7回目 第60番横峰寺から第75番善通寺まで 1999/10/09〜1999/10/17 西行・一休など 四国遍路八十八カ所へ 次へ 1999/11/06 作成 第1日目 1999/10/09
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いつもの新幹線に乗ったが、トンネル事故で大阪以遠不通とのこと。名古屋は定時発車。新大阪で下ろされたが、運転の見込みは不明。この先不通であることのみ明確。
沢山いる駅員は他のお客に捕まっていて、話が出来ない。アナウンスも不通、開通の見込み無しのみ。30分待つも、何も判らず。遅れがなければ、そろそろ岡山だ。 名古屋へ戻る気になり、ひかりに乗車。当然、席あり。発車後、トンネル事故は九州で発生とアナウンス。京都で満員。京都出発直後、岡山まで運転のアナウンスあり。名古屋に着くと広島まで行けるとのこと。さあ、どうしよう。 発車後、アナウンスがあるのは、駅で発表情報を書いた物で受け取るのかな、と思う。 夕方までに、壬生川に着けそうだので、もう一度、岡山へ行くことにする。下りのひかりに乗る。京都まで立ちんぼう。 四国への特急は正常に動いていた。昼間の特急は初めてだ。多度津まで立ちんぼう。席に座る時、万歩計が無いことに気付く。混んだとき落としたらしい。今回は、歩き距離が大まかに成りそうだ。 壬生川で特急下車。今夜の宿の予約する。普通電車を20分待ち、先回の乗車駅伊予三芳駅着、4時。 宿まで2時間ほど歩きあり。早速歩き始める。 今日は、危機管理と正確な判断が如何に不的確であったか、思い知らされた。また、自分一人の能力は、ほんの僅かなものと改めて確認。 日頃のサラリーマン生活では、情報が集まってくるように出来ているのに、自分1人で正確な情報を得ることの難しさ、求めても、求められないこと、思い知らされた。 トンネル事故は場所が限定されるのだから、じっくり座って、事故の場所を新大阪駅で確認すべきであった。もっとも、聞いても返事があったとは思えないが。 しかし、今回の遍路計画に大きな変更は無しである。ましてや、2年で結願の計画は、全然変更無しである。 このように大まかに考えられるのも、遍路に出たおかげだ、と思う。 判断は悪かったが、案外、さめた目で、冷静に行動しているようにも思える。歩きの効用かな?。 宿着は6時だった。泊まりは2人。初日からお遍路さんと同宿、10月、秋だ。 大阪の人、同年輩、休日のみ歩いている。フェリーで今治へ今朝着、35kmよく歩いた。トンネル事故で新幹線が遅れた、など話した。 |
第2日目 1999/10/10
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標高700mの横峰寺を目指し7時出発。同宿のお遍路さんは先に出発済み。湯浪の集落を目指し、車はほとんど通らない舗装された山道を行く。
舗装道路から山に入る所にある休憩所で一服していると車が上がってきた。この先は舗装道路は行き止まり。 お寺へは歩いてしか行けませんね、と聞かれる。1度里へ下りて車道で登ったらと進言。それでも、歩いて登る準備をしている。2時間はかかりますよ、と言うも返事無し。 私は歩き出す。ゆっくり登るが、付いてこない。30分経っても、追いついてこないので自分のペースで歩き出す。道は草刈り済み、整備されていて歩きやすい。 2時間で、仁王門に到着、60番横峰寺。割に楽に歩くことが出来た。 本堂で賽銭をあげ、お札を納め、般若心経を唱える。大師堂をお参りして納経帳に記帳して貰う。 これから香園寺へ下り。道を聞いて歩き始める。登ってくる女性2人組と挨拶を交わす。香園寺に泊まり、荷物を預けてきた由。香園寺の道を上がる人が多いようだ。 ところで、香園寺が泊まれること知らなかった。すでに小松の町に宿泊予約していた。今回も、どこかでお寺さんに泊まろうと思う。 しばらく下ると、なだらかな尾根道が続く。数km続いたように思う。途中、お遍路さん2人、10人位の登山グループに逢う。 途中、香園寺の奥の院をお参り。滝あり。滝の近くに2,3体の仏さんがあった。女の人が大きな声でお経をあげていた。 61番香園寺着。鉄筋コンクリート造りのお寺さん。お遍路さんが沢山お参りしている。子安大師さんがもてるようだ。お堂の中に入り、靴を脱ぎ、お経をあげる。すらすらと唱えられる。今回の区切り打ちは調子が良さそうだ。 少し歩くと、62番宝寿寺。国道沿いのお寺さん。記帳を済まして、旅館へ。 |
