8回目 第76番金倉寺から第88番大窪寺まで

1999/11/19〜1999/11/23

西行・一休など    四国遍路八十八カ所へ  次へ  1999/12/19 作成


第1日目 1999/11/19

 

 いつもの新幹線に乗る。今回のお遍路行きのこれが最後の新幹線となる。先回、10月はトンネル事故で遅れ、今年の冬、雪で遅れた。8回のお遍路行きで2回遅れ、四国へ入る特急に乗り遅れた。

 10時半、遅れなしで善通寺着、早速歩き始める。30分で、76番金倉寺。

金倉寺.jpg (15454 バイト) 仁王門を抜けると、広い境内が広がり、大きな木がある。古いお寺さんだ。正面に本堂、左に大師堂。お参り、札納め、賽銭をあげ、般若心経をあげる。般若心経は本を見るが、見なくとも唱える事が出来るようになった。一太郎親子松、乃木将軍妻返し松があった。記帳を済まし、次ぎに向かう。

 近くの食堂に入ると、2,3人の地元の人がうどんを食べていた。私も、うどんを注文、大盛り350円。地元の人から質問責め。俺達はいつも車で足を使って歩いたことはない、よく歩くなとの事。話をしながら都会より田舎の方が車を使うんだなと思う。これから行くお寺さんの事をいろいろ教えてくれる。あまり多いので覚えられない、店はきれいではなかったが、旨かった。お礼を言って歩き出す。

道隆寺.jpg (18770 バイト) 途中、中務茂兵衛さんのよく字が読める石碑があった。

 77番道隆寺。「目直し薬師さま」の大きい看板あり、本尊の薬師さんがよく目を治してくれるとの事。お参りし、記帳して貰う。

 丸亀の町を行く。途中、讃岐富士が1つぽつんと平野の真ん中に立っているのが見える。

 7kmで78番郷照寺。丘の上のお寺さん。お寺の雰囲気が少し違う、時宗のお寺さんとの事。きれいな庭があった。瀬戸大橋が霞んで見える。瀬戸大橋もこれが見納めかなと思う。2時過ぎだが、夏の4時過ぎの感じだ、時間の感覚が慣れずおかしい感じ。

郷照寺.jpg (13125 バイト) お参りして、記帳して貰う。同年輩のお遍路さんが話しかけてきた。愛知県の人で話が弾む。今は、サラリーマンの現役のため車で廻っているが、定年になったら、歩いて廻る気になった、と言っていた。

 今日は坂出泊まり、少し早いが宿に入る

 

第2日目 1999/11/20

 

 7時出発。平地の遍路は昼食の心配が不要で、随分気が楽。ただし、途中で買うことを忘れずに。旧道を行く。

 今日は、保元の乱に破れ讃岐に 流された崇徳院の跡を偲ぼうと、少し遠回りしてでも、旧跡を全部廻ろう、白峰山は北回りの遍路道を登ろうと思う。

 やがて、八十場の泉、量は多くないが、枯れたことのない霊水とのこと。際に大師堂があった。朝早いせいか、誰もいない。湧き水が勢いよく流れ落ちていた。日本武尊が80名の兵士と共に毒に当たったが、この泉の水を飲んで回復したとのこと。八十場の名前の起こりのようだ。また、下記のような説明あり。

 「800年の昔、保元の乱によって綾北(この地方には綾氏が勢力を張っていた)に配流された崇徳上皇が南狩9年(南狩:意味が判りません、9年を過ごした意味かな)にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯斂(ひんれん)の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地である。」 

高照院.jpg (13609 バイト) 79番天皇寺(高照院)には、白峰神社との境界がはっきりせず、入り口も判らず、すぐに辿り着けなかった。

 このお寺も崇徳院と関係が深いようだ。今の人達は悲劇の崇徳院にほとんど関心を示さないこともあり、寂しい気が募る。こちらはたくさんの人がお参りしていた。私も、みんなと一緒に、本堂、大師堂をお参り、崇徳院にも、安らかにの願いを込めて、般若心経を唱える。記帳を済まし、綾川を北に辿る。

