6回目 第44番大宝寺から第59番国分寺まで 1999/07/24〜1999/08/01 四国遍路八十八カ所へ 次へ 1999/08/13 作成 第1日目 1999/07/24
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今回は、よく道に迷った、雨と風の9日間でした。1日分予定が遅れ、第59番国分寺まででした。
いつもの新幹線で出発。冬は新幹線の遅れが気になったが、夏は遅れる気配は全然なし。予定通り13:30内子着。先回は、中村駅13:30着だった。両駅が乗り降りの最も遠い駅となるだろう。歩く前から、峠を1つ越した気分。 列車の中で食べようと、松山駅で弁当を買い乗り込んだが、普通列車のため何となく食べ損ない、内子の駅で昼食。 内子の町は、昔をしのばせる町並みが残っていて落ち着いた感じの町だった。そういえば、同じ列車でカメラを持った若者たちが一緒に降りた事を思い出した。 突合の旅館に電話するも、出てくれない。3時を過ぎ、やむを得ず小田の泊まりとする。距離が+6km。到着は6時過ぎだろう。早速の予定変更である。 暑い盛りで、歩いている人、我1人。舗装道路を黙々と歩く。 内子町乙成で、曽我五郎十郎首塚の看板に出会う。塚までは徒歩30分の表示。行くのは諦める。なぜ、ここに首塚があるか判らない、内子の役場に聞いてみよう。 [2000/02/04 内子町役場観光課に問い合わせ 郎等の鬼王丸が兄弟の首を持って、宇和島に行く途中、ここで首を埋めたと言い伝えられている。書いた物が残っているかの問い合わせには、明快な回答は無かった。] 桃の箱詰め作業、桃狩りの看板が目に付く。 箱詰め中の若奥さんに呼び止められ、歩きながら食べろと桃1つ。遠慮なくいただく、ありがとうございます。 がぶりと食いつく堅い。家での桃は熟れて水気があり柔らかい。食べる時、食べ頃となるように箱詰めしているんだなと思う。うまかった。ごちそうさま。 山本さんの千人宿大師堂を拝見。畳がひいてあり泊まれるようだ。 ようやく突合分岐点、電話した旅館は、戸を閉めてあった。お客が少なくて戸を閉めたのかな? 本日の+6kmを歩き始める。途中には、大師堂、石の仏さんが、たくさんある。古いのが多いのは、道路改修などで纏めて祭られたためらしい。 小田の町も、国道のバイパスが出来ていた。これを歩く。旧道(遍路地図の道)に入り損ね行き過ぎる。また、間違えた。戻るのが本当に面倒。 宿着は7時だった。泊まりは1人。風呂が焚け、食事が出来ていた。6時過ぎると電話しておいて良かった。 |
第2日目 1999/07/25
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昼食を頼むのは止め、水筒一杯のお茶はお願い。パンでも
買おう。6:30出発。人家の少ない舗装道路を歩く。舗装のない道を歩きたくなる。
小田町大平で急遽、ひわた峠に出ようと山越えと決める。三島神社の際に道案内あり。昔からの遍路道と思える山道に入る。やがて、車道に出る(後で地図を見ると旧の国道だった)。”右、新真弓トンネル。真っ直ぐ、旧トンネル。左、ひわた峠”の表示あり。汗びっしょりのため、裸になりシャツを道路に広げ、30分休憩。 左にとる。車道から遍路案内板に従い山道に入る。少し草が深くなり、登りもゆるい。30分歩いて、5万分の1地図と磁石で確認。どうも、左回りで元に戻りつつあるようだ。道に迷った。途中、右への分岐点も気づかなかった。 ひわた峠行きは諦め、道なりに行くことに決める。はるか下に、元の国道が見え始める。やがて国道に戻り、今朝登った登り口を恨めしく眺め、舗装道路を直進。新真弓トンネルを通り久万町落合へ向かう。3時間のロス。 2時、落合。昼食を食堂でたべる。カツ丼が450円だった。泊まりは大宝寺と決めて電話。今日は予約がなかったので、宿坊は休みとのこと。大宝寺の門前の久万町泊まりとする。 暑さで、休憩が多い。お茶をよく飲み、冷たい缶もよく飲んだ。地図上の距離21km、歩数換算距離は28kmだった。今日は、マメはまだ出来てない。雨もなし。 宿に着いて、ステテコ姿で洗濯。今日着ていた物すべて洗濯。有料乾燥機で乾燥。風呂に入って、浴衣に着替え食事。宿でのビール、実にうまい。飲めないのに、飲んでも酔わない。 母娘のお遍路さんと同宿。人を避けている様子のため話もせず、宿の人と世間話。明日は土砂降りとのこと。 夜は8時から朝3時までぐっすり眠った。便所へ行って、また、5時まで寝る。 |
