第1日目 2002/10/27 (日) 経路 徳島駅 霊山寺 (極楽寺 金泉寺 地蔵寺 安楽寺 十楽寺 法輪寺) 坂本屋 歩き距離 36千歩 25.2km 地図上距離 27.5km 出発 7時 到着 14時 晴れ すれ違ったお遍路さん 0人 宿屋 坂本屋 泊まりのお遍路 7人
|
25日出発の予定をしたが満員で座席確保できず(金曜は混むらしい)、10月26日(土)名古屋発23時30分の夜行バスで、久しぶりの徳島に向かう。座席は満杯。バスは、徳島駅経由松山行きである。高速道が出来て便利になった。高松駅経由は高知行きだ。
27日5時20分、徳島駅着。真っ暗、1番列車は5時51分、駅で小休憩。慣れないバスで、よく目を覚ましたので、多少眠い。直に、気動車が入ってきたので乗り込む。今度は、寝過ごさずに板東駅で降りる事。 |
薄暗い道を1番霊山寺に向かう。私より速い遍路さんがいた。お寺さんは、戸締まりを解き掃除など始めていた。6時から朝のお勤めをしているのだろう。ここは宿坊があったかなと思う。 売店で、掛け軸17000円を購入。よく売れているからどうだとの勧めにより決めた。水に注意するようアドバイスあり。今回は、製図図面を入れるプラスチックの入れ物を用意した。店の人が笑っていた。 絹の布が厚めの地紙に留めてあり、軸に巻き付けてある。それをビニールの入れ物に入れる。皆さんはこれを肩に掛けたり、リュックに入れたりするが、私は、それをプラスチックの筒に入れた。 汗、軒の雨粒に注意と思う。 本堂と大師堂をお参り。札と賽銭を納め、本堂だけは般若心経をあげる。結構、覚えていたが、本を見て小さな声を出す(大分、図々しくなったが、声を出すのは、照れくさい。先回、結願した時と同じで笑えてくる)。 7時、明るくなり、歩き始める。10番の宿屋まで、お寺さんをパスして遍路道を行く。今日はたっぷりと時間があるのでゆっくり歩くことにした。 |
2番極楽寺を右に見て国道を少し行き旧道に入る。
3番金泉寺は、先回、大坂峠を越えてたどり着いたお寺さん。このお寺は、必ず、道を間違えるので、確認しようと門前まで行く。案の定、その後、間違えた。多分、次も間違えるだろうと思った 。(実際に、予定通り間違えた)
藍染院前を通り、4番大日寺はパスして5番地蔵寺へ向かう。途中、道が怪しくなり、今回初めて、道を尋ねた。親切に教えてくれた。田圃の畦道を通り、地蔵寺に出た。 6番安楽寺、7番十楽寺は道沿い。 8番熊谷寺。13時前。先回は、ここが2泊目であった。どんな歩き方をしたのかと思う。 9番法輪寺。先回、このお寺さんで、記帳開始を待つ、ものすごく綺麗な女遍路から、「まだ、7時になっていません。少し待ちましょう」と声を掛けられた。私も急いでお参りして、記帳して貰って、 話でもしようと急ぎ門を出た。 先ほど行ったばかりだったのに、田圃の真ん中のお寺さんなのに、何処にも見えない。勿論、朝早いので、聞いてみる人もいない。本当に不思議だった。白衣の40歳前後の本当に綺麗な人だった。 結願まで会う事はなかった。 今日は、昼間。店も開いており、何人かのお遍路さんに会った。昼食のうどんを食う。店のおばさんと世間話をした。 |
10番切幡寺門前の坂本屋に到着。14時だった。部屋に通してくれた。 夕食時、みんなと話をする。名古屋の車での2人連れ。水戸の男の人と名古屋の女性2人の車組。と私。泊まりは6人だった。 女性組はもう10回目くらいのベテランで、明日帰ると言っていた。10日ほどかかったとの事。2人連れはこれから順に廻るとの事。逆打ちは私だけ。 |
第2日目 2002/10/28 (月) 経路 坂本屋 大窪寺 八十窪 歩き距離 19千歩 13.3km 地図上距離 19.3km 出発 7時 到着 14時 晴れ 出発 7時 到着 14時 晴れ すれ違ったお遍路さん 2人 宿屋 八十窪 泊まりのお遍路 9人
|