 寒さも薄れ、汗がにじみ出したので、農協の駐車場を借用して、リュックを下ろし、1枚セータを脱ぐ。後ろで声が聞こえるので、振り返ると、おじさんがジュースの缶を2つ接待と言って差し出してくれた。お礼を言ったら、すぐ、向こうへ行ってしまった。もう1度、大きい声でお礼を言う。

 西行が生きた時代は、乱れた時代であった。その犠牲者の1人である崇徳院は怨霊となってその後の平治の乱、源平の戦いの原因とまで言われた。西行は霊を慰めるため、ここに旅している。

 讃岐に詣でて、松山(今の坂出)と申す所に、院おはしましけん御跡尋ねけれども、かたもなければ として歌を詠んで、多分、雲井の御所、鼓が岡行在所などを弔い歩いたのだろう。 

 雲井橋の近くで、雲井の御所跡を探す。お百姓さんに尋ねると、少し南へ戻れと言う。新しい新道の側、田圃の中にあった。蘇鉄の中に石碑が立っていた。綾氏の屋敷跡(これが綾北かな)とも言われている。本当の所は判らないが、いろいろな記録に残っているようです。

雲井.jpg (17627 バイト) 石碑に崇徳院の歌が記されている  ここもまた あらぬ雲井と なりにけり 空行く月の 影にまかせて この歌から雲井の御所と言われるようになった由。
高屋.jpg (18523 バイト) 雲井の御所から、東に3km、白峰山登り口の近くに高屋神社があった。血の宮、朱の宮とも言われている。崇徳院のお棺を運ぶ途中このお宮の石の上に安置したところ棺から血が流れ石を朱色に染めたとの事。今、御棺台石が残っている。6角形の石があった。

 ここから、2kmほど、北側に回り込むと深い森の中に、うす暗い雰囲気の青梅神社があった。崇徳院と母の待賢門院が祭られている。崇徳院が白峰の稚児ヶ嶽で荼毘に付された時、荼毘の煙が麓の村を覆い尽くし消えなかった。村の人達は煙の宮、青梅神社を建てた。古い神社のようだ。

青梅.jpg (18425 バイト) 青梅神社の近くで旧の遍路道を地元の方に聞いた。みかんをいただく、2回目の御接待。

 白峰山の滝に出る道が あったが、手入れをしてないので、登れないとのこと。 青梅神社の参道に石の標識が在ったが、草だらけで登れない。高屋神社まで 戻り車道を登る。

 あまりお遍路の通らない道のようだ。途中で、お婆さんに呼び止められる。みかんをもって追いかけてくる。接待です。食べてくださいとの事。3度目の御接待。ありがたくいただく。

 車道を行くと、小さな滝(稚児が滝)があり、そこから車道を外れて、遍路道の表示がある。 石段のある良い道だ。2つの鳥居があり、白峰頓証寺殿の表示があった。立派な道だ。登り切ったところが御陵。

崇徳.jpg (14213 バイト) 崇徳院御陵。白峰寺のすぐ裏側なので、人の気配は感じるが、人1人いない。実に寂しい。汗をかいたので、少し休む。汗が引き、階段を昇る。登り切ると、御陵の鉄の扉に、立派な高価な花束が無造作に供えられているのが、目に入った。肩から力が抜けて、すこし安堵してお参りした。救われた気持ちとなり、本当にうれしかった。西行はここで、

 白峰と申しける所に、御墓の侍りけるに、まいりて

  よしや君 昔の玉の 床とても かからん後は なににかはせん と詠んでいる。

 玉座もこのようになってしまったのだから、仕様がないではありませんか、と言う、すげない歌を詠っている。

白峰寺.jpg (14883 バイト) 81番白峰寺をお参り。頼朝寄進の灯籠、西行の「よしや君」の歌碑、玉章(たまずさ:文)の木、13重塔を見る。

 途中でパンでも買うつもりをすっかり忘れた。食べる物、何もなし。根香寺の手前に食堂がある。そこまで歩くことにする。山道は比較的平坦で歩きやすい。十九丁の道標を通過。根香寺を打って、ここに戻り国分寺へ降りる道だ。2人のお遍路さんが盛んに俳句の批判をしあっていた。