第3日目 1999/07/26
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朝から雨。リュックと体に合羽を付けて傘をさして出発。四国霊場の半分目の第44番大宝寺へ向かう。遍路道に大きな遍路案内の石碑あり。今回、よく見かける。今日は、昔の遍路道の山の道を行くつもり。
ゆるい登り坂を行くと仁王門、大きな草鞋あり。本堂へ、早いためか誰もいない。今回、3日目にして初めてのお寺さん。賽銭、お札を納め、般若心経をあげ、大師堂へ。納経帳の記帳。 山道への登り口を聞く。学生さんは2時間で岩屋寺とのこと。2時間は早すぎと思った。 雨は土砂降りだったが、距離の短い旧遍路道の山道に決め、出発。山への登り口で地図を確認。岩屋寺まで距離9km、2,3百mの峠2つ、4時間、12時着と見積もる。 山道は草刈りされて歩き易い。1つ目の峠を越え、河合の集落。昔は15軒の遍路宿があり、荷物を置いて岩屋寺を打ちもどりしたとの説明書きあり。雨は、途切れなく降り続き靴がびしょ濡れ、5kmほど県道を行き、再び、山へ。 八丁坂、急な坂だ。遍路道は参道は通らずこの道を修行の場としたとのこと。古い石碑が沢山あった。また、頂上付近には茶屋跡の看板あり。岩屋寺行きの打戻のない槙の谷からの合流点でもある。草を刈った立派な三叉路だ。 |
雨は相変わらず激しい。汗と雨で、下から上までびしょ濡れでどうしようもない。だが、涼しくてよいし、休んでも寒くない。歩きには丁度よい。と考えれば雨も極めて良し、である。雨と風さん、ありがとう。
やがて下り坂となり、修行の場、せり割行場あり。 背丈3mくらいの不動明王が屋根付きの部屋に収まり、ほぼ垂直の岩、岩の割れ目に岩登りの鎖が見えた。また、苔むした古い石碑(墓石かな?)が群れていた。 |
なお、下ると山門があり、奥に本堂、大師堂、宿坊などが、岩に張り付いて建っている。今回、2つ目のお寺さん、45番岩屋寺。数人のお遍路さんがいた。賽銭、納札、般若心経をあげ、納経帳をお願いする。
お茶を飲み喉を潤して時計を見ると、1時だ。随分、疲れた。雨もあるが体力が大分落ちているんだな、と改めて思う。 普通は岩屋寺の階段を昇るといわれる長い266段の階段を下る。降りたところに店あり。川向こうの店には、パンなどありそうだ。 とりあえず、今夜の宿を予約。久万町の昨夜と異なる宿にする。 バス停に同年輩のお遍路さんがいる。冷たい缶を買い飲みながら、話しかける。 バス、鉄道を使って、逆打ち中。松山に戻るバスを待っている。バスの本数が少ないので大部待たなければならない、とのこと。 話に夢中になり、パンを忘れて、歩き出す。川に沿った、遍路道を行く。登りである。やがて、県道に取り付き、舗装道の歩きとなる。 国民宿舎古岩屋荘で遅い昼食。3時。また、歩き始める。峠を越え下り始める。下りの方が大変。ただただ、歩くのみ。しかし、時間を持て余す事はない、おかしいことだ。雨は激しい降り。足が痛む。マメだ。スピードが落ちた。 大宝寺の裏のトンネルを抜け、久万の町が見え始めた。また、近道の山の遍路道を見損ない車道を下る。舗装の急な下り道はえらい。 今日はよく歩いた感じ。距離は23km、歩数換算28km程度。洗濯、風呂、マメの治療をする。 夕食の時、宿の親父さんと100回目のお遍路さんの話をする。金色のお札を見せてもらった。70歳代の人。お金も何千万円使ったとのこと。 今日も、道ですれ違い、追い越しの遍路さん無し。泊まりも遍路は私1人。早く寝る。 |
