8回目−2 霊山寺お礼詣りと高野山奥の院詣り 55km 1999/11/24〜1999/11/27 西行・一休など 四国遍路八十八カ所へ 次へ 1999/12/19 作成 第6日目 1999/11/24
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大坂峠越え35kmの強行軍のため、朝、6時出発。今の時期は真っ暗闇。
懐中電灯をつけ山道を行く。時々、遍路道が車道を 外れるが、車道を行く。星越峠はまだ暗かった。大内ダムで少し明るくなる。地図を確認しながらの山道歩きどうやら無事のようだ。 8時、四国八十八カ所の奥の院、輿田寺お参り。誰もいない。すぐに歩き出す。瀬戸内海に沿った道に出る。久しぶりの海の見える道。12時前、相生郵便局でお金を下ろすし、讃岐相生駅を通過。大坂峠入り口で、最後の讃岐うどんの昼食。 |
海岸から標高400mの大坂峠越えにかかる。JRと平行した道で、歩きでのある
大変長い峠越えだった。遍路道はいわゆる山の道で歩きのみだ。ただ、列車の音が時々聞こえるのが救い。
もちろん誰とも会わない。
車道に出る。人家が見えだし、時々車に出会う。見覚えのある3番金泉寺に3時。 真新しい白衣を着た新米の歩きお遍路さんに何人も会う。みんなこれからの歩きに大きい期待を抱いた張り切った緊張した顔をしている。挨拶も元気な声が返ってくる。私もそんな顔で始めたんだな。もう夕方だのに、不思議なくらい何人にも会う。 「礼参り大阪越えのけもの道に破れし靴でイガグリを踏む」 去年の4月、不安な気持ちでうろうろした1番霊山寺へ4時到着。懐かしい、ようやく終わった、もうお仕舞い、寂しい、と複雑な気持ち。 お礼参りする。納経帳に記帳をお願い。始めて年月日を記入して貰う。ご苦労様でした、と言われた。もう1度、境内を1廻りして、名残を惜しんで、仁王門で大きく頭を下げた。 板東駅へ。列車が出たばかりで、次まで1時間半待ち。待つこと少しも苦にならない。駅で腰を下ろしポスターを見たり、急ぎ沈むお日さんを眺めたり、ホームに出て、向こうに伸びる1本の線路を右に左に見たり、便所に行ったり、遍路1500kmの歩きを走馬燈のように思い出したり、手持ちぶさたにならず列車が待てた。 泊まりは、徳島の佐古とした。 明日は鳴門の小宰相の墓を見て、和歌山へ渡り、九度山に泊まる予定。 |
第7日目 1999/11/25
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鳴門駅行きの列車に乗る。列車の本数が少ないので、時間を調べて、1番列車に乗れるように宿を出た。
平通盛の妻、小宰相局(こさいしょうのつぼね)は通盛が一ノ谷で討ち死にしたことを聞き、ここ土佐泊で海に身を投げて19歳の生涯を終わった。そのお墓を土佐泊に尋ねた。 小高い丘の上にあり、コンクリートの基礎の上に、新しいお墓が収まっていた。 新しい花が供えられ、港を見下ろしていた。 近くに、紀貫之の歌碑があると聞いたが、行くのは止めた。
9時の列車で徳島に戻り、和歌山行きのフェリーに乗る。乗り継ぎがうまく行かず、和歌山着2時となる。 泊まりも決めてない。出来るだけ高野山の麓まで行こうとしたが、宿がない。和歌山でも、調べて行ったビジネスホテルも満杯で断られる。観光案内もないので、旅行会社に飛び込むと安い宿は扱っていないとのこと。 やむを得ず町を歩いて、飛び込んでみる事にした。小さなビルのビジネスホテルがあったので、尋ねてみると、風呂、便所のない部屋ならあるとのこと。泊まることにした。やれやれである。早速、洗濯する。 |
4時、まだ明るいので、和歌山城跡を見に行く。西の丸庭園を見る。紅葉がきれいだった。どんぶりの夕食、明日の朝食を手に入れホテルに戻る。
明日は、町石道を歩いて登り、途中、天野の里に寄り、高野山泊まりの予定。宿の予定はしてない。 |
第8日目 1999/10/26