 昼食、2時。うどんを食べる。私を追い抜いて行った人達が食事していた。

根香寺.jpg (16768 バイト) 82番根香寺をお参り。草鞋のある仁王門。立派な門。紅葉がきれいだった。

 もと来た道を戻り、十九丁で国分寺へ降りる道を取る。1kmほど平坦地を行くが、突然、見晴らしが良くなり、へんろころがしの下り。急な下り。へっぴり腰で降りる。

 途中、野良犬と仲良くなる、声を掛けただけなのに、ずっとついてくる。国分寺構内に入り、たくさんの人の間に入って別れることとなった。

国分寺.jpg (12983 バイト) 80番国分寺。立派な仁王門があり、立派な手入れの入った松があった。境内も広く、本堂も立派だった。納札、お賽銭、般若心経をあげ、納経帳に記帳して貰う。

 今日は、山道を30km以上、よく歩いた。

 宿で。お遍路さんが7人、一緒に食事。愛知県が4人、岐阜が1人、地元2人。話が弾む。愛知県4人は珍しい。明日の白峰寺の遍路転がしをみなさん心配。降りてきた私が説明役。

 

第3日目 1999/11/21

 

 みんなと別れ、鼓が岡へ向かう。田圃の町、府中町。讃岐国庁碑あり。立て札など、しっかり立っていて、読めば、大体判るようになっている。鼓が岡神社、菊塚、わん塚、柳田の碑を確認。槇野尚一さんの本を読むとこれらを見つけだすのに、大分苦労されたようだ。

 鼓が岡神社は国庁碑のすぐ東の小山の麓にあった。お参りを済ますが、何もない。御所は丸太で作ったので、木の丸殿とも呼ばれたと説明あり。雲井の御所も小さかった。粗末な御所と思われる。

 

菊塚.jpg (16867 バイト) 菊塚は一般の人家の庭にあった。世話をしていた綾氏の娘との間に出来た子供のお墓と説明があった。石を積み上げただけの供養塔。

 椀塚は畠の中にわん塚と彫った石がぽつんと1つあっただけ。

柳田.jpg (7881 バイト) 柳田の碑は鉄道の際、比較的、新しい石に柳田と彫ったものが田圃の中にあった。ここで殺されたとの事。崇徳院の死は暗殺、自殺、狂死、病死の各説があるようです。

 83番一宮寺へ向かう。平地の道。遍路道から外れているので例の遍路案内の印はない。地図を頼りに歩く。

一宮寺.jpg (16997 バイト) 11時前に着く。裏から入り、 本堂、大師堂をお参り、記帳。仁王門に出る。御接待ですの声。振り向くとおにぎりを差し出してくれている。接待です。ぜひ食べてくださいとの事。ありがたくいただく。昼前の腹のへった所だのですぐ食べる。立ち食いした。旨かった。

 仁王門の前は、田村神社。七五三で混んでいた。

 

 高松の町へ、栗林公園方面に向かう。途中、うどんを食べる。大盛りと注文したら、3つだが食えるかとの事。油揚げの2つにする。食べでがあった。やはり、380円、安いし旨い。地元の人が沢山食べていた。

 栗林公園に入る。何十年ぶりだろうか。なにも覚えなし。急ぎ足で南側を一周する。

 高松の町を歩く。讃岐別院をお参りして国道を東へ、屋島に。平たい台地のような山が見えてくる。大きな橋を3つ越えたところで左折。屋島寺への遍路道。山道になる。割ときつい登り。