第4日目 1999/07/27
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朝食、6時半。雨は激しい。風も出てきた。国道33号線の三坂峠越えだ。7時半、出発。峠まで、7km。舗装道を進む。
峠の手前で、右の山に入る遍路札あり。昨夜見た地図にもあった事を思い出す。右の山に入る。 30分登るが、遍路案内もなくなり道が泥んこ道となり、どうもおかしい。雨の中で地図を広げてみると、登り始めてすぐに33号線に出るのが遍路道だ。磁石で確認するも、方向も間違っている。また、間違えた。 実は、登り始めに、地図の確認をしていなかった。雨が強いため地図を広げるのが面倒だった。 間違い箇所を調べながら戻る。登り口の近くで分岐点発見。完全な見落とし。1時間のロス。このようなミスは、本当に悲しくなる。 よく、30分歩いて、と表現するが、遍路始めに、”30分遍路案内の札、マークがなかったら、道を間違えたと思え”と遍路案内にあった。どういう訳か頭にこびり付いているのでよく使う。 峠に近づくと風が強くなった。傘の骨が折れ、何度も裏返しになる。峠に到着。ドライブインなどあるが、びしょ濡れで、入る気にならず。11時。 遍路道は国道から山道に入る。雨がひどいので国道をとも考えたが、遍路道を行ってみる。危険のようなら引き返すつもりで、山道にはいると、風が当たらず、雨も小降りとなる。道も荒れていない。土地の人達が手入れしてくれているためだ。本当にありがたい。感謝します。 歩ききったら、草刈りの奉仕に出よう。 5kmほどの下りは大変だった。急でも山道はよいが、舗装道路になると、膝ががくがくして、マメが痛む。ゆっくり下るしかない。 |
網掛け石大師堂で、休憩。堂が新しく周りも草刈りされ、きれいになっていた。編み目の付いた大きい岩があった。写真が撮れる位の小降りとなる。大師堂の写真を撮る。
昨夜の洗濯物が十分乾いていなかったこともあり、今日は、浄瑠璃寺で泊まろう。少しさぼる気になったら、足が速くなった。 1時、浄瑠璃寺着。宿に飛び込む。宿泊OK。部屋にも上げてくれる由。 |
リュックを預け、第46番浄瑠璃寺をお参り。お経を上げ、納経帳記帳。濡れた姿を見てと思われるが、”ごくろうさまです。がんばってください”と一言言われる。”ありがとうございます”と返す。
宿に戻り、昨夜分の乾燥、今日の分の洗濯、乾燥を行う。5時に終わる。早く部屋へ入れてもらってありがたかった。ところで、今日は昼飯なしだった。 大きな風呂に、背を伸ばし、ゆっくりつかり、気持ちよかった。マメもあまり酷くならずにいる。先ほどまでの疲れもどこかに飛んでしまったようだ。 ビールがうまかった。天国、極楽は、きっと、このような気持ちになるところだろうと思う。今日はお遍路さんが10人くらい同宿のようだ。私が早いので、1組のお遍路さんしか会わなかった。 部屋に戻り、テレビを見ながら、7時には寝てしまった。目が覚めた。12時だった。また、眠った。 |
第5日目 1999/07/28
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6時食事。小雨。マメが少し痛む。ゆっくり歩くことにする。
第47番八坂寺をお参り。7時。もう、お遍路さんがいた。お経を上げ、納経帳の記帳を済ます。これから松山の平地に入る。 田圃の遍路道を行く。文殊院お参り。札始め大師堂、通夜堂お参り。 |
第48番西林寺お参り。杖を持ち上げて太鼓橋を渡る。仁王門を通り、本堂、大師堂へ。賽銭、納札、お経を上げ、納経帳記帳。 |
第49番浄土寺は空也上人ゆかりのお寺さんとのこと。「霜月の空也は骨に生きにける 正岡子規」の碑が建っていた。本堂、大師堂をお参り、納経帳に記帳。
