教育委員会法のもとでの指導主事制度
明治5年8月に督学局が設けられ、以後73年続いた視学行政は、昭和23年7月、教育委員会法の制定によってその募を閉じ、新しい指導主事行政に生れかわることになりました。
指導主事の職務は教育委員会法第46条に「指導主事は、教員に助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」と明確に定められました。
その後、昭和25年の法改正で、第46条は削除され、新たに、第52条の4の条文に「指導主事は、校長及び教員に助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」とし、助言、指導の範囲を校長にも拡げることになりました。
文部省初等中等教育局に勤務し、新制度のもとでの指導主事の有り方の普及に当たり、昭和23年の10月から24年の3月にかけて、文部省主催の第1回、第2回教育指導者講習会で「指導主事の職務」の講義に当った武田一郎氏は、著書「指導主事の職能」(学芸図書)の中で、指導主事の職務を定めた教育委員会法の条文を次のように詳述しています。武田氏の見解は個人的なものですが、武田氏が文部省内にあって戦後指導主事行政の草分け的地位にあっただけに、指導主事本来の任務と役割を知る上で貴重なものです。以下武田氏のレポート「第二章 指導主事の職能的性格」から条文解釈を引用することにします。
@ 指導主事職の法的根拠
指導主事の職務の本質を規定する現行法規は52条の4の条文である。(中略)この法律の条文を正しく理解することが指導主事の職務を正当に理解するために最も大切なことである。そこで、私は今、これを三つの点にわけて解説してみたいと思う。その第1は教員に対する助言指導ということ、第2は校長に対する助言指導ということ、そして第3は命令および監督はしてはならないということについてである。
A 教員に助言と指導を与える
そもそも指導主事の第一任務とするところは、児童生徒のよりよき成長発達をはかるために教員の活動を援助することにあるのである。学校において、児童生徒の成長発達を促進する直接的責任者は校長ではなくて教員であることは、すでに学校教育法第28条第4項に、「教諭は、児童の教育を掌る。」とあることが何よりもめいりょうに指示している。この「児童の教育」は同時に「生徒の教育」とも読み替えなければならないから、上記28条第4項の教諭は当然小学校・中学校・高等学校を通じて直接こどもの教育を担当する教諭を指すことになる。しかし教育委員会法の当初の第46条および改正法の第52条の4で「教諭」といわないで「教員」とあるのは、学校には養護教諭とか助教諭とか講師とかいわれるような、教諭以外にも直接こどもの成長発達を援助指導する職員があるところから、これらを総括して教員といっているものと解釈するのが妥当であろう。
( 中 略 )
そこで次の問題として、「助言及び指導を与える」ということの意義を明らかにする必要にたち至った。助言ということばは英語のアドヴアイス(Advise)であって、終戦後盛んに用いられるようになったことばの一つである.つまり助言とかアドヴアイスということばは、多分に民主的性格をもっているのである。指導ということばは英語のガイダンス(Cuidance)に当り、特に指導主事の機能を表わす場合の訳語としてはアッスイスタンス(Assistance)ということばに置き替えられることもある。しかしアッスイスタンスということばは、むしろ、援助とか補助というほうが本来の適訳であろう。この助言と指導の二つは、全く異なった二つの作用ではなく、むしろ指導主事の一体的機能の二面的表現と解釈すべきであろう。なぜならば、指導主事が教員に対してなんらか助言することによって、教員の活動がよりよく進歩するのであるから、助言は直ちに指導につながる性格をもっている。指導にならないような助言は、すでに助言といわれる性格を喪失したものといえる。たとえば教員が読みの指導において、どのようにこどもを能力別グループに編成したらよいか苦しんでいるとき、指導主事が教員の相談相手になって、こうしたらどうだろう、ああしたらどうだろうといろいろ助言をするであろう。教員はこの助言によって、「なるほどそうか」と感じたり、「いや、その方法ではうまくいかないだろう。むしろそれよりこうしたらどうだろう。」というように、いろいろ今まで気づかなかったよい方法を、指導主事の助言をきっかけとして考え出すようになるであろう。つまりそれだけ教員自身の考え方が進歩し、この進歩した考え方を学級のこどもの指導に適用して、指導学習の動的関係が一段と進歩するということになるのである。だから、助言は直ちに指導に結びつくものということができるのである。それゆえ、「助言と指導を与える」ということは、むしろ、助言という教育的技術によって、教員を指導するという結果をもたらす指導主事の機能を明示したものと解釈すべきであろう。助言はあくまでも助言であって、命令ではない。だから指導主事の助言は、あくまでも示唆的性格のものであって、けっして命令的、強制的になってはならない。
( 中 略 )
指導主事の与える指導は、あくまでも民主的な指導でなければならず、つまり「助言」という示唆的活動によって教師の人格や自主性を尊重しての指導でなければならないのである。この点は、指導主事の職務の本質的性格を規定するものであるから、いかにくりかえし強調しても強調し過ぎるということはないであろう。
なお「助言と指導を与える」ということばも、注意深く解釈されなければならない。「与える」ということばは、ともすると一方的に解されやすい。すなわち、AがBに金を与えるという場合についてみるに、Aは単に与える人であり、Bは単に受け入れる人であるという関係にある。ところが指導主事の教員に対する助言指導の与え方は、このような場合と全く趣を異にするのである。もしも指導主事が一方的に与える者であり、教員は単にこれを受け入れる者であるとしたら、けっして民主的な助言指導とはなりえない。そこには、相互に「与え取る」関係(Give−and−Take一Relation)がなければならない。すなわち指導主事の与える示唆的助言指導に対して、教員は一応受け入れるであろうが、しかし教員には教員としての独自の意思があるから、ときに「私はこう思うがどうでしょう」と反応することもあろう。またそう反応するような助言指導こそ望ましいのである。
(続く)
教育の現場に、時として命令やおしつけが入り込むことがあります。教育は、教員の理解と納得によって行われることが望ましく、「命令やおしつけ」は、教育の条理には本来なじまないことです。
今から50年以上も前、敗戦による戦前の国家主義的教育の崩壊によって、民主日本の教育確立が模索されていた時、当時の教育委員会制度や指導主事制度のあり方を教育の本来の活動から説き起こして述べた方がいました。
「教育の仕事って、大切なんだよね。ぼくにも、わかるよ。前のページだよね。」
「私たちのためにがんばってね。トップページに戻ります。」