過去掲載した編集◇コラム21
旅と出会いと[4] (13/05/19)
4月に訪れた九州では、予想もしなかった、偶然にしては出来すぎているような濃い出会いがありました。(ツーレポはこちらから)
1日目に泊まった島原の民宿では、中国人の若いカップルと夕食を共にしました。上海ほどの大都会から来た彼らが東京でもなく大阪でもなく博多でもなく、どうして人の少ない、少々ひなびた地方を選んだのかはわかりません。効率とか商業主義よりも、自然や人情を選択したのかもしれません。雲仙に登り、有明海を見た彼らの心中に去来するものは何だったのでしょう。
ただ、日本語をほとんど理解しない、若い彼らは、どうしても2人だけの閉鎖的な世界に陥ってしまいがち。素朴な民宿に居合わせた旅行者の私が、片言の中国語を話し、楽しく会話できたことに、きっと何らかの収穫があったことだと思います。
翌朝、洗面所で顔を合わせた彼らに、私は「早上好」(おはようございます)と挨拶しました。相好を崩した彼らの表情が忘れられません。私たちはメアドも住所も聞きませんでした。お互いただの旅人。一期一会を大切に、旅を大事にしているのです。
あのとき思い出せなかった、行ってみたい場所は西塘でした。NHKの番組中では上海から南西へ90kmと紹介されていて、上海から決して遠くはないのも何かの偶然かもしれません。いつか訪れてみたいと思います。
2日目に泊まった有田の民宿では、東京は港区白金台にお住まいで、一人で有田陶器市に来たというご婦人と夕食が一緒になりました。別荘の話とか、事務所を構える息子さんの話とか、その事務所がある銀座(四丁目)の話とか、ご婦人の話は、私たちのような庶民にはまるで関係の無い世界で、かえって疎ましいぐらいであるはずなのに、なぜか全く不快ではありませんでした。汗と埃にまみれたジャージ姿の私たちにも、ご婦人は嫌な顔をされるどころか「なんだか居酒屋に来たみたいね」と楽しそうでありました。
「でもね、もう抗ガン剤飲むのは止めたの」
大病を患ったのはつらいことですけれど、同時に人生の何かが変わったのでしょう。その刹那、どこかよそよそしかった「おばさま」は、親しみのある「おばちゃん」になったのでした。
3日目の夜は、バイクライフで以前、さんざんお世話になった頼れるアニキことyasoozzrさんと再会。今でも続いている、このHPのオフ会発案者であります。「誰も来ないスよ」と尻込みする私に、「やってみなければわかりませんよ」と背中を押してくれたアニキは、私の人生を変えてくれた存在でもあります。
久しぶりに再会したアニキは、さらに大きく、広くなった気がしました。
こうした出会いは都会ではあり得ない。互いに認め合い、理解し合うことが必要で、共感・共有を求めがちだからです。互いに束縛することも。反面、自然豊かな地方では、そうしたことはどうでもよろしい。私たち人間はそもそも自然の一部であり、自然を通してつながっているからです。
今回の旅の終着地では唐津天満宮に参拝しました。周囲とは隔絶されたような、落ち着いた、結界ともいうべき「気」に満ちています。私はここで素晴らしい旅と数々の出会いを、土地の神様に感謝しました。変なオッサンだと笑われても何でもいい。
旅人たちは確かにつながっていました。九州の自然を通して。
私たちはもともとつながっているのです。自然界の一部として、地球の一部として。所有したり独占したりすることに意味は無い。いがみ合い、奪い合うことの、なんと不自然なことでしょう。
自己主張ばかり、競争ばかりの社会。そんな社会から距離を置き、自然のほうを向き始めている人々が、目に見えない磁力のような作用で引き寄せられ、それぞれの人生が交差する。互いの人生は決して合流することはなく、またそれぞれの方角へと去っていき、それぞれのフィールドへと戻っていきました。
しかし私たちは出会いを忘れることはありません。交差した短い時間、互いに心を開き、少なからず影響を及ぼし合ったことを、無意識レベルの感受性が高まったことを。
人間は社会や集団の、単なる構成員ではない。世界は国家で構成されているわけではない。人間たちが系統立てて秩序づけられるような、単純なものではない。もっと多様で、もっと奥深い。
報道を見聞きしていても、ネットを眺めていても、そうしたことはわからない。自らに実際に行動し、肌で感じなければ実感できないかもしれません。
むかしむかし、いまから百年ほど前。
米国のボストンから一人のアメリカ人青年が日本にやって来ました。彼の名はパーシパル・ローエル。
(中略)