相変わらず、小雨。また、さぼり心が芽生える。道後温泉は通過の予定であったが、雨を理由に道後泊まりとしよう。昨日、今日とも15km程度。11時。浄土寺の境内で、郵便貯金会館に携帯電話で電話する。OKだ。 ところで、携帯電話は、遍路のため購入したが、宿の予約、家への定期連絡、もしもの時の連絡(今のところ無し)と、まことに便利に使っている。遍路道は山道が多いので、通話不通区間も多いが、連絡手段を持っている安心感が、非常に心強い。電池の容量から、通常は、電源OFFにしている。 |
大分、家が建て込んできた。町の中を行くと、第50番繁多寺。お参りして、納経帳に記帳。
遍路道は住宅地の中。石手寺の手前で、昼食。ラーメンを食う。 |
第51番石手寺。以前一度来たことがあるので、覚えがある。ただ、本堂までお参りしたかどうか怪しい。今回は、正式にお参りする。
屋根のある参道。両側の店を覗きながら仁王門を通り本堂へ。般若心経を唱え、大師堂へ。左回りで一回りする。立派な三重塔。みんな重要文化財だそうだ。 納経帳の記帳を済まし、ちょっと気になった本堂の隣の大仙窟へ。 お布施をして入るよう看板あり。薄暗い洞窟のため、うろうろしていると、やはり同じようにうろうろしている中年の女性がおり、何となく声を掛けることとなった。お金を入れてはいれと言う事ですね。どっちへ行くんでしょうね。そっちへ行ってみましょう。と一回りして表へ出た。大師堂の横だった。 お遍路ですか。歩きですか。1番から歩いてきたのですか。道後の泊まりですか。明日までいます。同僚と一緒に学会に来ています。といろいろ立ち話する。まだ、1時ですね。これから、どこへ行きますか。松山城へと思っています。 私は、リュックを預けたいので、宿に寄りたい。宿もどこにあるか判らないので、先に行っててください。うまくいけば、また会えますからと別れた。 マメで足を引きずった姿での歩きの話に迫力があったのかな、と思いながら、郵便貯金会館へ。看板もあり、すぐ見つかる。チェックインは3時からですのでお待ちください、とのこと。 白衣を脱いで荷と杖を預け、普通の旅人の姿に戻り、観光案内の地図を貰い、道後温泉駅から電車に乗る。大街道で降りて、ケーブル乗り場へ。大分時間が経ってしまった。会えないかもしれない。 お城に入り、天守閣に登る。2階まで上がった時、展示品を見ている人がいた。声を掛ける。一瞬、驚く。よく会えましたね。降りるところですか。出口で待っていてください。一通り見てきますから。 よく会えたと思いながら、急ぎ一回りして降りる。 よく会えましたね。ほんとにまあ。お城まで何で。タクシーで。後どこへ行きますか。子規堂へ行きたい。行きましょう。 名乗りがまだだったので、お札を渡す。ケーブルに乗るまでに名乗り完了。 電車で、松山市駅へ。どこか判らないので、高校生に場所を聞く。駅の東南にあった。 |
子規堂、小さな家、縁側の子規の写真をよく見る、その家。入場料50円。それぞれ支払う。書き物、写真、物が展示。子規のことに詳しい。俳句をやるようだ。学校は文系。高校の先生かな。いろいろ説明してもらった。
子規堂を一回りして、時計を見れば、5時前。帰る時間だ。 また、電車で道後へ。遍路のこと、家庭のこと、職場のこと、趣味のこと、いろいろ話す。 例の風呂屋の場所を知らない。知っています。案内します。お願いします。 今日は半日、楽しく過ごせました。お世話になりました。ありがとうございました。これでお別れですが、どうかお元気で。成就されますように祈っています。さようなら。 道後温泉の風呂屋の前でのさっぱりしたお別れでした。 最低料金300円の風呂にはいる。割合に空いていて、ゆっくり温泉につかる。歩いて郵便貯金会館へ。 洗濯、乾燥をして、風呂(温泉でした)に入り、マメの治療をして、食堂へ。 雨と風で予定が狂い、予期しない出会いがあった。雨と風さん、ありがとう。 |
第6日目 1999/07/29
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雨。朝食なし、6時出発。公共の宿は朝食7時からが多い。