 食わずの梨、加持水に頭を下げ、黙々と登る。

屋島寺.jpg (12330 バイト) 84番屋島寺。立派な仁王門。本堂、右手に大師堂、三体堂他のお堂あり。納札、お賽銭、お経をあげ、納経帳に記帳をお願い。血の池をみる。

 同じ道を下る。下って屋島泊まり。

 明日は、源平合戦史跡を歩く予定。

 

第4日目 1999/11/22

 

 相引川を右岸に渡り、赤牛崎をみて、総門を見る。廻りは人家だらけ。射落畠、佐藤継信が討たれたところを見る。佐藤継信は東北の人。

安徳.jpg (13858 バイト) 相引川を左岸に渡り、義経の弓流し、菊王丸の墓、安徳天皇社をお参りして、佐藤継信の墓を尋ねよう。

 安徳天皇社前で、国分寺の宿で一緒になった愛知の足の速い人と会う。屋島の東の道を降りてきたとのこと。最近通じた道。また、どこかで会いますね。頑張りましょう、と別れる。

 なお、しばらく登る。どうもおかしい。地元の人に佐藤継信のお墓を聞くともっと下だとの事。教えて貰った道を下って行くとあった。石を背丈ほど積んだ石の上に、お墓があった。きれいに整備され案内札が立っていた。屋島から東に下る道沿いだった。

 下り、元の道を戻る。相引川を右岸に渡る。州崎寺を探すが見つけ損なう。景清の錣引き(相手が逃げたので、景清が相手の甲の後ろ側ギザギザの所を引ぱった。有名な言葉)した所。駒立て岩、祈り岩、共に、那須の与一の扇の的を射った所。

 これらすべて海岸沿いだったが、今は埋め立てが進み海岸の面影はない。

 八栗寺に向かう。登り道を行く。

八栗寺.jpg (14830 バイト) 85番八栗寺。仁王門で頭を下げ、本堂、大師堂へ。お参りして記帳をお願い。

 お寺の縁で休んでいると、髭のおじいさんが来て声を掛けてきた。何で遍路しているかと聞かれたら、なんと言おうかと考えていると、自分のことを語りだした。

 千日遍路している。年5回ぐらい廻る。歩きで、いつも野宿。あと1年。今日も、下の役場に泊まって荷を置いてきた。車を持っている(車は乳母車のようなものらしい)。俳句を作っている。ノート数冊貯まった。と言って見せてくれた。大きい字でびっしり書いてあった。志度寺への道を丁寧に教えてくれた。

 お礼を言って、再び、歩き出す。下るとき、国分寺の宿の愛知の人(午前の人と違う)2人に会う。電車に乗って、屋島をケーブルで、八栗寺もケーブルで上がってきたとのこと。

 再会できましたね。頑張ってください。まだ、会いそうですね。朝、足の速い人と会いました。と言って別れた。

 志度寺へ向かう。平賀源内の旧邸あり。地蔵寺をお参り。

志度寺.jpg (14439 バイト) 86番志度寺着。本堂、大師堂にお参り。記帳。

 謡曲「海士」のお寺。藤原不比等の子、房前大臣の母はここの海士だった。奪われた玉を竜宮から取り返したら、房前を大臣にすると言われ取り返し、命を落とした。成人した房前は追慕の情にたえずこの地にきて供養した。追善の経に引かれ、母が現れ成仏する。玉取伝説と女人成仏の内容。

海士.jpg (15426 バイト) 立派な海士の墓があった。

 不比等の息子達、房前を始め4人は、天然痘であっという間に4人とも亡くなったそうですね。万葉集の解説本で読んで知って、日本史年表を見ると、天平9年の天然痘は凄かったようです。房前の大臣は57歳だった。