大切なのは、家とか、地域とか、上下関係でした。義理と人情でした。そういうものの前に自分の意見なんてものは引っ込めるのが当然でした。人間の進歩なんて、これっぽっちも考えていやしません。春夏秋冬、自然を愛でて、食べて、寝て、……。日々生きるのに精いっぱいです。ローエル青年は思いました。ここの人たちは、なんて野蛮で未開な人たちなのだろう……と。彼らもいつか進化して、自分たちのような近代的な自我を手に入れ、都会的な生活をするようになるのだろう。
ところが、この近代知識人であるローエル青年が、なぜかどんどん野蛮なはずの日本文化、特に日本の精神文化に惹かれていくのです。もちろんローエル青年は欧米の近代知識人ですから、非近代的なものを否定します。でも、どうしようもなく、惹かれていくのです。桜の季節、花見に興じる日本人を見ながら、彼は提灯に照らされた夜桜の幻想的な美しさに圧倒されるのです。五月の空に無数に泳ぐ鯉のぼりを見るために屋根に上がり、巨大な水槽の中にいるような気分を味わうのです。それはボストンでは決して見ることのできない幻想的な風景でした。 田口ランディ著『ほつれとむすばれ』より
食にこだわる[3]─いのちを継ぐ (13/04/27)
この文章は極めて個人的な私見、くたびれたオッサンのどうでもいい戯言です。
アウトサイダーとは無関係な、賢明な諸兄にとっては、まるで役に立たないことでしょう。
昨年秋に旅をしたしまなみの島々。ある宿で供された焼き魚は、瀬戸内で一本釣りされたという鯛でした。
鯛に限らず、ふだん一般の消費者が目にする魚は比較的おとなしい表情ばかりでインパクトの強いものは滅多にありませんけど、この鯛、ひと目で印象に残ったのが猛々しい面構え。凄みをきかせ、凶悪にも見えるその人相、いや魚相には、たしかに「気」がみなぎっているようでした。
自然と居住まいを正し、鯛に正対する。香りを存分に吸い込みながら丁寧に皮を剥ぎ、頑丈な骨をひとつひとつ取り除きながら、引き締まった身をいただいていく。
私の心にイメージが浮かびました。こいつは悠々と平和に過ごしてきたわけじゃない。厳しい食物連鎖の環境を生き抜くため、穏やかな内海を暴れ回り、それなりに一目置かれるくらいの存在だったのだ。楽ではないけれど、充実していた。人間の仕掛けた釣り餌に、つい食いついてしまったことが悔やまれる...
他に選択肢の無い、鯛の「気」は己の運命を悟り、そのすべてを私という人間に託した。この瞬間、鯛は仏になったのだと思います。ものすごい自分勝手な解釈かもしれません。でもそう感じたのだから、その感覚を大事にしたい。
こうした食材をテキトーに口に放り込むなんて無礼千万。時間をかけて丁寧に、余すことなく食べなければならない。食べながら「気」をしっかりと受け止め、感謝すること。それが人間に身を捧げてくれた、鯛への供養となる気がします。
栄養学上、体に必要な栄養素を摂取することがすなわち健康的であるのは間違いないのでしょうが、こうした「気」を受け入れ、命のバトンタッチをすることで、自然エネルギーが得られる、そう思っています。
「食」には命のバトンタッチが必要であり、人間は他の生物の命を継いでいく存在。なぜかはわかりませんが、それが自然の摂理であり、覆すことはできないのです。
バトンタッチを意識すると、食材は鮮度が重要なことがはっきりとしてきます。もちろん賞味期限とか冷蔵温度管理とかありますが、それよりも食材となった生き物の魂が己の運命を悟る間の、仏教でいえば初七日とか四十九日とか、そうした感覚が重要なのではないかと。
また、料理には必ず誰かしらの人の手がかかっています。それは、食べ物には料理する人の心が必ず投影されるということでもあります。自然を、いのちを大事に考える人が手がけ、食材に敬意を払った料理は高級食材を使わずとも心身に響いてきますし、どんな高級食材を使おうと、命を軽視し自己主張にとらわれた派手な料理は、バトンタッチがなされない。
こうした観点に立つと、ジャンクフードの類にバトンタッチはない。ジャンクフードのみならず、心も自然エネルギーも無い食べ物がいかに多いかということに愕然とします。
食べ物に感謝していただきましょうと言われますが、「気」や「魂」の無い食材に対し、本心から感謝できなくてもしかたのないことかもしれません。考えてみれば、どんな食品も生物からしか作られないですし、微生物を含めた生きものの力が一切介在しない加工食品だってあり得ないはずなのに。
人間は、否応無しに他の生き物の「いのち」を継ぎ、「気」を背負って生きる存在なのです。貴方も私も。人生を無駄に生きてはなりません。人間のためだけに生きることもあってはなりません。
私たち現代人は「食」に対して値段とか評点とか、豪華さとか、あるいは接客とか、表面的な要素に終始し、根源的なことを忘れてしまっているようです。人間は人間どうしだけでなく、いのちのバトンタッチを通じてあらゆる生き物とつながっている。想像もつかない太古の昔から、それは変わらない。たとえSNSやツイッターに参加していなくとも、社会的地位が無かろうと、友人がいなくとも。