第52番太山寺は、松山の町中を10km。道後温泉商店街、学校街を通り、安城寺廻りの道をとる。途中、モーニングサービスで朝食。 太山寺近くで、また、道を間違える。第53番円明寺へ0.6kmの標識に出会う。 第1の門にたどり着く。やれやれだ。小雨。第2,3の門を通り、古木の茂った参道を経て本堂まで、登りで、歩きでがあった。 階段の上の山門、大きな本堂、ともに立派だった。賽銭、お札納め、読経し、納経帳に記帳。 |
和気の第53番円明寺まで2.3km。お参りする。境内にキリシタン灯籠あり。合掌するマリヤ観音が刻んであるようですが、風化していてよく見えなかった。
喫茶店で、昼食。混みだしたのでコーヒー無しとした。次の54番までは35km、途中の北条に宿予約する。 瀬戸内海の海を久しぶりに眺める。太平洋の海と全然違う。海が静かでおっとりしている。30分以上、眺めながら歩く。マメが痛い。ゆっくり歩く。 |
北条西の下大師堂に高浜虚子の碑あり。昔ここに遍路松があり、その下で、傍らにある阿波の女遍路の墓の哀れを詠ったとのこと。名前のはっきり読める碑は初めてだ。文政11年と読める。1830年頃だ。
北条の町に入ると、早坂暁さん「花へんろ」の看板があった。出身地とのこと。 今日も、歩き遍路には会えなかった。宿も我1人。乾燥機がなかったのでズボンは止めた。残りすべて洗濯。 |
第7日目 1999/07/30
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町の中の第55番南光坊をお参り。坊というお寺さんは初めて。隣に大きな大山祇神社があった。 今日は、地図上で28km、歩数換算で36km。マメで少し歩幅が小さくなったかな。ほとんど雨なし。 宿で、早速洗濯。やはり我1人。宿のおかみが、昨日は2人だったと言っていた。 |
第8日目 1999/07/31
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6時半出発。また、遍路道を外れる。遍路道は鎌大師を経ての山の中であるのに、海岸沿いの舗装道路を歩いている。今回は、岬を廻るまで、気づかなかった。その代わり霧の海をたっぷりと眺めた。
距離は+2,3km、遍路道より高低差は小。時間は同じようなもんだな、と自分を慰める。 遍照院をお参り。太陽石油精油所を通過。太陽石油のスタンドをよく見た理由が判明。曇り空で時々、太陽が顔を出す。暑い。 喫茶店で氷。缶を2個飲み、水筒は後少し。よく水を取る。体の要求通り補給する。食堂で昼食して、また、歩き出す。海岸近くの国道だが、山が迫り高低差のある箇所が多い。 マメも痛む。舗装道路を黙々と歩く。28kmほどの長丁場となるが、泊まりは今治とする。予約OK。 第54番延命寺の入り口で、お母さんに声を掛けられる。歩きですか。暑いから大変ですね。ご苦労さん。北条からですか。今治泊まりですね。何か、久しぶりの歩き遍路に会ったような雰囲気だった。 小さい山門を通り本堂へ。大師堂もお参り。納経帳に記帳。記帳のおばあさんが、何も言わないのに、55番への歩き道を丁寧に教えてくれる。 登り道。道沿いに石碑、遍路案内など整理されている。ほとんど幅3,4mの舗装道路、拡幅されたんだなと思う。やがて、広い市営墓地をどんどん下る。 向こうから墓参りのお母さんが登ってくる。こんにちはと声を掛けると、接待ですと封筒をいただく。ありがとうございますと深々と頭をさげる。 お金のようだ。覗いてみると1円玉が100枚ほど入っている。手提げに、いつも2,3個の封筒を持って歩いているようだ。 |
7時出発。おかみが道順を書いてくれる。町中の舗装道路を行く。
50分ほどで、第56番泰山寺。お経を上げ、賽銭、納札。納経帳に記帳。再び田圃の舗装道路。 やはり50分ほどで第57番栄福寺。少し登る。般若心経を上げ、納経を済ます。ここでも歩き道を親切に教えてくれる。田圃と山の遍路道である。 |
