小さい二輪車ライフ、小さい旅

最終更新日: 2024/09/01

過去掲載した編集◇コラム42

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超ダウンサイジング (24/07/28)

 四輪車 トヨタオーリスに長いこと乗り続け、半年後に15年目の車検を控えておりました。来年に定年を迎えるまでは乗り続けるつもりでいたので車検を通すつもりでいましたけれど、重量税が増額しているのはもちろん、経年劣化が進み、補修など費用がかさみそうです。
 3年前から収入が下がり続け、もはや普通車に買い換える余裕はありません。ダウンサイジングし、軽自動車に乗り換えるのが順当なのでしょう。しかし、軽自動車といっても、さほど費用を抑えられるわけではなく、定年後の再雇用無しと宣告された身分には重い負担です。
 この際、四輪車は妻の1台(1,000cc)にして、大きな買い物や長距離の帰省にはその1台を充当することに。私は原付二種スクーターで通勤します。

 車齢15年を迎えるオーリスは、買い取り価格がゼロに近いかと予想していました。Dラでは下取り10万円だそうです。
廃車処分業者を訪れる前に、念のため車買い取り業者に査定してもらうことにしました。全国規模のチェーン店で20万円。地元の小規模店に査定してもらうと、予想外の30万円を提示され、売却を決めました。

 既に所有している原付二種のSWISHを通勤に使うつもりでしたが、勤務先の駐輪場は、治安が良くはない。高価なロードバイクの本体はもちろん、部品を盗難されたケースが幾例もあって、オートバイでも人気車は同じような被害があることでしょう。
 SWISHに人気があるとは思えませんが、イタズラなどの不安はあります。それにSWISHを通勤に使うことで消耗させるのは少々もったいない上に、通勤中にフラリとツーリングへ行きたくなってしまいそう...
 改めて考えた挙句、オーリスの売却金で新たにホンダ DIO110ベーシックを購入。バイクカバーとリアボックス、売却金の残りでさらにヘルメットやウエアなどもろもろを購入しました。任意保険が既にファミリーバイク特約を契約済みであり、増車しても費用が増えないことも決め手の一つでした。


 超スケールのダウンサイジング。
車両価格はオーリスの200万円超から、DIO110の20万円超へ。排気量は公称 1,800ccから、110ccへ。車両重量は公称 1,270kgから、96kg(!)へ。
 残念な気持ち、卑屈な気分はありません。過去と比べてもしかたない。むしろ爽快、でもありません。DIO110は足代わりの道具に過ぎない。華はありません。
淡々と通勤する日々。雨天では当然雨具を着込んで走り、突然の豪雨に雨具を着る間もなくずぶ濡れになることも経験済みです。

 高級品や贅沢品を所有したり身につけたりすると、持ち主がモノに合わせて働くことで、暮らしのレベルが上がると言われることがあります。確かにそうなのかもしれません。でも私の場合は違った。オーリスは高級車ではないし、普通車を所有することが上流かどうかはともかく、私自身がそんな器ではなかったということです。
 私自身の、小さな器に合わせ、高額な持ち物を減らしてなるべくシンプルに、身軽に生きていきたいと思います。

 545万円。これは、1994年の日本における所得の中央値だ。この数字は、2022年には423万円となった。にもかかわらず、社会保険料は年間42万円から、80万円に増えた。私たちは、この30年で実に貧しくなった。 トイアンナ著『弱者男性1500万人時代』(扶桑社新書)より

生きる目的 -人生を楽しめ?- (24/06/09)

 生きることが楽しい、という方もお見えでしょうけれど、おそらく多くの方々にとっては苦しみのほうが多い。苦しいとは言えないまでも辛い、不安、嫌だ、怖い、などネガティブな思いや感情に苛まれることがあるはずです。
 そんな状況を嘆くことなく楽しめ、と言われることがあります。望まない境遇であっても「置かれたところで咲きなさい」という言葉すらあります。ネガティブは避けるべきで、楽しまなければならないのでしょうか?

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 数年前のある日、勤務先で上役が同席する永年勤続記念の昼食会が開かれました。対象者は私を含めて数名。この食事中に、これまでの会社員生活で楽しかったことを話すよう言われ、私は、まだ若かったころに当時出張先で勤務時間外に先輩と羽目を外したときのことを話すと、その直後、上役から「不謹慎だ」と叱責されました。居合わせた他の対象者は全員、かつて仕事中に辛い思いをしたこと、その仕事が実を結んだこと、辛い思いは無駄ではなく、あれは楽しいことだったのだ、そう話して上役から評価されていました。

 辛いこと苦しいことは、その通り苦しい思いだったはず。なぜわざわざ楽しいと言い換えねばならないのか、私にはわかりませんでした。もし言い換えたのではなく、本当に楽しかったと感じているなら、私にはそのような倒錯した感情を持つことは不可能です。
 楽しいと言っていた人たちも、きっと取り繕っているのです。楽しむことが良いことで、苦しんでいるのはダメなことだから。しかし、取り繕う人たちも、頭と心とのギャップに苦しんでいるはずなのです。その証拠に、楽しんでなさそうな人たちを見つけて攻撃するからです。攻撃することで自らの不安を一時的に忘れるのでしょう。

