深溝江丁弾薬庫跡について |
幸田町大字深溝の江丁(えちょう)というところに山があり、その山林に弾薬庫跡がある。その山は、その山を所有されている方の家から南東方向(ほぼ南にあり)蒲郡との町境になっている。高さは、90メートルほどの山で、今は竹が生い茂り、どんぐりの木などが繁っているが、昭和20年頃は、人々が燃料の小枝を持ち帰り、山はすかれて、今よりも遠くが見渡せたという。山頂に登れば、三河湾が一望でき、北は深溝小学校の高台が見えたという。 この弾薬庫の話を聞いたのは、3月に「三河地震の体験を聞こう」という取り組みの時で、「昭和20年、三河地震の折り、深溝小学校や付近の人家に泊まり込んでいた兵隊さんたちのおかげで、多くの人が助かった。それは、私の家の山に弾薬庫を作りに来ていた姫路の師団の兵隊さんたちだった。」ということからであった。 そのころ、三河湾に侵入し、蒲郡に上陸するであろうアメリカ軍に対応するために、江丁の山に「砲台」「弾薬庫」を作っていたのだという。 「私の家が作戦本部になっており、師団長が泊まっていた。そして、会議をよくやっていた。大人たちは近寄れなかったが、私は小学生だったので近くから見ることが出来た。師団長ともなると大変偉くて、みんなお辞儀し兵隊が付き従っていた。馬から降りたり、乗ったりする時は年をとっているから、ミカンの箱などのような台をお付きの兵隊がさっと差し出していた。」 「当時は、食料がない時代だったが、師団長は大変ぜいたくなものを食べていた。時々そのお裾分けがあったが、とても美味しかった。当時としては夢のようなお菓子などがあった。なんでもあったような気がする。おいしかった。」と、その山を所有される方に話していただいた。 弾薬庫は、山の北斜面20メートルほど登った所に、2カ所あった。東の方にあるものは、入り口までの通路がかぎ型になっている。それは、爆風を考えたものだという。そして、入り口は50年余にわたる歳月で土砂が落ち、人一人が背をまげて入ることができるほどだが、中は大人が立って手をのばしてもとどかないほどある。入り口から中に入って5メートルほどで、通路は直角に曲がっており、高さ2メートルほど、幅3メートルほど、長さ15メートルほどの直方体になっている。岩をくり貫いて作っている。壁には、つるはしの跡が残っている。 「兵隊たちは、大変だったと思う。冬の寒い日も弾薬庫には歩哨が立っていた。また、工事の時、兵隊に死者が出たということもあったようだ。秘密になっていたようだが、兵隊たちが『OOが、落盤で死んだ。』と語っていたのを聞いたことがある。公には、言えなかったことだけどね。」また、弾薬庫には、大量の弾薬が運び込まれており、「もし、この爆弾に火がつけば、山全体がなくなる。」と兵隊が話していたことを覚えておられるということだった。現在は、しみ出した水が深さは20センチほど溜まっている。 もう一方の弾薬庫は、土質がやわらかいために、落盤している。それぞれの弾薬庫は、10メートルほどの間をあけて作られている。次に「砲台」があったという穴に入ってみよう。 弾薬庫跡からまた、20メートルほど北斜面を登ると砲台跡があった。やはり、北斜面に入り口があったが、土砂がつもって狭くなっている。この砲台は地下式になっていた。中へ30メートルほど入ったところで、崩落した土砂が通路を塞いでいた。「以前は、南斜面まで貫通しており、そこから蒲郡の海が眺望できた。そこに、大砲を据えるまでになっていたが、終戦で中止となった。」という。その砲台の南口は、確かに土砂が陥没し、少し低くなった箇所には竹が密生している。何の変哲もない竹林だと思って歩くと、見逃すほどである。しかし、砲がすえられたであろう砲台跡はコンクリートで頑丈にできていた。 終戦後、弾薬はすぐに運び出されたという。残った弾薬庫には、天井や側面を支えた質の良い板材が残っていた。村人は、それをのこぎりで切って運びだし、家の材料に使ったという。そして、村の人たちが次から次へと運びだしたので、空洞だけ残ったという。 また、その弾薬庫の出入り口には、「之ヨリ内ニ立入ヲ禁ズ 陸軍省」という看板が立っていた。それを、土地を所有されている方が引き抜いて家に持ってきたという。それは、現在もその方のお宅の玄関を入った梁にかけられている。 「もし、アメリカ軍が上陸してきたら、どうなっていたでしょうね。」と案内していただいた方に聞いたら、「あの時代は大変だった。二度と起きてほしくないね。」と語られた。 その後、私は現在の学校に赴任したのだが、子どもたちが「ほら穴」と呼ぶ洞窟を調べたことがあった。この「洞窟」も、周辺のかぎ状の形態、そして、中の様子から「弾薬庫跡」であることは確実だ。しかし、地域の方はそれを知らないようだ。 この「弾薬庫」が「機能」した時、この地に計り知れない悲劇を生じただろう。そんな時代が再び来ないように、これらの「遺跡」を保存しておきたいと思った。 2002.10.27(日)土井政美記録 |
深溝江丁弾薬庫跡写真 |
深溝江丁弾薬庫跡調査見取り図 |
上の図が、「深溝弾薬庫跡」の図である。出入り口のあたりは崩落が進んでおり、這って入れるほどにふさがっている。 また、その外側は、「直角に曲がっており」、これは、爆風よけか防御の形態なのかも知れない。 |
深溝弾薬庫に掲げられていた看板
「之ヨリ内二立入ヲ禁ズ
陸軍省」
これが、「之ヨリ内二立入ヲ禁ズ」と書かれた看板であり、地主の方が、「終戦後爆弾が撤去され、弾薬庫跡に放置されているのを、持ってきた。」と言われていた。今でも、その方の家の梁に飾られている。