 2時。少し急ぎ足で長尾寺へ向かう。

 舗装道路を歩く。緩い登り坂、急ぎ足のためか長い道のりだ。時々、列車の汽笛が聞こえてくる。

長尾寺.jpg (14681 バイト) 87番長尾寺に着く。大きな草鞋のある仁王門。本堂、大師堂をお参り。

 例の愛知の人3人、私を入れて4人組、再び、一緒になる。今日の泊まりは長尾町。私と他1人予約済み。他の2人も同じ宿に向かう。うまい具合に宿泊OK。

 食事時、明日の予定を話する。明日は、山にはいる。たぶん、雨。

 女性のお歩き遍路1人同宿。足の速い人の由、例の足の速い人は顔見知りの様子。

 足の速い1人は、女体山越え、大窪寺お参り後、長尾へ戻る。5時出発。

 2人組み、女遍路は車道を行く。私は雨ならば、車道を行く。

 

第5日目 1999/11/23

 

 雨。朝食は一緒だったが、出発はばらばら。7時、私が最後。

 分かれ道の前川ダムで、私、愛知の2人、女遍路、白峰十九丁の俳句論議の2人組み、が一緒になる。みんな山越えを考えたようだ。山越えは3km短いが、時間は1時間余分の説明。結局、みんな車道を選び、便所に行き、又、ばらばらの出発となる。あと11km。

 ひどくはないが止むことなしの雨。カッパを着ての歩き、今回初めての雨。

 11時、88番大窪寺着。雨止む。立派な2階建ての仁王門。参詣者が多くぞろぞろの感じ、お遍路も沢山居る。大師堂をお参り。本堂へ行く。お参り。

 結願の記帳。みなさん、結願の証明書のような物を貰っている。私は貰うことは止めた。

 若いときの飛び上がるような感激は無いが、やり遂げた満足感は十分にあり、涙が出てくる感じがした。本当に出たかどうかは判らなかった。外へ出てみると、きれいな紅葉が目に入る。

大窪寺.jpg (15563 バイト) 助けてくれた多くの人達と自分の健康に感謝。あと、お礼参りと高野山参りあり。

 一服していると、5時出発の足の速い人、愛知の2人、女遍路、俳句の2人、一緒になる。お互いにご苦労さんの挨拶。愛知の2人は、杖を納めていくか迷っていた。私は家に持ち帰るつもり。

 足の速い人は、カメラを落として、探しに戻ってきたところ、幸い、拾ってくれた人あり、戻ったと喜んでいた。早速、長尾へ山越えで戻っていった。

大窪木.jpg (21675 バイト) 愛知の2人は、ここで泊まり。女遍路は10番まで行くか迷っている。俳句の2人は聞き損なう。私は、白鳥温泉まで、後10km歩く。みなさんとここでお別れ。本当にご苦労さんでした。

 再び、歩き始める。道が細くなる。車もほとんど通らない。お寺さんの混雑と、どえらい違い。少し寂しくなる。下りを幸い、急ぎ足で行く。

 3km歩き、地蔵堂でパンの昼食を取る。食べ終わった頃、遍路の鈴の音が聞こえる。誰かなと見ると、例の女遍路さん。10番まで歩くことにした由。少し寂しかったと見える。一緒にしばらく休み話をして出発。

 歩きながら話す。関東の人、お役人、強引に休暇を取り、夜行バスで四国に入り、夜行バスで帰り、そのまま、勤務に出る、40km歩く、途中から歩き始めたので、今回は1番までお寺をお参りとの事。私より2,3歳若いかな。

 長野の小学校で別れる。遍路道は山の歩き道になったが整備され、峠越えも歩きやすい。車道が遠回りのため、歩きのバイパスだった。3時過ぎ、白鳥温泉に着く。旅館の玄関に、四国巡礼服部様の看板が掛けてある。他に2枚掛けてあった。

 今回は毎日、洗濯、今日も雨と汗でびしょ濡れ、洗濯をする。温泉に入る。無色透明の、肌がぬるぬるする温泉だ。

 明日からはお礼参りと高野山参り。1番霊山寺へは大阪越え35km。

 早く寝る。朝食はむすびを作ってもらい、旅館が寝ている内に出発しよう。玄関の鍵を開けて置いて貰おう。

 

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