18 富田林 弘川寺   大阪

7km       2008/04/12

西行・一休など    富田林 弘川寺 その他


 

 西行の終焉のお寺河内の弘川寺(ひろかわでら)へ行って来た。

 近鉄、名古屋から富田林へ。10時到着。富田林駅から、金剛バスの河内行きバス。次まで、1時間以上待ちのため、近くの新興団地さくら坂行きに乗る。

 河内小学校前で降りる。360円。車の中で、駅から一緒のお爺さんから、弘川寺の講義を受けた。

 さくら坂の団地は、山の上にあった。河内小学校から河内集落に下る道からの、山桜がきれい。

 河内弘川からの、葛城山。2時間で、頂上に着くそうだ。

 奈良側から歩いて登ったことがある。綺麗に整備された頂上だった。

 河内バス停から、5分程。

 弘川寺。真言宗。

 西行の終焉のお寺。

 鎮守堂 。寺の守護神、八所権現を祭る。弘川寺は戦国時代に全焼しているんだそうですが、これは桃山時代の建物。

 佐沢波弦の歌碑。

 時じくに松風のおとすみひゞく西行人のおきつきどころ

 西行堂。江戸時代の歌僧、似雲(じうん)法師の建立。

 

 西行堂の傍らにある川田順の筆になる西行の歌碑。

 年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 

 似雲(じうん)法師の墓。この寺で西行の墓を発見して、「花の庵」を建て、西行を追慕したという。

 江戸中期の歌僧。別号、虚空庵ほか。西行に私淑し、諸国を行脚して「今西行」と呼ばれた。

 西行に姿ばかりは似たれども心は雪と墨染の袖   似雲

 似雲法師の墓前にある似雲自筆の歌碑。 (表の写真を忘れた)

 尋ねえて袖に涙のかかるかな 弘川寺に残る古墳

 西行(円位)の墳。
 西行法師の墳墓の傍にある西行の歌碑。この碑の揮毫は佐々木信綱の筆による 。

 仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば
 

 西行法師の墳墓の傍に建つ歌碑。 金沢の歌人尾山篤二郎の揮毫による西行法師の歌碑。

 願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ
 

 似雲法師の墓の近くにある安田章生の歌碑。

 西行人のみたまつつむと春ごとに花散りかゝるそのはかのうえ

 西行桜山。似雲法師も植えたという。山桜だったと思う。

 今、3.5haに千本の桜があるという。

 

 似雲の花の庵跡。歌碑はなかった。

 須磨明石窓より見えて住む庵のうしろにつづく葛城の峯 似雲

 西行庵があったところ。

 短歌2首が書いてあった。

 西行の、最晩年のものと見られる和歌が見つかった。二首。新潟県の旧家所蔵の古筆資料の中に眠っていた。

 麓まで唐紅に見ゆるかなさかりしぐるる葛城の峰

 訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて煙を立つる弘川の里

 似雲が居住したと伝わる「花の庵」跡に建つ阿波野青畝 (せいほ)の句碑。

 いくたびの春の思い出西行忌

 その他の歌、俳句

 たをりこし花の色香はうすくともあはれみたまへ心ばかりは    良寛

 古つかをまかづる頃よ夕立ちぬ弘川の村をぬれてや行かむ    釈 迢空

 これのみ山清み静けみ歌のひじり円位のひじりとはにいませり  佐佐木 信綱

 おほ前にかしこまりゐてみ歌がたり聞く思ひなり櫻散りつつ    吉沢 義則

 鶯やいつの世までをさびしさに   松瀬青々

 弘川寺の伽藍を裏山から。
 弘川寺の本坊。

 中に、海棠と、西行記念館。春と秋のみ公開。

 樹齢350年余の海棠(かいどう)。バラ科の木。府指定の天然記念物。

 開花前でした。綺麗だそうです。
 

 本坊の中の庭。
 西行記念館。

 西行が座って、富士山を見ている絵、彫刻があった。富士見西行。

 似雲の紀行、歌集。

 河内弘川の里。
 河内弘川の里。
 10年来の念願を果たした。

 西行は、お金の心配のない人だったと改めて思う。私は、この年になって、漸く、お金に拘らなくなった。西行は、妻子を捨てた時からと思う。

 それにしても、これだけの良い歌を残し、それを記録され、継承された。

 帰りのバスは、河内バス停から。

 

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