石碑の文字がほとんど読めないのが多い。時間を掛けて、表面を紙に採れば判るかもしれなかったが、それは止めた。又、そのある場所が何処か判らない。 (今回は5万分の1地図は持っていかなかった。へんろみち保存協力会編の地図のみ)聞く人もいない。バス停の名前、信号の名前が頼り。 そんな事で昼頃まで、地図上から字名を探しメモしていたが、だんだんと苦痛になってきた。ものすごく時間がかかる。結局、記録第1日目で、詳細な記録は放り投げてしまった。 写真は、デジタルカメラのため、日時が記録できるので記録は是のみに頼る事にした。ASA400に慣れていたため、ASA100レベルの感度のため、暗い所での感が掴め難かった。慣れるのに、1日を要した。 デジタルカメラの評価:思ったよりも綺麗に撮れる。フラッシュが余り有効でない。撮れる枚数500枚は頼もしい。 石碑は、道案内とお墓の2種類。字が読めない場合が多いので、その区別も付きがたい。ただ、お墓が大分あるらしい。無縁仏か縁者が後から立てたもののようだ。 道案内もお墓も、今の世で言う「役に立つものではない」のに、このように多数作られ、保存されてきた事に人間の人間らしい思いが現れている、と思った。 道の拡張などで、道際の石積の上などにまとめられて居るのが多い。
10時過ぎ、長野分校の追分けに到着。先回は、ここから黒川温泉へ向かった。この辺りが県境と初めて気付く。 |
|
本堂、大師堂をお参り。掛け軸に記帳して貰う。逆打ちですな、と言われた。はいそうですと返事。このお寺さんは、3度目。2度目は、女体山越えの道を2001年5月に歩いた。きつい山越えだった事を思い出した。 13時過ぎ、少し早いが、宿へ行く。そろそろ一陣が到着するぞと言っていたところ、と言われたが、快く、部屋に入れてくれた。 今日のルートは、迷う所はなかった。順調な滑り出し。 夕食時、満願の人達のうれしそうな事、私もそうだったかな。私は逆回りと言うと、ぜひ、女体山へ登って行けと勧められる。そうしますと回答。 部屋に引き返す時、宿のおかみが、1つ越えて、後、車道を行けとアドバイス。私もそのつもり。おかみさんは、わたしが、すでに越えている事を見抜いている。口でしゃべった記憶がないので、質問された時の反応などの態度で判るのだろう。 |
第3日目 2002/10/29 (火) 経路 八十窪 長尾寺 玉泉寺 志度寺 八栗寺 岡田屋旅館 歩き距離 34千歩 23.8km 地図上距離 29.1km 出発 6時半 到着 16時 晴れ すれ違ったお遍路さん 5人 宿屋 岡田屋旅館 泊まりのお遍路 2人
|
大窪寺本堂お参り。すでに、お遍路さんがいた。何処に泊まったのだろう。野宿のようには見えなかった。
山道は、1人では難しいかなと思ったが、遍路道は、みんなが「がんばって」などの標を残してくれているので、極めて安心だ。 |
突然、荷物を落としたら、5,60m下まで転がる急坂が現れた。ロープが1本張ってある。へっぴり腰で、尻をつき、ロープを持ち、ゆっくり降り始めた。誰もいないのに、へっぴり腰が恥ずかしかった。先回、坂が急だった程度の記憶しかなかったが、この坂は覚えがない。登坂は、 下るより楽に登る生だろうとは思う。 山越えは、もう1つ山越えがあるが、今日は、舗装の車道を下る事にする。この道も初めてである。 |
途中、昼寝城についての看板があった。戦国時代まであったお城らしい。随分の山奥であるが、防御の必要性が主たる理由だろうと思う。 |
|
お参りして、記帳をして貰う。掛け軸は直ぐに書けるよう、記入する場所が直ぐ出せるように、巻き方を調整しておけと言われた。もっともと思う。はい判りましたと返答。まことに素直に返事が出来る。 なお、般若心経は、本は必要だったがちゃんと出来た。 |
|
|
|