第3日目 1999/10/11
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天気良し。国道を歩き始める。63番吉祥寺着。国道の北側に張り付くように在り、62番宝寿寺とよく似たお寺さんだ。本堂、大師堂をお参り。記帳。
芝之井大師をお参り、きれいな水が湧き出ていた。地元の人が掃除などしてきれいに手入れされていた。 同じような処を思い出した。もう、大分前であるが、横浜の桜木町の駅から少し登った御所山の新興住宅内に、曽我兄弟の話に出てくる、”御所五郎丸”の墓があり、地元の新興住宅地の人々がきれいに掃除して水がまかれ整備されていた。その時、びっくりしたことを思い出した。 国道を離れ旧道を歩く。野々市の古戦場を見る。秀吉が信長の後を受けて、全国統一の勢いの中で、統一を果たしていく。言うことを聞かない者は攻め殺した、その跡が古戦場。今は殺されないが、サラリーマンも同じだ。私もその世の中を60年生きてきたんだ、などと思いながら歩く。 石鎚神社をお参り。本殿からは西条の町が見渡せた。降りる途中で、横峰寺で逢った女性2人連れと再会。京都と宝塚の人、今日は新居浜から電車に乗り、帰る由。私は17日まで歩きます。鳥居で別行動となる。 64番前神寺。以前は石鎚神社と一緒だったが別れて今の土地に移った、と看板あり。本堂、大師堂、護摩堂、権現堂があり、すべてお参り。 次のお寺までは45km、今日は、新居浜泊まりとする。時間が少しあり。湯ノ谷温泉に寄り道。アルカリ性の鉱泉にゆっくりつかり、昼食をとる。 西条の日明と言うところで、土居構跡(どいかまえあと)をみる。戦国時代より前のお城跡とのこと。小高い丘状の所に石積みして今は普通の家が建っていた。 西原、西大道六地蔵に地蔵、弘法大師の祠があった。 新居浜に入ると旧道を行く。足の悪いおじさんに呼び止められる。8回ほど遍路したが、交通事故で歩けなくなった、一緒にお参りしてくれと、お布施を貰う。ありがたくいただく。 民家の庭(どの家も広い庭があってうらやましく思う)に金木犀が必ずある。何か意味があるのかなと思う。よい匂いが漂い、足も進む。宿に後少しと言うとき、土砂降りとなる。カッパを着る。 マメは大丈夫だ、歩きが上手になったかな?。新居浜に泊まる。 |
第4日目 1999/10/12
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今日は1日歩きの日。今回はゆっくり行程にしたので、マメはまだだ。庭の金木犀が匂う。我が家の小さい庭にも、好きで植えてある。匂っているだろうな。
選定している人がいたので、なぜ金木犀を植えるのか聞いてみた。植木屋に聞くと庭に植える木の中に入っているので植える、とのこと。歩きながら、他の3,4人に聞いてみたが、納得できる返事はなかった。 番外霊場延命寺にお参り。記帳するかね、と声を掛けられる。記帳をお願いする。 弘法大師お手植えのいざり松と言われた大きい松が境内にあったとのこと。 今日の道は、ほとんどが、旧道で、のんびりと歩く。金木犀が匂ってくる。 自転車の若い人に声を掛けられる。質問責め、最後に、お布施をと言ってポケットを探すが、出てこない。すまなそうな顔をしていたが、好意をありがたくいただく。さわやかで気持ちがいい。 伊予三島泊まり。石鹸を分けて貰い洗濯する。今回は、毎日洗濯する。余裕ある行程のため? 宿の女将から、明日の宿を予約して置いた方がよいとアドバイス。雲辺寺登り口の宿だ。okを取る。 1人のお遍路さんと同宿。ほかに工事の人達が沢山泊まっていた。 |
第5日目 1999/10/13
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朝食時、同宿のお遍路さんとあいさつをかわす。7時出発。
