勤務時間(拘束時間)をどう捉えるのか

8:30に始まれば、4:30には勤務終了に!

 最近、勤務時間に関する攻撃が強まってきました。そこで、勤務時間(拘束時間)に関する原則論をもう一度明らかにしておきたいと思います。

 下の図を見てください。現在、三河地域では、小中学校教職員の勤務時間の形態としては、いわゆるB案という形がとられています。

〈 B案 〉

 8:30       15分       15分        4:30 5:00 5:15

  

           休息        休憩         休憩 休息

  ←           拘束時間            →

〈休憩時間は「手持ち時間=労働時間」〉

 このB案は学校の勤務実態に合わせて考えられています。途中昼に15分の休憩がありますが、この昼の休憩は実質的にとることができません。休憩時間の原則として、「@途中付与(勤務時間の途中に与えること)・A一斉付与(全員一斉に与えること)・B自由利用(各自の自由に時間が使えること)」の3点がありますが、昼の15分の休憩時間は、当然ながら児童生徒が学校にいる時間であり、「個人の権利として、労働から離れることを保障されている時間」ではあり得ません。つまりそれは、「手持ち時間=労働時間」となっています。

〈最後の休憩・休息は勤務時間外〉

 昼の休憩時間を手持ち時間としてとらえると、始業時間から8

間経ったところ(上図の4:30のところ)で拘束時間は終わって

いるわけです。その後の休憩・休息は勤務時間外なのです。最後の

休息は表面上430からの休憩時間を「途中付与」するための操作

に過ぎません。特に休憩時間が労働時間となっていること、始業か

8時間経ったところで拘束時間は終わっているということ、これ

を原則的な考えとして勤務時間をとらえていきたいと思います。

 

  子どもと教職員の人権を守る三河教労

三河教職員労働組合(三河教労)

未来を拓く

編集・発行責任者 畦地 治

 

106号(2002年5月)

カンパ、機関紙購読料(年間3000円)は【郵便振込00800-4-79130三河教労】へ



「朝の会、帰りの会、掃除、給食の時間は、

 少人数指導にカウントできる」と県教委

現場は混乱、「少人数指導」に振り回されている 

2002年度新指導要領の本格実施が始まりました。4月冒頭の職員会では、どこも「少人数指導を学校でどう運用していくのか。」で、議論が沸騰しました。

・同じ学年で少人数の授業をやっているが、算数が、みんな違う先生で教えることになった。子どもが戸惑わないか心配。

・空き教室がなくて、一つの教室をたくさんの学年で使うことになった。そのせいで時間割が組めない。

・事務・研究時間(空き時間)が、結局少なくなった。

・少人数の加配がないのに、少人数指導を実施している。

・中学校では、選択教科が増えた。空き時間が減少する中で、自分の担当選択教科の教材研究ができない。       

柔軟な対応をしている学校もある

 しかし一方、同じ三河部で「少人数指導」をまともにやれば、学校は大変なことになることを危惧し、柔軟な対応をしている学校もあります。

<A小学校の場合>

・「少人数指導」を「きめ細かな指導」ととらえ直す。

・加配1名に必要な3664時間以上の「きめ細かな指導」の実施時間を以下のように確保

   @少人数指導担当                  840時間

   A校務・教務・教頭・専科 総合的な学習       430時間

   B担任 補充の時間(15分間 週2回実施) 全学年 513時間

   C担任 朝の会、帰りの会        全学年 2,567時間

   D担当 クラブ・委員会        4,5,6年 280時間

    合計                     4,630時間

 

<B小学校の場合>

・「現員教員の負担を増やすことはしない。」と校長が明言。

・クラブ・委員会活動、給食、清掃の時間を「少人数指導

 の時間」としてカウントする。

 

 このように、現実的な対応をすることで現場の混乱を回

避する学校も出ています。各市町村教育委員会は、現場の

混乱を回避する対策を早急に講じるよう求めるものです。



緊急ニュース

3/22の内示を撤回、3/29に新たな内示が!