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 取り繕った楽しさ、人工的な楽しさなど、結局のところ束の間の幻です。ネガティブな状況から早く抜け出したい、克服したいと願ったところで願いは叶わない。良い方策はないかとあらゆる情報を探るのですが、すべての情報が他人のケース。己の苦しみがキレイさっぱり解消することはありません。苦しみから逃れることはできないのです。
 楽しもう、楽しいことを見つけよう、と苦しみを避けていても、ただ先送りしているだけ。自分をごまかさずに苦しみと向き合うことが大事なのだと思います。苦しむことはダメなことじゃない。恥ずかしいことでもない。苦しみの先に何も得られなくとも反省する必要はない。苦しんでいるのは一人じゃない。あの人もこの人も苦しんでいる。口に出さないだけ、偽っているだけ。安心していいのです。


 ごくまれに、人生を楽しんでいる方々がいます。よく観察し考察するに、楽しいことで満たされているのではありません。むしろ間断なく努力するなど苦しいことのほうがよほど多い。この類いの人たちはストレス、とても克服できなさそうなストレスをもエネルギーに換えることができる、特異な人たちです。苦しむことすら楽しい。だから「人生を楽しめ」と、誰もができる、あるいはできているかのような発言をします。
 このような人たちは社会にとって必要です。災害に遭うなどの強いストレス下でも困難に積極的に立ち向かうことができるから。ただし、到底かなわないような、火事や洪水にも立ち向かうことができる一方、命を落とす危険を伴います。生物の生存戦略としては全員でストレスに立ち向かうのではなく、ストレスを回避する人々も必要だと思います。

 それでもずっと苦しみに耐えられるほど私たちは強くはありません。なので、人工的な楽しさに委ねることもきっと必要なのでしょう。それが幻であったとしても。
 また、偶然に、苦しみが途切れたり、楽しく感じる状況がもたらされることがあります。「自分の力で克服した」と思い込むことがあるかもしれません。けれどまた苦しみはやってきます。
人生、甘くはありません。

 つまり、人生には救いがないということです。その救いのない人生を、救いを求めて生きるのが人の一生です。
 ために宗教や文学があるのですが、世にはインチキ宗教やインチキ文学が多いのは、日々の新聞記事を見ていたらよく分かることです。インチキの目的は、金もうけということです。だから甘い話に人はすぐに騙されるのです。 車谷長吉著『人生の救い』(朝日文庫)より

生きる目的 -人生と苦しみ- (24/04/07)

「何のために生きているのか、何のために生まれてきたのか」なんて、そんなことわかるわけないよ。世界中の哲学者が何千年もかけて考えても、まだ答えが出てないんだから。とりあえずは「生きるために生きてる」ってことでいいんじゃないか。もっともらしい理屈を探したって仕方ない。 毒蝮三太夫著『70歳からの人生相談』(文春新書)より

 「生きる目的」をタイトルに、コラムを書いたのが2010年。(コラム15 下方参照)当時答えは出ず “生き抜く” ために生きているということにいったん落ち着きました。
 振り返ってみると、あのときはそう考えるしかなかった気がします。他人の役に立ちたいのは己の欲であると言い切っていますけど、別の角度から自己分析してみると、目的無く日々過ごすのはカッコ悪いと思っていた節があります。目的を持つ人たちが眩しかった。うらやましかった。自分自身の目的をはっきりさせたかった。己の役割を定義することで世間に認められたいという承認欲求が渦巻いておりました。今から思えば若かった、いや幼稚だったというほかありません。

 あれから14年以上、己の役割は特に無いまま、承認欲求は満たされないまま。もし一時的に満たされたにせよ、承認されたことがそのまま有効なのか、この先も承認されるのかきっと不安が尽きず、もっと強い、永続的な承認を求め続けているのだろうと思います。それが私の弱さであり、逃れることのできない苦しみであります。

 10年度ほど前、ときどきランチに訪れていたローカルなカフェレスト。当時60代だったマスターがぼそりと話してくれたことが印象に残っていると以前触れました。
「人生ってやつは8割がた苦労だな。残りの2割は何だと思う? 幻なんだ。
それとなぁ、ご褒美がちょっとだけ。ほんの少しだけな。」


 この歳になって、だんだんわかってきました。私が生きる目的は、苦しむため、それも、思いもよらない苦しみを知るためです。想定できる苦痛ではありません。あらかじめ計画し、修行のごとく苦痛を求めたところで、それは苦痛のうちに入らない。
 約3年前に罹患した尿管結石も、思いもよらない苦しみの一つ。しかし想定外の苦痛とは、孤独とか疎外感、劣等感など対処法が容易ではない部類のものが多いのではないかと想像しています。

 苦しむために生きているだなんてあり得ない、救いが無い。苦しみはプロセス、あるいは副産物であり、目的や結果ではないというご意見もあることでしょう。苦しみの先に必ず得られるもの、目的があるはずだ、という人たちがいます。対価を待ち望んで苦しみに対処するというと、試練の先に成果があるかのようなサクセスストーリーに通じることもあって、受けが良いのかもしれません。苦しみを経て大きなものを得た人たちも少なくないのでしょう。
 しかし、成果を期待して苦しみに耐えたところで、望んでいた果実は得られない。苦しみの果てに何かを得られるという考えが甘い。ずいぶん違った形の何かが残り、不本意ながらそれを結果として受け入れざるを得ないことも少なくありません。

 仏教でも生きることは四苦八苦だという。四苦は生老病死。この根本的な四苦に、愛別離苦(人との別れ)、怨憎会苦(嫌いな人間と会う)、求不得苦(欲しいものが手に入らない)、五蘊盛苦(物事が思う通りにならない)の四苦をあわせて八苦である。 勢古浩爾著『自分がおじいさんになるということ』(草思社文庫)より

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