戸川公園で、一石一字塔など見る。1人、お遍路さんが、追い越して行く。今夜の宿はどこかと聞かれる。雲辺寺の麓と答える。1軒のため、早く予約する方がよいとアドバイス。 ところで広辞苑で”一石一字”は引けないが、”一字一石経”が引ける。まあ、どちらでもいいかと思う。 |
”菩提の道場”の最後の札所、標高330mの65番三角寺到着。本堂、大師堂お参り。本堂で記帳。
お坊さんが、三角寺の名前の由来を説明していた。昔は、身の回りの、石や、枯れ木など集めて護摩壇など作ったのだ。この寺でも、大師さんは、本堂もない時代なので、石を並べて、修行した。その時の護摩壇の形が3角だったので、この名がついた、とのこと。 お寺に3角形の池が在り、お大師さんの護摩壇の跡とのこと。 同宿のお遍路さん、公園で追い越しのお遍路さんに会う。2人とも、先に降りた。私より大分足が速い。 少し遅れてお寺を出かが、どの道か迷う。戻って、店屋さんに聞こうとしたとき、同宿のお遍路さんに会う。私は2回目だ。この道で良い、と言われる。付いて行くことにした。 同年輩の徳島の人。区切り打ち中。 遍路地図にない道を行く。2回目を信じて、黙って付いて行く。国道に出た。勾配はゆるいが、距離は長い。地図の道より時間を食っていると思われた。 ゆるい登り道で、大分距離が離れてしまう。追いつく努力は一切しない。 |
やがて、椿堂の入り口。先に出発した追い越しのお遍路さんに出会う。2回目のお遍路さんの国道廻りは、そんなに遠回りでないと納得、安心する。徳島のお遍路さんありがとう。
番外札所椿堂(常福寺)をお参り。 再び、国道を歩く。境目トンネルを越えと、雨。カッパを着る。 うどん屋さんあり。2時の昼食を取ろう。先のお遍路さん2人が食べている最中。やあやあとあいさつ。私もうどん注文。白装束のお遍路さんが一緒。我々以外客無しでもあり、雨宿りを兼ねて、みんなでおしゃべり。 皆、同じ宿。宿へは後30分。白装束さんは、北海道の人、通し打ち、30代かな。追い越しの人、名古屋の人で区切り打ち、同年輩。 雨が小降りとなったので、4人で出発。今夜の宿は徳島県。雲辺寺も徳島県。涅槃の道場の最初のお寺さんに明日登る。 予約済みで、お遍路達の出発点が判っているため、風呂出来上がり、風呂に入れとのこと。宿に入った順に風呂を使う。洗濯をする。うまい具合に切れ目無く洗濯が出来る。みんなで上手に調整しているんだな、と思う。 夕食までに3人追加。みんな予約とのこと。みんな個室。 7人呼び集められ、夕食。追加の白衣の人、通し打ち、26歳栃木の人。追加の若い娘、20代はじめ、鉄道、バスも使う区切り打ち、名古屋の人。追加の若い男、20代はじめ、区切り打ち、名古屋の人、娘さんとはお友達。 おかみがよく話す人で、盛り上がっていた。その中で、今日は、気の毒だったけど1人、満室のため、断った。と言いだした。同室でも良いから、泊めてやればよかったのに。そうだ。そうだ。みなさんの着く前で、確認できなかったのでやむ終えない。など言い合った。 私も、2,3回同室があっただけでした(泊まれなかったことも1回あり、一般の方が家へ来いと言ってくれた)。そういう時代かな、と思った。 8時寝る。明日は、握り飯を接待するとのこと。 |
第6日目 1999/10/14
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白衣の若い人2人、朝食無しで、5時頃出発して行った。次は、名古屋の人、若い2人連れ。私は、食べて7時出発。最後は徳島の人。とにかく、出発は、各自ばらばら、歩きもマイペース。
高低差700mの登り。ゆっくりばてないで行こう。登り口まで1km、雨の中を足慣らし。作りかけの高速道路を越えて、山に入る。急な山道、何カ所もある倒木、しかし、草は刈ってくれてあった。本当にありがたい。30分で、徳島の人に追い抜かれる。1時間ほどで、先の若い2人組に追い付く。 急な山道は2時間ほどで、舗装道路に出る。ゆるい坂で、1時間、計3時間で登れた。遍路地図の所要時間以内は初めてだ。 霧で何も見えない。 66番雲辺寺。10時。同年輩の2人と会う。若い2人連れはどうしたと聞かれた。私が最後になると思っていたのだろう。 私は、若い人達が着くまで待って顔を見てから、降りる。で、2人は出発。 本堂、大師堂お参り。納経帳記帳。お坊さんが、今朝早く2人組がいたが、同宿だったかと聞く。