不比等の子ら藤原3兄弟の1人、房前(8世紀の実力者)の母、「海士」の墓。 謡曲の親子愛の物語、時の実力者3兄弟の天然痘による、あっという間の死去、房前の妹で初めて皇族以外で皇后になった光明皇后の悲田院など疫病対策、など思い出す。 |
うろうろしていたら、地元の皆さんが集まってきて、いろいろ教えてくれる。いろいろ言われても判らないので、この地図で教えてと言ったら、俺の言うとおり行けば行けると怒鳴られる。 畏まって聞いてお礼を言ってその指示通り歩き出す。地図を初め、みんなの言った事、自分の考えた事ひっくるめてみると今歩いている道が地図の道だった。落ち着いて地図を見れば、何も難しい事はない。なぜ間違えたか判らない。 |
車道であるが、相当の急坂である。先回は、ここで、荷物を下の町役場に預かって貰って登ってきた野宿のお爺さんと会った。 16時前、85番八栗寺到着。お参りして、記帳。 門を出ると、向こうから大きな声で、服部さんですかと声を掛けられた。岡田屋さんだった。 水戸の方と2人宿泊。今回は、仏像を彫りたくなり、岡田さんに頼んで、石材を手に入れた。又、少し写真撮りをして帰るとの事だった。すでに、2、3回は廻っているようだった。写真撮りに興味を覚えたが、余り踏み込まずに終わった。 岡田屋のご主人はパソコンが得意のようで、写真を撮って、印刷して呉れた。ホームページには、まだ手が回らないとの事だった。私のホームページの名刺を置いてきた。 明日の宿、民宿みゆきと定め、電話をするも、出てくれない。岡田さんに聞いてみると、順打ちの人は百々家から来るとの事。早速電話。百々家はJR鬼無(きなし)駅の前との事。OKだった。 |
第4日目 2002/10/30 (水) 経路 岡田屋旅館 屋島寺 一宮寺 百々屋 歩き距離 48千歩 33.6km 地図上距離 27.4km 出発 7時 到着 16時半 晴れ すれ違ったお遍路さん 12人 宿屋 百々屋 泊まりのお遍路 4人
|
屋島の参道まで、古い町並みの道であったが、屋島小学校横の参道にうまく到達。 ただ、常に地図をよく見て遍路マークを振り返り確認して(大体、ここにはありそうだ、と勘が働く。ズバリ当たるとニヤニヤしてしまう)、少しでも疑問に思った時は、立ち止まり、地図を広げて確認した。この辺りの遍路道は旧道、これもうまく行けた理由の1つ。昨日のチョンボの反省 と今日の歩きの心構え。 |
謡曲「海士」に「玉中に釈迦の像まします。何方より拝み奉れども同じ面なるによって、面を向ふに背かずと書いて面向不背の珠と申し候」の文句があり、 もう1つの玉と共に、藤原氏のお寺興福寺に納められたとある。 もう1つの玉があったが、ここの海の竜宮に捕られてしまった。この玉を取り返しに、房前の大臣の母親、ここの海士が竜宮に行き、乳の下を欠き切り玉を押し込んで生還する。是が謡曲「海士」の内容。 |
同じ参道を下り、国道を西に向かう。讃岐別院は寄らず、栗林公園方向へ遍路道を行く。琴電踏切、JRの高架下を正確に潜り抜けた。がここでミス。 高松鷲田郵便局辺りで(郵便局の確認が出来なかった)、斜め左に曲がる所を真っ直ぐ行ってしまった。1kmほどこのミスに気付かなかった。国道に出てから遍路マークも少なくなり、確認は不足がちであったので、相当注意していたが、間違えた。 遍路地図は遍路道が赤で表示してある。広い道と思いがちである。今回も、よく見れば、判ったはず。大窪寺の女体山は余り気にならなかったが、山道は平地以上に気を付けて点検して行こうと思った。 |
|
|
歩く方向は間違えないが、個々の道は、ほとんど違っていたようだ。遍路マークがあったりなかったりで確認できなかったが、香東川の「川の中の橋」は渡った。鬼無駅の辺りの旧道に出るまでの道も、宿に入ってから地図上に落とせなかった。それでも、途中で、順回りの遍路さんと立ち話と道の確認はした。 今夜の宿の百々屋さんも、電話を3回してしまった。 |
次の日へ 前の日へ 逆打ち目次へ 四国遍路八十八カ所へ ホームへ |