小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2013/02/10

バイクライフこぼれ話5

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その12:アルミの弁当箱

 ここをご覧の皆様方は「あの頃に戻りたい」とお思いになったことはありますか? 例えば高校生の時とか。
 私にとっては、遙か昔になってしまった高校時代。いえ、戻りたいと思ったことは一度もありません。自意識過剰だけでなく、自己中心的で勘違いも甚だしく、若気の至りも数多い... そんな高校生時分のお話でございます。

 あれはたしか高校2年の秋だったかと思います。当時私は高校生の分際で原付を1台、自転車を3台も所有しておりました。原付はヤマハ タウニィというオートマ2段変速の50cc、自転車は自分で組み上げたロードレーサー(ロードバイク)と、ランドナー、それに廃棄品再生車のシティサイクル。
 こう書くとまるで私がすごくリッチな家庭に暮らしていたかのようですが、実際はそうではなく、バイト漬けの日々で、年齢を偽って夜間のバイトまでこなして稼いだ金銭を家計に充当することもなく、原付と自転車にと、もっぱら己のために充てておりました。
自転車
 中でもツーリング車であるランドナーは当時お気に入りで、渋いブラウンのフレームに好みの部品を組み付けて作り、亀甲模様のマッドガードがとても高校生の乗り物には見えない自転車でありました。決してトップスピードこそ出ないものの、快適な乗り心地は数十キロ走って疲れを感じたときなど、走りながら居眠りできそうなほどでした。
 当時、神奈川県のイナカにあった高校に自転車で通っていた私は遅刻の常習犯でしたが、時間の無いときはロードレーサー、雨の日はシティサイクル、それ以外は快適なランドナーで通学していた記憶があります。ほかに、こっそりと、禁止されている原付で登校したこともありましたっけ。

 ともかくその日もお気に入りのランドナーで学校へ行った私。当日は午後の授業をメンドクセーとフケることもなく、まっとうに終業時刻を迎え、少々フラフラした後、先行して歩いている友人たちに追いつくべく、住宅もまばらな、イナカののどかな一本道を走っておりました。
 車の通りはほとんど無く、事実上通学の高校生がほぼ占有していて、今思い返せば恵まれた通学路でした。途中、何本か市道を横切るのですが、その市道を行き交う車もほとんどなく、当日の午後も秋の穏やかな日差しが柔らかく注ぎ、平和な光景でありました。

 一本道を飛ばし、もうすぐ友人たちに追いつくところだった私は、市道との交差点の一旦停止表示なぞ目に入らず、他の生徒たちと同様、いつものように止まることなく市道を突っ切りました。

 そのときです。

 その交差点だけ周囲に民家が林立して見通しが悪く、油断していたことを悔いてももう遅い。急坂になっていた市道を下ってきた1台の白い乗用車に、私は激突してしまったのです。
 衝突したときのことは何も覚えていません。
一瞬ボンネットの上に乗ったような、かすかな記憶はありますが、次の瞬間、地面から立ち上がろうとした自分がいました。

「立つな!」
「立つんじゃない」
 どこかからそんな声が聞こえ、その場に伏せるともう後は動けなくなってしまったことを覚えています。それからの記憶は途切れがちで、初めての救急車の車内とか、病院に着いて横になったまま運び込まれたことぐらい。次に気づいたときは窓の外が真っ暗で、徐々に体のあちこちが痛み始めていました。

 左手首が重めの捻挫のためリハビリを含め、全治数ヶ月。比較的大きな事故だったのに、他には軽い打撲程度で済んだのは不幸中の幸いでした。
 身代わりになってくれた、お気に入りのランドナーは跡形もなくメチャクチャになったそうで、友人たちが口をそろえて「見ないほうがいい」と言い、私の手を経ずに処分されてしまいました。合掌。

 もうひとつあります。
それは、背負っていたリュックに入っていたアルミの弁当箱。背中から地面に落ちた私の体重を受け止めてくれたのでしょう。それなりの厚みがあったのに、カラの弁当箱は、ひしゃげて潰れてしまっておりました。
 ありがとう。君がいなければ今の私は存在していなかったことでしょう。

 それと、相手のドライバーには今でも申し訳なく思っております。当時私は原付といえど免許を持っていたわけで、交通ルールをきちんと守るべき立場でしたから。


 今、一時停止を無視したり、無茶な横断をする中高生を見かけると、昔の自分を思い返してしまいます。あの頃に戻りたいとは、正直思えませぬ。

  教訓:自転車といえども一時停止はしっかり守り、周囲の交通を確認すべし。



 ここでおまけの話があります。
事故当日私が病院に運ばれた後、警察による現場検証があり、友人たちが立ち会ってくれました。

 事故と直接は関係ないものの、そこで浮かんだ疑念があったそうです。
それはあのアルミの弁当箱。ああ、私のリュックにはカラの弁当箱 “しか” 入っていなかったのです。教科書はもちろん、筆記用具すらも。
 ヒドイ話ですが、当時私は教科書や文具をすべて学校の自分の机に置きっぱなしでして、しかも中間・期末テストが終わると、済んだ箇所を破り捨ててしまい、学年末にはすべての教科書の厚みが消滅していたという、破廉恥な高校生でした。

 所持品が極端に少ない高校生を、警察が不審に思うのも無理ありません。
訝しむ警察官に対し、とっさに「この人は頭がいいから教科書とか持ち歩かなくていいんです」という意味不明な弁明をしてくれたK君。ぜんぜん説得力ないけれど、ありがとう。


 バイトはクビになったけれど、いろんな人やモノに助けられたことに、改めて感謝いたします。


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