ところで、いのちを継ぎ、自然エネルギーを利用するということは、自然界の秩序に従わねばなりません。そのように意識すれば「死」もまた理解不能な恐怖の対象では無くなってくる気がします。
人は誰しもいつか必ず死を迎えます。おそらく己の終末も何物かにバトンタッチされるべきなのでありましょう。自然エネルギーを利用することで、その覚悟ができてくるように感じます。何となくですけれど。
食にこだわる[2]─自然エネルギー (13/03/24)
この文章は極めて個人的な私見、くたびれたオッサンのどうでもいい戯言です。
アウトサイダーとは無関係な、賢明な諸兄にとっては、まるで役に立たないことでしょう。
(前回の続き)
体が欲する食べ物とは何か ─それはネットやTV、口コミ、本、雑誌など、外部の情報に一切惑わされない、己の体が必要だと感じるものだと思います。医者や栄養士の言葉だって外部の情報に過ぎません。
でも己の体が欲しているものは何なのか、数々の外部情報にとらわれずに己の体の声を聞き取るのはけっこう難しい。通常、脳から体に何か問いかけても、返答があるわけがない。日常的に座禅を組んで瞑想でもしていない限り、私のような凡人には不可能なことでありましょう。
確かに体が何を欲しているのか、食べる前にはわかりません。ですが、食後の体の反応を注意深く感じることで、食べたものが欲していたものかどうかがある程度わかります。何となく気分が良いとか、落ち着く、元気になるとか。
そりゃあ、プレミアムなビールと生ハムだあ、そういう諸兄もお見えでしょう。けっこうなことです。体が必要としているものは人それぞれ異なり、何が良くて何が悪いのかは他人にわかるものではありません。
ただしここで間違えてはいけないのが、“体” の反応が肝心なのであって、“脳” の反応ではありません。「おお、ウマイ」といったような、口に入れてすぐに感じる刺激は、脳が反応していることが多いのです。体の反応はもっと控えめで、ずっと奥ゆかしい。芳醇な香りとか、濃厚な味わいとか、そうしたものとはあまり関係なく、胃腸の調子が良くなったとか、便通が快調になったとか、奥のほうが暖まったなど、直接的でないものが多い気がします。香りの類でもせいぜいふわりとした程度なものでしょう。
こうして試行錯誤を繰り返していくと、食べた直後、もしくは口に含んだ瞬間に、その食べ物は体が求めているものかどうなのかがわかるようになってきます。巷には脳への刺激ばかり重視した食べ物がいかに多いか、わかってくることでしょう。直接的な刺激が強いもの、次から次へと手を伸ばさずにはいられなくなるような常習性や依存性のあるものは、危険だということも体がおしえてくれるようになります。
私の場合、体が欲しているものは、美食ではありませんでした。香りの良いワインや、いろんなカタカナが付与された名前のチーズなど輸入された高級食材も違うようでした。和食が良くて洋食が良くないわけでもない。そうした紋切り型の分類に意味がないこと、マスメディア、雑誌、広告の類がいかにいい加減なことを認識するようになりました。
私の体は、遠方から取り寄せる食材よりも身近な食材、ハウス栽培よりも露地栽培の野菜を欲していました。
ここで大事なことは「力」というか、「気」だと感じています。食べるものに宿る「気」。自然エネルギーと言い換えてもいいでしょう。
人間40歳を過ぎると、誰しも多かれ少なかれ体にガタが出てきます。それを自覚する、しないも人それぞれではありますが。人生50年と言われることがあったように、人が生まれながらに持っている生命力は、だいたいそのくらいで尽きてしまうのではないかと思います。では、そこから先はどうするのか ─予防医学の力を借りるなり、体のケアだったり、気にしないなど、人それぞれですが、私の場合はどうやら自然エネルギーを利用するしかないようです。
「身土不二」という言葉の通り、私の体はこの土地の自然と結びついていること、自然の一部でもあることを意識するようになってきています。
自然エネルギーの力を借りるということは、完全無欠の健康体になるわけでも、バリバリ仕事ができるようになるわけではありません。
それどころか、しょっちゅう具合が悪くなったりし、表面的にはかえって不健康になったように感じるかもしれません。季節の変わり目ごとに調子を崩すことだって多々あります。
ただし私のかかりつけの漢方医によれば、そうした症状は全くの正常だそうです。人間は動物の一種であり、本来自然の中で暮らすべき存在。なのに一年中エアコンの中にいて、添加物たっぷりの食事をし、長時間労働をしている。だから体のほうがバランスをとるべく様々な症状になって表れてくるのだ、と。
自然エネルギーを利用し、自然に近づくと、人間界の常識よりもむしろ自然の秩序に従うことになり、こうした負の側面もあります。