お茶を頂く。 汗が引いた頃、若い2人連れ到着。おじさん達が心配していた、私が顔を見てから出発と約束したことを話す。感謝していた。 北方向へ降りる遍路道を確認して、出発。雨止む。約10kmの道のり。足下をしっかり確認して下ることもあるが、時間の持て余しは無い。歩くことに全精力を費やすためかな、不思議に思う。 1時間30分ほどで、舗装道路に出た。溜め池のほとりで昼飯。ゆっくり休む。すっかり雨上がる。 2時。67番大興寺着。ぐるりと廻り北側からお寺に入る。ぐるりと廻るのが大変だった。疲れたかな、と思う。本堂前で、徳島の人に会う。若い人の顔見て降りてきたと報告。 今日、帰る由。次は11月。私も11月予定です。また会うかも知れません。その時はよろしく、で別れる。名前は、聞かずじまい。 宿の予約は次から次ぎと断られる。最後に残った観音寺の宿に電話。予約ok。夕食1000円とのこと。電話は、携帯電話を使う。便利になった。最も、雲辺寺では不通だった。 あと2時間歩き。道に迷うが、地図と磁石と平地で見渡せるので、しばらくして遍路マークに出会うようになる。朝の予定より多い分、歩きが大変だ。少し、足が痛い。マメだ。 4時30分、宿着。リュックを置いて観音寺をお参り。
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68番神恵院、69番観音寺は同じ境内にある。神恵院が上。お参りする。お経もあげた。降りて観音寺の本堂、大師堂にお参り。大きな楠があった。
納経帳に2つ分記帳。 宿に戻る。1000円の夕食について聞く。お遍路さんはそれをお勧めとのこと。若い娘さん(と思われるが)がすべて応対し、部屋の案内、食事の手配、配膳など一生懸命やっている。応対もいい。少し高い宿賃だが満足。 洗濯をして風呂に入って食事。忙しい夕方だ。1000円の食事は、量は少なかったが、ビールを1本飲み、満腹感があり、追加はしなかった。 夜は、8時に寝る。 |
第7日目 1999/10/15
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朝、5時目覚め。たっぷりと寝た。7時30分出発。財田川の右岸を本山寺へ向かう。30分ほど経った頃、観音寺に向かう名古屋の若い彼女に会う。疲れたので、彼氏と別れて本山寺に泊まったとのこと。
70番本山寺。本堂、大師堂を賽銭、お札納め、読経し、記帳を済ます。五重塔あり。こぢんまりしたお寺さんだ。 TVが撮影していた。TVが五重塔を撮っていた箇所に行って、カメラを構えてみると大師像が入って五重塔がうまく収まっている。やはり、プロだ、感心する。 出発しようとした時、名古屋の若い彼氏と会う。彼女と会った、と言うと自分は観音寺泊まりとのこと。仲違いしたかなと思う。これ以上の介入は止め。 国道を行く。弥谷寺入り口で、昼食。うどんを注文。大盛り400円実に安い、しかもうまい。 八丁目大師堂をお参り。71番弥谷寺に向かう。坂道で大変。仁王門着。1番高い所にある本堂まで、また、歩き。長い階段を昇る。 本堂をお参り。下りの途中、岩盤の壁に磨崖仏が沢山彫り込められていた。 大師堂は靴を脱ぎ、お参り。納経帳記帳をして貰い靴を履く。 俳句茶屋で、氷ありの旗が立っていた。聞くと出来ると言う。氷を貰う。店の中には、俳句を書いた短冊が沢山吊してあった。 |
山道を曼茶羅寺に向かう。曼茶羅寺の裏山に西行庵があると聞いているので、注意して歩く。看板があった。火上山の中腹に在った。急な登り500m位、大変だった。庵は最近立て替えたようだ。石碑が数個あった。我拝師山と筆の山を見て、曼
茶羅寺に向かう。
