豊橋学年主任研修会(6月28日)におけるN氏の講演より  〔資料〕

               1994.7.24(日)三河教職員労働組合作成

 1994年6月28日(火)「平成6年度学年主任研修会」が、ライフポートとよはし

で開かれました。そこで、豊橋市立小中学校現職研修委員会委員長のN氏は、次の

ような講演を行いました。演題は、「学年主任と校内研修」でした。

O N氏の講演より(見出しは、編集者)

1、経営の勉強−N氏の起点

  私は、岡崎から帰ってきた時に「A中学校で英語の指導員をやれ。」ということで

 タイプを打っていたら、校長室に呼び付けられて、「お前は20年を英語やっていて、

 しかも附属に行ってきて、まだ勉強してるのか。馬鹿者が。今日から帝王学の勉強だ。

 どうやって組織を動かし、どうやって人を動かすか。それを勉強しろ。学校で英語をや

 っておるようでは大したことはない。」と、叱られた。その一言で、私はガラッと変わ

 った

  それから、私は、経営の勉強をした。教育の勉強はやめた。切り替えた。付き合う人

 も、会社関係の人とか。今も、勉強のために「どうやったら売り上げが伸びるか」とい

 う経営コンサルタントをいろいろやっている。先日も経営者の前で経営の話をした。今

 も名古屋へ会社の社長さんとか、税理士とか弁護士とか、お医者さんとか。愛知県中で

 教師は私だけですが、行っています。

2、「自分の確立」−N氏の考え方

  教育というのは、これが正しいというのはありません。どれがよりベターかと。だか

 ら、いろいろ言われると自分がなくなっちゃう。困るわけで、自分の信念を持っていな

 くちゃならない。先日もある人が「S中は宿題が多い。」と行ってきました。だから

 私は、「何を寝言言っとる。俺たちはちゃんと考えてやっている。親が宿題の量が多い

 少ないなどと言うことじゃない。トロいこと言うのも大概にしておけ。」と、けってや

 りました。やっぱり、部下がやっておることは信用しなくちゃいけない。自分というも

 のを失っては教育はできない。

3、研修委員会の改訂(改革の精神)

