学閥の「教師論」

 「学閥の教師論」といっても、明示されているものではありません。校長が折りについけ言うこと、教育事務所の主事などが語ること、そして、学閥の機関誌「たつき」、「教育と文化」(愛知教育文化振興会発行)などから、抽出したものです。
 かれらの語る「教師・教育論」を分析・批判し、彼らの欺瞞を明らかにしていきたいと考えます。

「教師・教育界の信頼回復のために」(教師としてあるべき姿)

 この仰々しい題の文書は、10数年前に三河の職場で校長によって配られたという記録があります。近くは、西尾で中学生の自殺があり、教育が大きく問われている時に、西三河教育事務所の主事が教務主任者会で摘要を配ったという記録があります。したがって、彼ら学閥の「強固な教師・教育論」だと考えて差し支えないと思います。まず、その文書を引用しましょう。

 ここには、「日常の当然のこと」が書かれているように見えます。しかし、簡単に「納得」するには、あまりに重大な問題が内包されています。「論理のすりかえ」といった方が良いでしょうか。
 「ごまかし・すりかえ」の裏で、学閥による差別・選別、教育の私物化が行われていることを考えると、ここに現れた「教師・教育論」を一つ一つ分析するのも、意味あることと思います。
 みなさんは、どう考えられるでしょうか。まずは、「文書」を掲示して、みなさんのご意見を求めたいと思います。

「ほう、どんなことを
 言っているんですか。」

「机上無一物」
 この言葉もよく言われたものです。学校訪問の折りには、ロッカーにどさっと片づけ、訪問が終わると机の上にまた戻すという行為は、このなごりでしょうか。

「では、もとの「学閥」のコーナーに戻ります。」

「報・連・相」(ほうれんそう)
 語呂合わせの好きな三河部の職場で「開発」された言葉でしょうか。「ほうれんそう」とは、野菜のホウレンソウではなく、「報告・連絡・相談」の略です。
 これは、管理者(校長)への絶対的服従を基本とする発想に基づく言葉で、何事も「許可を得ないでは、できない」という雰囲気を持っています。
 「あ、良い天気だな。となりの広場で自然観察をしよう。」と思っても、「計画書」を作成し、管理者の許可を得ないでは学校を出ることはできませんでした。「事故が起こったら、どうするんだ。」という管理者の言葉が響きます。また、「先生の教育実践は、そんなに行き当たりばったりなのですか。」という冷たい目が。
 そして、校長に文書が届くまでに「学年主任」「校務」「教務」「教頭」「校長」の段階が。
 「やってられないわ。」というあきらめの声が。

「提出文書」
 ある学校の話。女性教師が徹夜で作成した文書を提出した。それは、いつものように「校務・教務・教頭・校長」と上がっていく。しかし、途中の中間管理職は「自分たちの指導のよろしき」を校長に見てもらうために付箋をいっぱいつけたのだ。
 校長は、その女性教師を呼び出して、「こんなに付箋が付いている。直してきなさい。」と。女性教師は疲労困憊しており、「もう直せません。」と弱音をはいた。そうしたら、校長が「それでは私が直してあげよう。」と。(ここは、それなりに評価できないこともないが。)
 そして、その女性教師は校長が直した文書をいつものように「校務・教務・教頭」という順にみてもらうために出した。そうしたら、なんとまたしても付箋がいっぱい付いてしまった。
 驚いた女性教師は、その付箋がいっぱいついた文書を持って、校長のところに行ったのだ。その時、校長は苦虫をつぶしたような顔をして、3人を呼び、「これは、わしが直したんだが。」
 3人は、驚いて付箋をはずしたとか。