刈谷・安城 両市教委は、教育長・教育課長

 出席のもと、交渉のテーブルにつけ!!

行政としての常識を逸脱したな両市教委

  三河教職員労働組合は8月末、刈谷市教委と安城市教委に「教育問題・労働条件改善についての要求書」を提出し、それについての交渉を要求しました。しかし、刈谷・安城両市教委は、「交渉でなく話し合いなら応ずる、教育長・教育課長は出席しない」と主張し、交渉に応じようとしません。特に、安城市教委は、市教委の対応の改善要求書を持参した三河教労組合員に対して、偶然いた杉浦課長が「窓口は安藤係長だ。お引き取りください。」としか言わない、話をする組合員の顔すら見ないといった行政としての常識を逸脱した、傲慢な態度をとりました。

県教委も労政事務所も「市教委は交渉に応じる相手」と発言

  両市教委の主張に対し、私たちは「三河教職員労働組合は県に届けの出してある組合だが、刈谷市・安城市に関することは刈谷市教委・安城市教委が交渉に応ずるべきだ。」と考えます。県教委・労政事務所も「県に届けの出してある組合に対しても、市は能力的にも、実務的にも交渉に応ずる立場にあり、交渉に応ずることが望ましい」と発言しています。

刈谷市・安城市ともに他の課では課長の出席は常識

  他の課の様子を調べてみると、刈谷市、安城市ともにこのような場に課長の出席は常識になっています。安城市では、市教委の対応のひどさに苦情を持ち込んだ先の秘書課長が驚くといった一コマもありました。

教育長・教育課長欠席では「話し合い」も成立しない

  交渉問題を保留にして、1月28日に行った刈谷市教委

との「話し合い」では、結局教育長・教育課長も出席せず、

そのため「課長と検討して…」「後日課長の見解を…」とい      

ったことばの連発となり、中身の薄いものとなりました。三

河教労はもっと実のある交渉を今後もめざしていきます。

 

  子どもと教職員の人権を守る三河教労

三河教職員労働組合(三河教労)

未来を拓く

編集・発行責任者 畦地 治

 

104号(2002年3月)

カンパ、機関紙購読料(年間3000円)は【郵便振込00800-4-79130三河教労】へ




愛知地区・上坂先生の不服申立てに対する

  県人事委員会の「却下決定」に抗議する!

 2002年1月18日、県人事委員会は、上坂先生の不服申し立

てを却下してきました。それは、救済機関としての人事委員会の使

命を投げ捨てるばかりか、私たちの抗議に対して、法律を「曲解」    

し、つじつまの合わない答弁を並べ立て、ひたすら「決定はくつがえ

らない」と繰り返すばかりの極めて不誠実な態度をとりました。

地公法に基づけば、人事委員会は審理を開催しなければならない

 人事委員会は、不服申し立てがなされた場合、すみやかにそれを受理しなければなりません。すなわち、不服申し立ては、「懲戒その他、その意思に反すると思った処分」にあったときに、不服申し立て書等の書類を60日以内に人事委員会に届ければできるのです。人事委員会がその申し立てを却下できるのは、書類に不備があり、それを直しなさいと命令してもしなかったり、期限が切れていたりしているときでしかありません。そのほかには、受理する際の要件については、地公法にも規則にも書かれていません。書かれてもいない「条件」をあげ、「事前に人事委員会が不利益の有無の存在」を「認定」し、「それが無いから却下する」などというのは、あまりに恣意的であり、異常なやり方です。

自家用車で通勤50分は「通常生じえるもの」と書く異常さ

 また、人事委員会は、「自家用車による約50分の通勤時間は転任により通常生じえるもの」と「決定」に書きました。これは、申立人が「通勤時間が片道約30分から片道約50分になったことは異常な長時間通勤」であり、不利益を被っていると主張し、それに対して県教育委員会が「通勤届けによれば、自家用車で通勤距離18.1km、所要時間45分と記載されており、申立人の通勤届けによれば、…決して異常な長時間通勤と言えるものではなく」と反論した箇所を受けて、人事委員会が「判断」した箇所の中にあります。驚くのは、人事委員会は何も調べずして(県人事委員会の発言)、教育委員会側も提訴人側も主張してない全く別の新しい言葉を勝手に挿入し、それを「根拠」としたのです。ちなみに、東郷町において教師約180名中通勤時間が50分以上もかかる教職員は約10名(東郷町教育長言明)で、たった5〜6%にすぎません。決して「通常生じ得る」ことではないのです。これは、教育委員会ですら驚く(であろう)、教職員の健康と安全無視の立場であり、到底容認できるものではありません

県人事委員会は、救済機関としての本来の役目を果たせ!

 人事委員会の任務の一つに「職員に対する不利益な処分についての不服申し立てに対する採決又は決定をすること」(地公法第八条)があります。「不利益はない」と一方的に「判断」して「門前払い」することではありません。救済機関としての責務を放棄するが如き不服申し立てそのものの却下決定を行うべきではありません。




このままでは学校は大混! 少人数授業

事務・研究時間(空き時間)がなくなる!