  教育を考える時、組織を変えても、中身を変えたってかわらない。やっぱり、変革の

 基本は、一人一人の意識だ。今度の「現研だより」を書かせていただいたが、三つの思

 いがあった。

 @ 市の教育の改革

  今の教育でいいだろうか。見直さなくちゃいけないことがたくさんある。これだけ、

  産業界、政界がガラガラ変わっている中で、教育だけ変わっていない。しかも、先生

  の意識だけ変わっていないとすると、問題がある。このへんで、教育も発想と行動様

  式を変える時だ。現職研修の見直しで一つのきっかけにしたいと思った

 A 研修とは、自主性とは

  研修とは、本来自主的なものだ。だから、全職員が自己を高めるために「プラス思考

  とチャレンジ精神」で取り組んでほしいと思った。

   自主的だというと、すぐ逆がくる。「課題を出せというのは自主的じゃないではな

  いか」と。「論文を書けというのは自主的ではないではないか」と。みなさんは、自

  主的な子どもを育てるめには、自習ばっかやらせて、ほっぽかいとけば自主的になる

  と思うか。自主的な子どもを育てることほどエネルギーのいることはない。刺激をあ

  たえる必要がある。かなりの刺激がないと、自主性なんか育つものではない

 B 論文は大切

  (論文を5回ほど書き直しの指導をした話)そうしたら、その時は必死でやらせた。

  そうしたら、「あの経験がなかったら、ものが言えない。論文のすじ道の勉強をさせ

  てもらった。今度は、もっとやって、どこかの出版社のやっとるあの論文に書き換え

  て出して50万円かせぐで、S中の飲み屋でやりましょう。」と。「それは、いい

  ことだ。がんばってくれ。」と。それは、やっぱり一つの刺激なんで。そこから育つ

  のは、自主性ではないですか。

 C 教師の変容論

   子どもの望ましい変容は教師の変容をおいて他にない。これは当たり前のことで、

  どうやったら自分が自己変革できるか、ということが非常に大事なポイントだ。

 そういう思いを元にして組織を作り替えてみました。組織的に体系ができているのは、

全国にない。どこの都市もできてない。そういう思いでやったということは、部下をもっ

てみえるみなさんにご理解願いたい。

4、校内研修

  校内研修を重点化しておる。校内研修が基本。「それぞれ課題を出してほしい。」と

 言って話をしたら、ものすごい賢い教務主任が「おい。論文を書くだぞ。」とオーバー

 に言ったものだから、豊橋が大騒ぎになった。「簡単な自分の課題を頭のすみっこにお

 いて実践をしてください。それで結構だ。」ということなんですよね。それを、どう扱

 うかは校長の経営の中でやることであって、我々が指図することではない。学校の自主

 性を阻害するようなことを私たちはやる予定はない。その扱いについては、論文にまと

 めようが、そのままでよかろうが、それは学校経営の中で校長が考えることであって、

 ということです。

  「こういうふうに言って下さい。」と言うと、「そんなことを上から言うのは自主性

 じゃないではないか。」と、こう言っておいて、今度は、「何がマニュアルはないか。

 」という。冗談じゃないよと

  課題がなくて実践をする人、これはプロではありません。これ、教員をやっておって

 は困るです。何も課題がなくて、ただやることだけやっているというじゃ、これは話に

 ならない。豊橋中の人が意識をすれば豊橋の教育は変わる。

5、自主性が大切−研修について

  教育長も、これをぜひ実現したいと。みなさんの声を聞きたいというので、何度も何

 度も校長会にかけたり、現教で取り扱ったりしていただいた。特に、自主的なというこ

 とで、七つの研究部には、お金を3万円ずつあげるから、やって下さいと言ったら、十

 いくつ挙げられて困った。……

  研修というのは、自分の実践を通して自分を研く。自分をのばしていく。自分が変わ

 っていく。人間というのは、かえようと思ってもかわらんけど、かわることはできる。

 それは、かえることはできんけど、かわることはできる。…(意味不明)それは、教師

 がかわること。

6、学年主任について

  学年主任とはいいもんだ。… うちは学年主任というと部下が17〜18人いるわけ

 ですから。学年主任がしっかりしていないとどうしようもない。3人の学年主任がピシ

 ッとやっていると学校が治まる。小学校の学年主任というと仲良しお姉ちゃんという感

 じでやっている場合もあるし、なかなかしっかりやっている場合もある。どこどこで食

 べようというのが、学年主任の仕事というのもあるようだが。

  学年主任は学年を任されて、取り仕切ってやっていくわけですから、これは楽しいと

 思う。…年令的にいっても、ここから本格的な勉強がはじまる時なんです。経営センス

 をみがくということを頭においてやってほしいと思う。指導力を研くということもある

 けど。経営センスを研くということが非常に大事だ

  部下が3人だとすると、子どもたちは何百人、親たちがいます。それだけの会社だと

