ですね。二度と訪れることは無いと思います。
最近なじみになりつつある、やや遠方の喫茶店。ランチを楽しみに、真夏以外は月イチくらいのペースで訪れるようになっていたのですが、昨夏は猛暑の影響で店主が体調不良に陥りお休み。そのお休みが4か月続き、再開されたのは11月末でした。
日替わりランチが¥950税込から¥1,000に値上げとはいえ、それでもリーズナブル。この物価高の中、最小限の値上げ幅に感謝です。飲食業にしてはわりと長い間お休みされたことも影響しているのか、まだ客足が以前ほどには回復していないようですけれど、何よりもご高齢な大将の健康が大事です。
12月に2回、ランチに訪れましたが、居合わせた客はおそらくリピーターばかり、皆それぞれに大将を気遣い、声をかけていました。分断なんて微塵も無い。大将の人の良さが客に伝搬し、細い細いつながりを生んでいるかのようです。それでも大将の気力や健康は有限。営業を続けられている限り、できるだけ通いたいと思っています。
月イチくらいで訪れる、名古屋市内のとある喫茶店。個人客が多く、それぞれ静かに、思い思いに過ごすイメージが強く、お気に入りの店の一つです。ところが2025年初に訪れると珍しく「臨時休業」の貼り紙。休業は1日だけなのか確認しようと、店の入口に何か表示されていないか確認しようと近づくと、たまたま居合わせたマスターが外に出てきて、「突然お休みしてしまい、申し訳ない」とのこと。何とママさんが急に入院されて、再開は当面先になるようです。詳しい事情は存じませんが、ママさんのご快癒をお祈りいたします。再開されたらまた来ます。元気なママさんのお姿を拝見できる日をお待ちしています。
古館 僕は「心の天動説」と呼んでいるのですが、現代人は自分が世界の中心にいると思い込んで苦しいと叫んでいる。
でも、この世は諸行無常だから物事はすべて移り変わるし、どんどん消えてなくなる。たとえば。自分は固定していて周りが移りゆくと思っているけれど、いま息を吐いた瞬間の私と、息を吸い込んだ直後の私とでは、肉体も心の中もすべて変わっている。そして、諸法無我だから「私なんていない」「自分を滅しろ」と釈迦は言っているように思います。 古館伊知郎・佐々木閑著『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』PHP新書より
昭和30年代のレコードを聴く (24/11/03)
神奈川県の実家に帰省したとき、屋根裏部屋を片付けていて、奥のほうに朽ちているLPレコードケースが見つかりました。何となく見覚えがあります。私が幼少期に見たものです。現在独居中の父は心当たりが無いらしく、45年前に他界した亡母のものに間違いない。
中を開けるとカビ臭い空気と埃とともに、10枚以上の古い古いLPレコードが出てきました。これらは見覚えがありません。ジャケット裏を見ると、多くは制作年がわからない中、一部「1963年」と書かれているものがあります。昭和38年です。もっと古そうに見えるレコードは昭和37年以前のものでしょうか。私が生まれる以前、母が独身時代のものかと想像されます。
クラシック、ワルツ、シャンソン、タンゴ、ジプシー、サントラ(?)、ジャンルはバラバラ。見覚えがないのも無理ありません。幼少期の私が聴いたとしても、その音の価値は一切わからなかったでしょう。
亡母を知る人は近年ごく少ない。レコードについて叔母に訊いてみましたが、知らないながらも想像はつくらしいです。「凝り性だったから、コンパクトなステレオを買って...」とのこと。
早く両親を亡くし、中卒で働きに出た当時独身の母にとって、東京のアパート住まいながら高額なステレオを買うというのは、よほどのことだったはずです。それにこれらのレコードは¥1,800〜¥2,000前後と表示されていて、現在の金額に換算すると¥10,000以上ではないかと思われます。当時、国鉄(現在JR) 山手線や京浜東北線の初乗り運賃が¥10のはずですので、レコード価格のすごさがわかります。
「要らない」と父が言うので、とりあえず引き取って持ち帰ったものの、これらのレコードは、埃まみれなばかりか傷も多く、部分的にカビに覆われ白くなっているものがほとんど。捨てるしかありません。もしやと思ってネット上で検索するも、ほぼ価値が無く、買い取り金額は¥100前後以下ぽい。
これはまだ処分するなということか... ダメもとで風呂場に持ち込み、洗剤とスポンジを使って洗い、埃とカビを落としてみたものの、素人作業ではキレイになりません。
しかし手をかけると、不思議と興味が湧き、全くなじみのないワルツやシャンソン、タンゴを聴いてみたくなってきました。
20年ほど前に購入し、あまり使わなくなっていたミニコンポには、AUX(LINE端子)だけでなく、PHONO端子が装備されています。レコードプレーヤーだけを買えばいい。あれこれ調べて近所の量販店で¥12,000くらいのものを購入し設置。ミニコンポに接続して聴いてみました。
もちろん傷によるノイズや音飛びを伴うも、予想に反して音が良い。なぜだろう? 音の解像度はそれなりながらも、重厚で張りのある音は昭和30年代のものとは思えないほどです。レコードプレーヤー自体はともかく、ミニコンポ側のアンプやスピーカーの要素が大きいのかもしれません。CDの音に比べると、耳に優しいというか心地よさすら感じます。平板な音のCDもあればダイナミックな音のCDもあり、騒々しいLPもあれば奥行きのあるLPもありますけれど、CDの圧倒的な量感はステージ上にいるかのようであり、LPレコードは少し離れた観客席のようでもあります。
クラシック、ワルツ、シャンソン、タンゴ、ジプシー、サントラ(?)... 60年以上前に亡母が聴いていたレコードを、還暦前のバカ息子が改めて聴く。亡母と会話することが叶わなくなって45年、こんな形で亡母が聴いていた音を共有し、当時を偲ぶことになるとは想像したこともない展開でした。
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