大塚池の際を通り、登り道。車道に出ると、また舗装道路。暑さもあり、すっかり疲れてしまう。第58番仙遊寺仁王門の屋根を見ながら、小休止。裸になり、シャツを道路に並べ、木陰で休む。涼しくて実にいい気分。シャツが乾くほど休んでしまった。
自転車のお遍路さんが追い越す。大分疲れているように見えた。裸を見て、歩きですか大変ですな、などと話する。 仁王門の横を登る。急な坂道だ。お大師さんの井戸あり。少し濁っていたので、飲むのは止めた。300mほど登ると本堂の前に出た。 本堂、大師堂をお参り。納経帳に記帳。次のお寺への道を教えてもらう。裸で休んだ所を右に降りる道だ。 |
暑さで参ったので、汗が乾くまで休む。12時だ。午前中、半分休んだ勘定になる。
59番を目指し、山を下り、畑、田圃の舗装道路を下る。お菓子屋さんがある。かき氷の旗が立っている。食事前だが、飛び込み、氷を注文。 2,3人のお客さんがおり、いろいろ質問される。暑いのに、たいへんですね。頑張ってください、と励まされる。 氷を食べ、汗が引いて、さあ出発。その時、お客のお婆さんが、接待です、と千円札を押しつけてくる。あまりに高額のため、もたもたしていると、持って行けと手に握らせる。ありがたくいただくこととする。 お婆さんの分も、一緒に拝んできます。と言って、店を出た。お札を渡せば良かったと後で後悔した。 2時、国道に出て、パンを買う。日陰で食べながら宿の予約電話をする。ところが皆満員で断られる。よく考えてみると、今日は土曜日。電話先は温泉地や国民休暇村だ。断られるまで気が付かなかった。これも大失敗。 町中の宿なら良いだろうと思い、壬生川の宿に電話。OKだ。やれやれだ。先回、5月2日は、どこも泊めてくれる宿がなかった。 国道を歩き始める。マメが少し痛む。しばらく歩くと痛みを感じなくなる。いつものマメの痛みかただ。今回は、以前より軽くすみそうだ。 幼い5,6歳の男の子が国道を横断しようと手を挙げているのが、遠くから見えた。飛び出したら危ないと急ぎ足でこの子の所へ来ても、車は止まる気配がない。向かいの店に行きたいとのこと。 手をしっかり繋いで、一緒に渡ろうと約束して(小さい子の手をつなぐ事、何十年ぶり?でした)車の途切れを待ち、ようやく渡る。 地元のみなさんにお返しが、1つ出来た。 お寺の入り口の店で、接待ですと声を掛けられる。小さいタオルを差し出している。汗を拭けと言うことと思いお礼を言いながら汗を拭き(乾いたタオル、?と思う)返す。接待だから持って行けとのこと。タオルは今治の特産との説明あり。よく見るとタオルを売る店でした。 |
第59番国分寺。お経を上げ、納経帳を済ませた。郵便局は土曜日、5時までお金が出せる。間に合うよう、壬生川の郵便局まで行こう。伊予桜井駅まで歩き、汽車で壬生川駅へ。
郵便局でお金を下ろし、帰りの準備完了。 宿に着く。洗濯をする。乾燥機はなかったが風があり、1時間ほど干せそうだ。 今日を含め、毎日ビールを飲んだ。歩いた分のエネルギーはビールで補充。飲まなければ、体重が減るだろうにと思いながら、うまいビールを飲んだ。 宿の女将から、宿を予約して、来ない遍路がいると聞く。このような苦情は2度目だ。 江戸屋猫八さんが、毎年泊まってくれている。今年は、お客が一杯で断ったので、きつく怒られた。来年は来てくれるかなーと心配していた。 |
第9日目 1999/08/01
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6時半の汽車で、伊予桜井駅へ。国道を歩き始める。登りだ。峠で世田薬師を横に見て下り、伊予三芳駅へ。8kmほど歩いた。
丹生川へ戻る。 11時の特急に乗る。次回は、伊予三芳駅から、歩き始め、1泊して横峰寺へ。9月に行けるかな。 今回、お寺さんは16寺廻ることが出来た。杖が、9日歩くと、5cmほど減った。
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