 すると、いくら零細企業のとこでも、300人や400人はいる。…これだけのおれの

 会社だと思ったら、どうやって経営するか。そういうところの学年主任として、中核に

 なる組織としては学年の先生方、それと子どもがいます。それを取り巻く親がいる。 

 これをどう経営するか。信頼を得ながら、この会社を経営には、どうしたらいいかとい

 うふうに考える。とすれば、かなり人を動かす力、親の信頼を得る力、そういうことを

 よほど発揮しないと本当の会社経営はできない

  そういう組織としてどうだという…年令として今がそういうことを勉強する一番の時

 期じゃないだろうか。それをやらずに、校務主任の位置にいった時に、さあ困ってしま

 う。企画力はないし、人を動かす力はないし、年令でなっちゃったという場合は、本人

 は困るし、上は困る部下はもっと困るという状況になるわけですよね。

 @ 教務主任とは

  私は、よく言うんですけど、教務主任ぐらいを頭において考えていただけばいいんで

 す。自分の部下を育て、やっていく場合に、まず、私は「牽引車としての強い自覚を持

 て」と言うんです。「おれが、学校を引っ張っているんだ。」と。その自覚を持てと

 それから、「生徒から発想し、先を見通した計画立案をできるようになれ。」と。それ

 から、指導案については、「どの教科についてもちゃんと指導ができるようになれ。」

 と。「俺は理科だで、他は知らん。」なんて、そういう馬鹿なこと言っちゃ困る。それ

 から、研究の進め方、研究推進の手法・実行力これを身につけてほしい。これだけは、

 最低教務主任持ってくれよ、と。こういうようなことを、やっぱり、勉強していく必要

 があるのでは。

 A 教頭とは

  ついでですが、私が教頭に言うことは、(そろそろ教頭に、と思い人があるかも知れ

 ない。)「仕事量を多くせよ。全体を把握せよ。お前が知らないということは、一切許

 されない。相手を知れ。大将に言わせるな。大将を出すな。いちいち大将が出ていると

 話にならんから。それから、影となれ、あとで脚光を浴びよ。」教頭には、これだけの

 ことを言っております。

 B 学年主任に求められる力

 だから、私としては、みなさんが学年主任として求められる力は、どの指導案でももの

 が言えるようになってほしい。

  それから、研修会か何かでプリントを出せと言うでしょ。役所におる時は、見てた。

 「何だこれは。あすこの教務主任は誰だ。」と、誰か言う人がいる。「教頭は誰だ。何

 を指導しとるだ。これは。」と言います。その前の段階で、学年主任が目を通しておる

 かどうかということがあるわけです私のところは、必ず学年主任が目を通して、それ

 を教務にわたして、私の所に渡ってくる。「そんなこと、当たり前じゃないか。」と言

 うんですが、黙って出す奴がおるんです。「そういう時は、OO中学校と書くな。自分

 の名前だけ書いておけ。」と。OO中学校と書くと、だれが指導しとるかと、必ず見ら

 れる。だから主任さんは、必ず目を通して下さい、と。一遍は。それが、変なの出され

 たら、主任が悪い。次に、教務主任が悪い。もっと悪いのは、教頭が悪い。校長までは

 まあ言わんようにしとる。…

  これは、あまり大きい声で言っちゃいかんだけど、よく中学校で新入生テストやるで

 しょ。あれを見ていると、同じ学年でもクラスによって、なんでこんなになっちゃうか

 ということなんですよね。月とスッポンというのがありますよね。だけど、大体はよく

 似ている。これは、学年主任さんが、ある程度テコ入れをやっている。しかし、中には

 どうにもという差が出てくることがある。これは、北海道の話です。「これほど違って

 いいのだろうか。」という違いが出てくるのは、どういう訳か。一年間でこれだけおか

 しくなっちゃうのは。そういうことも、一応目を通しておかなくてはならない。

  私は、十数年前から言っております。組織としては、「報・連・相」の徹底、これを

 しっかりってもらわないと組織としては困る。どんなことでも、主任のとこまでは言っ

 ておけよと。主任が判断して、これは教務まで言っておけばいいか、教頭か、校長か。

 これは、主任が判断することですから。…

  全体を見る目。部下を育てる。部下が育ってくれば、子どもも変わってくる。全体を

 ながめておって全体のレベルアップをはかる。そういう大事なことがあるように思いま

 す。

  自分の学年を経営していくわけですけど、学年経営の原点というのは、私は、子ども

 と教室だと思っております。これをよく見ていると、あまりにも課題が多いことがわか

 ります。その課題をどう解決するか。うまく部下を使う。使うと言っちゃ言葉が悪いが

 使って、それを解決していく。お互いに、教育しあいながら、気持ちを一つにしながら

 今度はこの問題を解決しようではありませんか、とお互いに話し合っていく。考えるこ

 とは、子どもと教室。これは、もう間違いなくそうですよね。ですから、自分の学級の

 子たちと、リーダーとして、他のクラスの子たちも、知っていなくちゃいけない。…

 (N氏の「自分の方法」の披瀝)