だけど晴耕雨読な生活を夢見たところで、現代人は社会の中で働かねば収入を得られません。現実は厳しい。自然に親しんでも人間は人間界と完全に離れるわけにはいかない。娑婆とはそうしたところなのでしょう。
ははっ、何だかヘンなほうへ話が進んでしまいましたね。
肝心なことを忘れていました。自然エネルギーの多い、「気」がみなぎっている食べ物は何か。
それは、「いのち」がキーワードとなってきます。とはいえ、摘んだ野菜をその場で生食したり、生きた魚介を踊り食いするわけでもありません。
うまく言葉にできないのですが、そこには食べることを通じて、命のバトンタッチが必要ではないか、勝手ながらそう考えております。
これはこれで先が長くなりそうですので、今回はここまでにしたいと思います。
食にこだわる[1]─バランス (13/02/24)
外で食べる際は、大抵中華屋でラーメンか炒飯。牛丼屋では特盛乃至カレー。あとは立ち食いの、不味い天ぷらを載せたお蕎麦(不味いのに、それを載せなければもう一つ物足りない)と云うのがそのローテーションであり、家における場合は、コンビニその他の弁当、惣菜パン、インスタントラーメン、カップ焼きそばなぞを主食にした日々を経てている。
(中略)
が、私自身はこれらには何んら心身両面での不満はない。結句おいしいから飽きもこないし、この、好きな安価なものだけを口にする生活は大いに人にも奨めたいぐらいだ。 朝日新聞 2013年1月12日 e3面 『作家の口福』
西村賢太著「ケダモノの舌A 安物食いの習慣」より
それまでやや無頓着だったのに、四十代を過ぎた頃でしょうか、食べるものに少しこだわるようになりました。いえ、こだわるというよりも、できる限り食べたいもの “だけ” を食べるようになった、というほうが当たっていると思います。そうした傾向は時々開催するオフ会にも影響が出ているかもしれません。
くたびれたオッサンのどうでもいい戯言です。
アウトサイダーとは無関係な、賢明な諸兄にとっては、まるで役に立たない文章であります。
ここをご覧の皆様が食べたいものといえば何でしょう? 焼肉や寿司、とんかつ、あるいは唐揚げ。それから、何となく口に運んでしまっているものは何でしょう? ラーメンとかピザとか、ポテチ、ハンバーガーでしょうか。
いやいや、健康を気遣って野菜や果物を積極的に摂らねば、と感じている中高年の諸兄も多いかと思います。
どんなイメージを持たれているのかはわかりませんが、私は美食家でもなければ、食通でもありません。健康とか体力増進にもたいして興味はありません。食べたいものを選択するのが最優先でして、健康に良いかどうかは二の次になってしまってます。ただし食べたいものといっても、頭(脳)が食べたいものと、心が食べたいもの、それに体が食べたいものとに分けて考え、これらのバランスに気を配るうようにしています。
現代人が食べたいもの、何となく口に運んでしまっているものは、主に頭が欲しているものであります。TVやネットだけでなく、周囲から刺激を受け、満たされたくなるもの。頭が満足すればそれでよくなってしまうものです。
まぁ、現代では特に気を配らなくても周囲に溢れている類の食べ物であると思います。
さて、心が欲する食べ物とは何でしょう?
それは他人がどうであろうと己の内側が欲するものであり、心が満たされるもので、人によって様々。ソウルフードと呼ばれるものも心を満たす食べ物でしょう。きりたんぽ、甘食、いも煮、マトンやおたぐり、鯨肉、たこ焼き、棒ラーメン... ビッグマックがソウルフードだという人もお見えでしょう。
私の心が欲するものは、なぜか郷土食でも家庭の味でもない、アジアンフードだったりします。中でもインドカレーは好きでして、小麦やラード、塩分の多い日本のカレーではなく、何種類ものスパイスが効いた本場のカレー。もしかしたら、心のルーツは日本人ではないのかもしれません...
もうひとつ、体が欲する食べ物とは?
スーパーやコンビニで買い求める形の良い野菜やパック詰めのサラダでもなければ、効能を謳うサプリメントでもありません。詳しくは次回にしようと思います。
私はこれらの食べ物 ─頭・心・体のバランスが大事ではないかと思います。人によって1:1:1だったり、1:5:10であり、10:1:1でもあります。
それに、食べる物だけとは言わず、日常生活でもバランスは大事な気がします。頭だけ使うのではなく、心や体にも良いことを。
頭を使うことなく、心が満たされる音楽をじっくりと聴いたり、美しい景色を眺めたり、体を適度に動かして汗をかく。これがなかなか難しいのですけれど。
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