上坂先生は、01年度の異動で、健康を害していたにもかかわらず、通勤距離がより遠くなる日進市への転勤を命じられました。それは、意向の打診もない突然の異動でした。すぐに人事委員会へ不服申し立てをしました。ところが02年1月18日に、訴えは不当にも却下されてしまいました。そこでその後は、校長、日進市教委、長久手町教委、尾張教育事務所など関係機関に『長時間の無理な通勤で健康はますます悪くなっている。早く、より近い長久手町へ転勤させよ』と、粘り強い要請行動を何回も何回も重ねてきました。

春休みに入った24日朝には、22日の内示「(希望する)長久手への転勤はない。現任校(日進市)のままである」に怒りも新たにして、県庁とその隣の尾張教育事務所前で、登庁する職員に訴えのビラをまき、尾張教育事務所に抗議・要請行動をしました。そして、3月29日の午後、突然、県教委から現任校校長に『長久手町の小学校への異動が決まった。』という連絡が入りました。上坂先生は「夢のようだ。通勤が楽になってうれしい。この1年間は本当につらかったが、これで何とかやっていけそうだわ。」と喜んでみえました。

3月29日という土壇場になっての大逆転は、前例のない勝利です。愛知地区教職員労働組合をはじめ、愛教労の多くの組合員とともに粘り強く運動した結果です。また、今年の異動では、幡豆の細井先生が、人事委員会で係争中にもかかわらず、希望にかなう異動が実現したばかりです。相次ぐ大きな勝利に、「人事は、闘ってこそ前進する」という原則の正しさをかみしめています。

豊田市でも、粘り強く運動して

三河教労は、今年度も、豊田市教委と12月26日に人事に関する話し合いをしました。そこで市教委は『人事3原則』の厳守を約束しましたが、実際に人事が進んでいくと、『三河教労の活動をしているから嫌がられて(希望する移動先に)行けないんじゃないか』といった差別人事や、『10年目だから異動してもらう』などと機械的な異動を押しつけたり、『そんな希望じゃぁ聞けんなぁ』という個々の教員の希望を尊重しない動きが見られました。

そこで、『三河教労組合員に対する差別人事』をやめること、『6年目・10年目という機械的な異動』を強要しないこと、『(数年前の)積み残しの人事要求の改善』を優先することなどを申し入れてきました。この結果、A先生は、数年前の意に反した人事異動が改善されました。B先生

は、『10年目だから異動を』という機械的な対応

を阻止することができました。

 今後とも、豊田市教委が約束した『人事3原則』をど

この学校でも、どの校長もきちんと実施するように活動

を強めていきたいと思います。




テキスト ボックス: 「正義の戦争」なんてありえない!


 シリーズ「教科書問題」 NO.7 

太平洋戦争は,大東亜戦争ではない!!

テキスト ボックス:  68 大東亜戦争(太平洋戦争)
 日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した(戦後,アメリカ側がこの名称を禁止したので太平洋戦争という用語が一般的になった)。日本の戦争目的は,自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し,そして,「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。日本に続いて,ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告した。こうして,日・独・伊に対抗して,米・英・蘭・ソ・中が連合して戦う,第二次世界大戦が本格化していった。
 扶桑社版「新しい歴史教科書」(P277)に,以下の記述があります。

 戦争目的は,「自存自衛」と「アジアを欧米の支配から解放」。それは,まぎれもなく、194112月8日に天皇が発した「・・・東亜の安定を確保し・・・帝国は今や自存自衛の為蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」という「宣戦の詔書」そのものです。

 つまり,「新しい歴史教科書」の執筆者たちは,小見出しに「大東亜戦争(太平洋戦争)」と明記し,当時の日本政府及び天皇と同じ認識の上に立って,太平洋戦争をありえるはずもない「正義の戦争」と位置づけているのです。

テキスト ボックス:  戦争の当初,日本軍が連合国軍を打ち破ったことは,長い間,欧米の植民地支配のもとにいたアジアの人々を勇気づけた。(P280)


 そして,同教科書はさらに,

とも書いています。

 当時,東南アジアは,フランスやイギリス,オランダなどの植民地支配が続いていました。戦争が始まってまもなく,日本は,インドシナやフィリピン,ジャワ(現在のインドネシア)などを占領しますが,それは,日本の新たな植民地支配そのものでした。シンガポールでは,1942年の2月から3月にかけて,日本軍は,

中国系成人男子を手始めに数万人にものぼる住民を大量

に虐殺しました。また,マレーシアやフィリピン,イン

ドネシア,ビルマなどでも無差別虐殺や過酷な強制労働

を課していました。それは,各地に現存する歴史資料が

証明しています。「アジアの人々を勇気づけた」などとは,

口が裂けても言えることではないのです。「自存自衛」と

「アジア解放」の名のもとに行った「大東亜戦争」。史実

は,それを認めていません。

※太平洋戦争のくだりを読んでいると、戦争を鼓舞する私小説を読んでいるような錯覚に陥りました。(左右田)