  自分の学年だけを考えるようではだめですね。やっぱり、ある学校があったとする。

 その学校の中の自分は、この学年の経営をやっていると、動かしているんだと。そこか

 ら、考えていかないと。豊橋の教育をどうしたらいいか、と考えながら自分の学校を。

 どうなればいいな、と。そのためには、自分の学年はどうなればいいなと、考えればい

 いが。初めから自分の学級を考えてしまうと、もう広がりはない。自分の学年だけいい

 と考えるとダメになる。私が役所に入る時、そういうのがありまして、「お前とこの学

 校、問題があるぞ。」と言ったら、「ぼくの学年はいい。」と言やあがったもんでね。

 この野郎と思ってね。その場で、ひっつかまえて、「お前みたいなそういう精神だから

 いかん。」と、その場でずいぶん怒りましたけど。「おれの学年はいい。」というんじ

 ゃ、だめですね。全職員で全生徒を育てるという認識がないと。…学年を越えて声をか

 けろと。小学校は学級王国になりがち、中学校は、学年王国になりがち。そこのところ

 をはずす視野を持つ主任さんになってほしい。

  これから、みなさんは主任さんであると、いろいろなことをやっていかなくちゃなら

 ない。人によっては、教務に相談しないでやっていく人もいる。みんな聞く人もいる。

 私は、良いと思ったことは思い切って実行する。今教育界に欠けているのは実行力だと

 思うんです。言うだけは言うんです。立派なことを。「子どものために」と。何も子ど

 ものためになやへん。論文を見ると一番ようわかる。「一人一人を生かして」なんて、

 何も生かしてやへん。表現だけは、こうなっている。そういう「子どもの個性を生かし

 て」というけど、読んでみると全部先生が計画を立てて、先生がやって、子どもがどこ

 にも出てこない、というのがよくある。言葉ではなくて実行なんですよね。

 …学年で実行する。その時は、明確な理由づけが必要なんです。誰がなんと言おうと。

 私は、これを教育における科学だというふうに勝手に名前をつけている。…。主任はい

 い子になってはいかん。みんなにいい子になるような主任だったら、部下はだまってお

 るけど信用しとらんという場合がある

  私は、「指導案で部下を鍛える。」と、よく言います。…カリキュラムは自分で作る

 んだよ。市の計画をそのままやるというんでは、主体性がない。そんな理由でやられて

 は困る。「もう一度、考えてこい。」と。そうすると教材の捉え方のところを一生懸命

 書き換えてくる。そうすると、伸びるですよね。…(以下、略)

                    (     は、編集者)

O 三河教労は、豊橋現職研修委員長であるN氏の「論理」を検討するためにこの記録

 を作成しました。みなさんは、この講演を、どう考えられますか。

 

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N氏講演に対する徹底批判(三河教労)

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 経営主義的管理主義は、  教育現場の状況を堪え難いものに!〔特集NO.2〕

          豊橋に、新たな、そして、強力な管理的システムを熱望するN氏の「論理」について

 

                1994.8.6(土) 三河教職員労働組合

 豊橋に、「現職研修元年」と銘打って、「豊橋の教育改革」を目ざす取り組みが進行し

ています。それは、「教育改革をめざす教師の意識改革と学校経営(学校観の転換)」を

含め随所にわたる「研修」をてこに「改革」を行うとしています。それは、何を目標とし

ており、現場ではどう現われざるを得ないのか、その中心的な役割を担っているといわれるN氏の「論理」を検討してみたいと思います。

 

 「教育とは何か。」その真摯な問いかけを放棄したところから出発

 N氏は、ある校長に、「まだ英語の勉強をしているのか。馬鹿者が。今日からは、

王学の勉強だ。どうやって組織を動かすか、どうやって人を動かすか…。学校で、英語を

やっておるようではたいしたことはない。」と言われた一言で私は変わったといいます。

それから「教育の勉強はやめた。経営の勉強をやろう。」と決めたそうです。そして、現

在では、「経営者に対して講演をしている」ことを得々と話しています。

 「帝王学」的意識に彩られた「経営学・行政テクニック」がN氏の特徴となっていま

す。自らが、教育者としての学習を放棄したことを重要な契機として確認するとともに、

「経営問題に造詣が深い」ことを自慢し(その経営テクニックがいかほどのものであるか

わかりませんが)、自らの「経営者をも講義できる」教師としての視野の広さを自慢する

「自信家」でもあるようです。

 また、教職員を「部下」呼ばわりし、高圧的態度が顕著です。宿題の量についての父母

の疑問に対して、「何を寝言いっておる。俺たちはちゃんと考えてやっている。親が宿題

が多い少ないなどと言うことじゃない。とろいこと言うのも、大概にしておけ。」と、一

蹴してしまいます。また、この話を「自分というものを失うと教育はできない。」という

例として引用しています。このような「論理方法」に、氏独特の個性を感じるのです。

 

 教育と会社経営を結合、経営者的学校運営を目ざす?