  2002年度から実施されようとしている「少人数授業」に関わる問題を、先月号で特集しましたが「とても分かりづらい。」という声が届いています。確かに、この問題は、文部科学省が昨年、急に「土曜日の授業がなくなる分の減少時間を少人数授業にあてろ」と奇妙な計算式を持ち出したことに端を発しています。今回は、少人数加配を得ることで、私たちにどれだけの負担が増えるのか、という点に絞ってお伝えします。

我々も週に3時間の少人数授業をしなければならなくなる

  少人数加配を1人確保するためには、以下の計算式にもとづく時間分以上(週当たり)を、他の教員も「少人数授業」として行わなくてはなりません。  注)次の式は小学校の例

 普通学級数 ÷ 6学年 × 22時間 ≦ 他の教員が行う少人数授業時間数 

 注)22時間の意味(土曜日2時間×6学年+学裁4年2時間+5年4時間+6年4時間)               

この計算式を全学年3クラスの小学校であてはめてみます。

 18学級 ÷ 6学年 × 22時間 = 66時間以上 

  この学校で少人数加配を1人確保するには、週に66時間以上の「少人数授業」を他の教員でやらなくてはいけません。この時間を学級担任18人と担任外3人、計21人で割ると

 66時間 ÷ 21人 = 3.14時間  となります。

 つまり、1人加配をもらうには全員が週3時間以上の少人数授業を行わなくてはならないことになります。そのため、低学年の担任はクラスの子が帰った午後、高学年の少人数授業に行き、高学年の担任は事務・研究時間(空き時間)に低学年の少人数授業に出かけることになります。これでは教員の過密労働はますます激しくなりたいへんなことになります。




全国からの疑問の声にあわてて訂正した文部科学省

  全国からの疑問の声が集中したため、文部科学省は「来年度も裁量時間を実施する学校はその時間を少人数指導等による増時間数に含めてもよい」という見解を示しました。それにより、さきほどの一人当たり約3時間の負担増のうち、来年度もクラブを実施すれば、1時間と数えてもよい。さらに朝の学習等(10分間)を行っていれば、帯でとっている裁量時間ということで、10分×5日間=1時間と数えてもよい。ということになり、実質の少人数授業は約1時間行えばよくなります。さらに県教委は、愛教労との交渉の場で、給食指導・清掃指導も日常帯で実施しているので、少人数指導等の時間と数えてもいいかという質問に対し「そうです」と認めました。このようなことを県教委は学校に連絡していません。

 県教委・各市町村教委が「裁量時間の弾力的扱いの内容」を

 周知徹底し、少人数授業実施で混乱のないように求めます!




 

 シリーズ「教科書問題」 NO.6 

1904〜5年の日露戦争・日本海海戦を、扶桑社の

 「新しい歴史教科書」は、どう描こうとしているか

日本海海戦の真実はーロシア艦隊の水兵の目から

 日本海海戦を、この「教科書」は「世界の海戦史に残る驚異的な勝利」とただ賛美します。しかし、当時この海戦にロシア水兵として参加していたノビコフ・プリボイは、後日その著書『バルチック艦隊の壊滅』(原題『対馬』)の中で、ロシア艦隊の敗北の原因を次のように記しています。

 「司令長官が誰にも信頼されず、士官の間に権威がない。わが艦隊の馬鹿げた配列(旧式艦と新式艦が同じ配列にいること=したがって、艦隊のスピードが日本艦隊の半分しか出ない)…、艦隊が運送船を連れている(艦隊が火につつまれる危険)。戦艦が石炭や兵備品を積み過ぎている(火災の原因)。そして、哨戒任務をせず、灯火をつけたまま航行した(つまり、日本艦隊を無視した)こと。…いろいろ愚かなことをやったが最後の愚策は朝鮮海峡通過だ。(司令長官は、5月14日に敵と遭遇して、戦闘は「皇帝陛下即位の日」に是非とも始めたかった。)」

 そしてプリボイは、さらにロシア水兵たちの「ペテルブルグの首脳部は、故意に俺たちを屠殺するために(東洋へ)追いやった」という悲鳴を載せています。

ロシア海軍敗北の原因は、ロシア社会の病根に根ざしていた

皇帝専制の封建的帝国主義、そのもとでの大帝国のおごり、クリミア戦争から何も学ばなかった支配層と民衆との軋轢、それは、このすぐ後に1905年の革命として勃発します。ロシア海軍「戦艦ポチョムキン号」の反乱は、軍隊が民衆の側につくという象徴的な事件となったのでした。つまり、「専制政治の病毒が深くくいこみ、封建制度で固まったロシアは戦場における試験に落第したのだ。…すでに崩壊に瀕し、すべての人に飽きられていた政府に勝ったにすぎない。」との言葉が示すような事態だったのです。

「自信の持てる歴史」とは,侵略戦争を「壮大な国民戦争」と見ること

 日露戦争について、この「教科書」には「世界史に残る」「国家の存亡をかけた」「壮大な国民戦争」と、誇大妄想にも似た言葉が踊り、平和や真実、それに基づく正しい友好などは全く度外視されます。ただ「戦争に勝利したこと」のみを賛美し、日本の「誇るべき歴史がここにある」と喧伝します。特に、日本海海戦は、「兵員の高い士気とたくみな戦術」によって「驚異的な勝利」を得たとする格好の材料になるのです。この「教科書」にとって、歴史的真実は「自虐史観」となり、虚構や虚偽から成っても威勢のいい話には「自信が持てる歴史がここにあり」と言わんばかりです。これは、もうすでに「教科書」の範疇を越えて「煽動書」と名づけた方が良いほどのものです。