72番曼茶羅寺。高台に在るのに仁王門の前は田圃。お参りする。境内に立派な松あり。不老松とあった。 500mほど登ると、73番出釈迦寺。お参りし、記帳する。 門を出た所で、名古屋の同年輩に会う。随分先かと思ったが、調子を壊して、遅れ、今日はここで泊まるとのこと。13日は一番元気が良かったのにと思う。 刈り取りの済んだ田圃道を甲山寺へ向かう。今日、ちょくちょく会った髭のお兄さんが追い越していく。4時過ぎなのに、もう、少し薄暗くなってきた。 74番甲山寺着。お参り。記帳お願い。本堂の前に来てみると栃木の若い人がいる。あまり急ぐことは止めた、今日は金比羅さんに泊まるとのこと。栃木の人は、髭のお兄さんとは顔見知りのようだった。また、会うかも知れないねと言って別れる。髭のお兄さんとも挨拶。 今日は、善通寺に泊まる。5時着。お参りは明日。 洗濯、風呂を済まし、食堂に行く。私の名前札の前に、名古屋の若い彼女がいるではないか。彼氏はどうした?と聞いたら、彼氏ではありません。ただの友達です、明日、金比羅さんをお参りして夜行バスで帰る、とのこと。出発時間が夜遅いので、時間潰しを心配していた。 私も、去年、高知で台風のため列車不通の時、夜行バスを使って名古屋へ帰ったことあり。その時は、映画を見たことを思い出した。 映画を薦めた。 11月にまた、来るとのこと。わたしも11月。高知のおじさんも11月と言っていた。また、どこかで会いそうだね。元気でね。のお別れでした。 |
第8日目 1999/10/16
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朝のお勤めで名古屋の若い彼女に会う。お勤めは御影堂で45分。お勤めの後、戒壇巡りする。中間位置に祭壇があった。その辺りが大師の生まれた部屋があった由。朝食も一緒になる。
7時30分、75番善通寺お参り。大きなお寺さんで、西の宿坊の方は御影堂(大師堂)あり、工事中。お参り前であるが、納経帳に記帳して貰う。東の方は金堂、五重塔、釈迦堂、それに楠の大木。 お寺の名は父親の名から付けたとのこと。金堂の前の手洗い場には播州赤穂 大石良雄の碑が建っていた。 琴平で宿を予約。何時到着か聞かれる。10時頃行く。満濃池に行きたいので、荷物を預けたい旨伝える。 隣の玉泉院の玉の泉を訪ねる。境内の隅の方にひっそりと井戸と古い石塔、石碑などがあった。槇野さんの本によれば、玉泉院の庭の判読できない歌碑には西行の歌が彫ってあったとのこと。 井戸の所に説明があり。 岩にせく あか井の水の わりなきは 心すめとも やどる月かな と詠じたと。 琴平まで8km。JR土讃線に沿った道を歩く。琴平の町で、栃木の若い人に会う。今から、善通寺へお参りとのこと。昨夜は5時を過ぎていたらしい。この人とは、名前も知らず、多分、永遠に会うことはないだろうと思う。 大きい声で、お寺さんはあと14カ所、頑張ってください。さようなら。 |
宿には11時着。リュックを預け、満濃池へ。琴平の町外れのうどん屋で昼食。あまりにも安いので、値段表を写真に撮る。かけうどん200円、ざるうどん280円、肉うどん430円。味も良い。
満濃池まで6km強、遍路の表示が非常に少なくなる。地図をよく見て間違えないように、歩く。1時に着く。大きな溜め池だ。池の周辺は整備され、たくさんの観光客が弁当を食べたりしていた。 番外神野寺お参り。呼び鈴を押して、記帳を頼む。よく来てくださったと言われた。 帰り道で道を間違える。金比羅さんの屋根が目印で、分けなく帰れた。 |
第9日目 1999/10/17
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荷物は宿に預け、8時、金比羅さんの階段を登る。本殿にお参り。奥の院は省略させて貰う。帰りは裏道を降りる。
10時琴平駅で特急へ乗る。空いていた。1番前の車両に。 瀬戸大橋を渡るとき、先頭に行って、鉄橋を見る。レールのつなぎ方、橋の部品のつなげ方、お守り用の橋、通路など、興味をもって、目で見る。 列車が橋の真ん中に来ると、橋の長さが、何メートルと伸びるとのこと。しかし、レールは橋と一緒に延びるから、レール同士の伸びの差は少ないはずだ、など考えながら渡り終わるまで眺めた。 次の遍路行きはお礼参り、高野山参りのつもりのため、岡山経由の帰りは、最後となる。この機会を逃すと岡山を見損なうので、岡山で、途中下車。 岡山城と後楽園を見る。後楽園は何か記念行事をやっていて、鶴を放し飼いしていた。たくさんの見物人が集まっていた。私もその中に混じって鶴に付いていった。 マメは軽く済んだ。ちょっと歩く距離を押さえたこと。荷物を1kg軽くしたことなど利いたかなと思う。 |
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