 N氏は、「産業界・業界の変革」と軌を一つにして「教育も発想と行動様式を変える

時」だと主張します。そして、「組織を変えても、中身が変わらなかったら変わらない。

」として「一人一人の意識の変革」を要求します。教育と会社を同一視し、「教育を経営

の論理でみよう」ということなのでしょうか。N氏は、次のように語ります。「学年主

任は学年を任されて、取り仕切ってやっていく。」「ここから本格的な勉強がはじまる。

経営センスをみがく。それを頭においてやってほしい。」「部下が3人だとすると、子ど

もたちは何十人、親たちは何百人…300人や400人はいる。おれの会社だと思って経

営する。」「本当の会社経営だ。」「教務は、おれが学校を引っ張っているという強い自

覚を持て。」「教頭(お前)は、仕事量を多くし、全体を把握し、相手を知って、大将(

校長)を出すな。影となれ、あとで脚光を浴びよ。」などなど。

 要は、学校の「組織運営」=人間操作に企業論理を導入するということのようです。学

校運営は会社経営であり、校長は社長であり、教頭・教務等は、中間管理職であり、教職

員は社員であり、児童生徒は「商品」であるといいたいようです。

 そして、「研修はプラス思考とチャレンジ精神で」と、発想の転換を要求し、「ほった

らかしていて自主性は育たない。」から、「課題を出してほしい。…課題がなくて実践を

する人は、プロではない。教員をやっておっては困る。」とまで言います。そして、「課

題をどう扱うかは校長の経営の中で行うこと」として、「課題提出」は当然であり、「論

文提出」は、そこで苦労した経験がないと「物が言えない」のと同じだという発想です。

 そして、それは、次のような「短い言葉」で補強され、それを吹聴する「部下」も現わ

れているようです。「提出物は必ず見せてから出せ」「経営のポイントは報・連・相」「

大将は峠に陣を張れ」「発想はでっかい土俵で、研究は小さい土俵で」「遅いことは猫の

子でもできる」「遊びは真剣にやれ、仕事は楽しくやれ。」「作業ができる人でなく、仕

事ができる人を育てたい。」「学校活性化の唯一の方法は部下を育てることだ。」など。

 このようなたとえが、口をついて出るのがN氏の特徴であるとはいえ、教育現場を会

社か戦場のように考えるとは。一般論としても、「たとえ」としても、これは不適切の誹

りを免れませんし、そこに教育論は欠如しています。

 

 N氏の「教育改革」は、どのように現われざるを得ないか。

 N氏が考える「豊橋の教育改革」は、どのように行われるのでしょう。それは、『学

校教育指導要覧』『豊橋市の現職研修のあり方(案)』「現研だより」が、それをより体

系的にあらわしていますが、今年度すでに、その片鱗が現われています。

・「自主研修テーマ」−「本年度から、全市一斉に校長、教頭、教務、校務、教諭、常勤

           講師、事務職員の全員が、テーマを設定して個々に自主研修に取

           り組むことになりました。」(教務通信より)

・「選択制になった学校運営研究会」−「8名の企画運営委員を選出し…コースを決定、

           「自己負担で宿泊し翌日は個人研修…、休業土曜日の前日を研修

           日に」(現研だよりNO.3)

・「新設された教職経験者(6年目)教員研修 授業研究会」(現研だよりNO.3以下NO.4)

・「グループ別にボランティア体験をする初任者研修会」「実践研修、作文を書く」

・「愛知県教育論文募集」「豊橋市教育研究論文募集」−「優秀な論文への対応−研修員

           研修等への推薦、教職経験11年目の教員については必ず応募」

 N氏の「論理」からも、具体的に豊橋に起こっていることからも、「自主的」の名の

もとに、強制的な論文提出、「研修会」増設等が計画されています。それは、現場の多忙

化の中で苦しむ教職員に、更に困難を強いるものとなるのは必定です。

 

 教育における真の自主性・教師と子どもの人権と生活を、度外視。

 N氏の「論理」は、教職員や子どもの人権、生活を度外視するところから出発してい

るようです。「教師の変容」「子どもの変容」「論文を書くことによって自分の考えが確

実になる」もっともらしい言葉に粉飾されていますが、「豊橋の教育改革」は、「教職員

の生活と人権の侵害」のもとに進行せざるを得ません。

 一方的に、独特の「論理」で、「子ども論」「教師のあるべき姿」「教務・教頭のある

べき姿」そして、「学年主任の任務」を説くN氏には、「自分の期待する部下のあるべ

き姿」は明確のようですが、そこには、教育現場が直面している課題や、教職員の人権や

生活は全く欠落しているようです。

 私たちは、学校が「工場ではなく」「会社でもなく」「効率化されるものではない」こ

と。「主任制度をフルに使って経営される」のではなく、教師が人格を有した一個の主体

者として、真の自由・子どもの人権と教職員の人権・生活と権利を徹底して守ることを通

してこそ教育目標は実現されると考えます。

今一度、私たちは、「学校というものは、何か。それは、どうあるべきか。」また、「教

師とは。教職員の研修する権利とは。」について「本来の原点においておさえる」ことを

提起したいと考えます。