ー戦争と平和を考えるー

 平和の旅
  
  「平頂山事件」を、みなさんは知っていますか。


 「平頂山事件」(へいちょうさん・じけん)とは
 1932年9月16日、日本の関東軍(かんとうぐん)撫順(フーシュン)守備隊や憲兵、警官などが中国遼寧省撫順市郊外の平頂山高台の下にある平頂山村民約3000人を虐殺した事件です。
 この事件には、日本軍6個小隊約190人が出動。牧畜用鉄線でふさがれた逃げ場のない平頂山東側の崖下に、「写真を撮るから」と、村民を集め機銃掃射を浴びせました。
 虐殺は、機銃掃射のあと、さらに「生存者を一人一人死体を踏み分けながら、銃剣で刺殺していく」というものでした。
そして、さらにガソリンで焼き、崖を爆破して埋めたことが証言や発掘などで明らかになっています。
 これは、当時の日本軍独立守備隊第中隊長川上精一大尉の「村民が、匪賊(当時、日本軍は日本の支配に反対する抗日中国人を、このように呼んでいました。)と通じているから、村を焼き尽くし、皆殺しにする。」という意見で実行されました。
 日本の敗戦後、国民党政権下で、敗戦時の責任者ら7人が加害者として裁判の結果処刑されましたが、真の首謀者である川上大尉らは日本に逃亡。川上は1949年6月に自殺しました。
 現在、証言にもとづいて発掘された記念館内には、長さ80m、幅5mの「骨池」があり、遺体の一部800体が展示されています。当時の事件で生存者は34人とのことでした。

 今回、「中国東北地区(旧満州)をまわる平和の旅」(2001年9月15日〜22日)が行われ、それに参加された方が、「平和を大切にし、二度と戦争をおこしてはならない」との思いから、記録をビデオにまとめられました。

  『平頂山惨案遺址』(4分30秒)
  『731細菌戦部隊陳列館』(7分30秒)
  『9.18柳条湖事件70周年現地集会参加』(20分)
  『吉林民族楽団による日本客歓迎演奏会』(54分)
  『日中国交回復30周年・廬溝橋事件65周年記念 日中友好平和の旅』(1,2)(各1時間)

これから
 希望の方には、残っているビデオについてはお譲りしたいと思います。(実費負担)ご連絡ください。
 また、戦争に無反省で、再び日本が戦争に加担・協力するというようなことのないように、私たちもビデオを見たり、学習する機会を持ちたいと考えています。

 
(昔のこと)
 
 「首は皮一枚残せ」
 私は若い頃、剣道をしていました。そこでの話ですが、「満州」帰りの人たちが「首を切る時はな…」という話をされていて、驚いたことがあります。「首を切る時は皮一枚残せ。切り落とすと、転がった首がこっちを向く。だから、皮一枚残すんだ。」と。何の話か、当時はわからなかったのですが、戦争中、中国で人の首を切った話だったようです。「命令されても、最初は『この人たちにも家族があるだろう』と切れなかった。でも、…」というような話も聞いたことがありました。
 また、「面を打ったら、相手を突き飛ばせ。」と言われたこともありました。なぜかなと思っていたら、刀で切った相手の青龍刀(中国の刀)が頭からふってくるぞ。そうなったら、お前も命はない。だから、切った相手は突きとばすんだ。」というのです。
 私は、そんな話を聞くに付け、「平和な時には普通にみえるこの人たちが、中国でどんなことをしてきのだろうか、戦争は人を変える」と思いました。手柄のような顔をして切った中国の人の首をぶらさげた日本兵の写真を見たこともあります。寒稽古などで、そんな話題が出ると、「もういいかも知れないが、進駐軍(GHQ)に知られるとまずい。」と、誰彼となくだんだん話題にしなくなっていったようです。
 

 「帰ってきた息子にしがみついた祖母のこと」
 私の祖母は、52歳で、その貧しくつらい生涯を終えましたが、こんな話を聞いたことがあります。祖父と祖母は、いろいろな所で働き、三人の子を育てましたが、長男はまだ小さい頃、病気で亡くなりました。次男が戦争に行き、残されたのは女の子一人。
 次男は、戦争中、中国東北部(満州)に行っていたのですが、戦争が終わってから2年がたっても帰りません。シベリアへ抑留されていたのです。零下30度を超える寒さの中、多くの仲間が死んでいったそうですが、幸い次男は、体こそ小さかったものの丈夫だったことが幸いしました。2年余がたって、次男が家に突然帰ってきました。「もう、だめか。」とあきらめかけていたところへ、突然帰ってきたのです。祖母は、家の東の道に走り出て、帰ってきた次男を抱きしめて、「もう、どこへも行かせん。」と、大声で泣いたそうです。
 その祖母は、体を酷使したことで早くに亡くなりましたが、次男が家を守り、3人の孫に恵まれました。次男が帰ってこなかったら、この家はどうなっていたかと思います。



(掲載にあたって)
 たまたま、ある方々からこのようなお話を聞きました。戦争中の中国での話、夫、兄弟、家族を泣く泣く戦地へ送った話など、ほんの少しの言葉に「万感の思い」があると思います。今、またそれを語るべき時ではないでしょうか。
 お話くださった方々の気持ちに、なかなか添えないかも知れませんが、平和を願い、二度と悲惨な戦争という体験をしないために、掲載していきたいと思います。
 よろしくご理解ください。