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朝、1番電車で橋本へ。南海電車に乗り換え、九度山駅、9時。
九度山駅から歩き始める。途中、真田庵を覗き、慈尊院着。お参りして、町石道はどこかお坊さんに聞く。新聞社の人ですかと聞かれる。町石道の取材に来るとのこと。 町石は高野山金堂をスタートして、1町毎表示。ここが最後の180町の場所。町石に会う毎に感謝して登るのが作法と教えて貰う。9時30分、登り始める。町石に手を合わせ、急な登りを行く。 |
紀ノ川がきらきらと光り、もやが残る朝の汚れのない大きな空、町の家並みが目の下に広がり、近くには、葉の落ちた柿の木が町石と並んで、川に見とれている。写真を1枚撮る。
1時間位我慢の登り。標高500mで平坦となり、 平地を歩くスピードで進む。きれいに整備してある山道。 11時、6本杉峠で一服。里に下れば天野の集落。どちらにしようと迷う。 天野の里に下りことに決める。丹生都比売神社(にゅうつひめ)、赤い太鼓橋が、紅葉の朱に映えて静かに鎮座していた。 |
茅葺きの西行庵、西行妻子の墓が道際の高みに隣り合わせ立っていた。小さなお墓には、新しい花が供えてあった。
待賢門院(崇徳院の母親) の墓と言うのが竹林の中にぽつりとあり、朽ちかけた説明の看板があった。 元の町石道に戻りたいが、登り口が判らない。二つ鳥居への道を農協で聞く。 親切に教えてくれる。町石道は100mほど上の尾根を通っている。二つ鳥居が見えるだろうとの事。 |
12時30分、二つ鳥居着。天野の村が下に広がる。鳥居が2つ並んで立っている。なぜ2つか理由を
聞くことを忘れた。パンの昼食。風が強くなり、空気が冷たい。食べ終わり、すぐ出発。
町石道は、相変わらず平坦で助かる。地図を見ると600mを越えている箇所が あり、多少、登りと気ずく。86町石の笠木峠、50町石の矢立峠で車道と交差。標高500m。袈裟掛け塚、押し上げ塚を見て、200m程登る。 40町石で車道と交差。あと1里、歩きを早める。結局、町石道では、 歩く人とは会わず仕舞い。村落が峠から見え、ゴルフ場があり、町石道の補修工事の人達がいて、 電車のきしむ音、車のエンジン音が聞こえ、寂しさは無かった。 |
4時前、大門到着。観光協会で、宿を決めて、金堂の前の宿坊に入る。
泊まりは外人さん2名と私の3人でした。風呂をゆっくりし、精進料理を
腹一杯いただく。暖かい部屋で、たっぷりと寝る。
明日は、金堂、大塔、金剛峰寺、三昧堂、大会堂、美福門院の御陵、奥の院、女人堂を尋ねる。 |
第9日目 1999/11/27
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朝、雪が降っていた。しばらく、傘をさす。初雪とか。
8時30分、金堂、大塔は誰もいないが、参拝料の表示と半券があった。お金を入れて半券を貰う。大会堂、三昧堂をお参り。三昧堂は西行が修行したところとの説明があった。 金剛峰寺参詣。 奥の院に向かう。途中、美福門院(崇徳院の父親、鳥羽天皇の皇后)御陵をお参り。 奥の院までたくさんのお墓の間を行く。お参りして記帳。筆の運びがゆっくりで、丁寧だった。ここでも、年月日印を押してくれる。 女人堂まで歩き、12時、バスに乗る。これで予定のすべてを歩いた。 みなさん、本当にありがとうございました。 22番平等寺から23番薬王寺に至る海岸道路を通らなかった事。88番大窪寺への女体山越えを止めた事。の2つやり残しがありました。やり残しについては、一服して、再挑戦するつもりです。 みなさんの応援と手助けによって、また、自分自身の健康によって、すべて歩いてお参りすることが出来ました。 もう1度、みなさん、ありがとうございました。 南海、近鉄を乗り継ぎ、名古屋へ。これで本当に一区切りついた。 |
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