連載『日中・太平洋戦争と教育』 第17回 第3部 平和のために 2007年10月
第3部 平和のために(2)
学区に特攻隊の基地があった
神風特別攻撃隊「草薙隊」
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「草薙隊」の碑 |
今年5月の組合執行委員会で、南さんが、勤務校の学区で行われた神風特別攻撃隊の慰霊祭について報告しました。南さんが勤める豊田市立浄水小学校あたりの伊保原地区に、旧日本軍の飛行場があったことは知っていましたが、そこで特攻の訓練をした隊が出撃していったことを初めて知りました。わたしは、「特攻基地」というと鹿児島県の知覧など九州を頭に浮かべていたので、この話はショックでした。
南さんの報告によると、神風特別攻撃隊「草薙隊」の慰霊祭があったのは4月8日(日)です。場所は開豊神社で、ここに「草薙隊」の碑があります。会場には遺族の人たちと、たくさんの来賓が集まっていました。豊田市長、国会議員、市会議員、そして近辺の校長も5人参加していました。軍歌『同期の桜』が歌われ、国会議員は「総理が、堂々と靖国神社に参拝できるようにしたい」とあいさつしたといいます。南さんは、「慰霊祭に実際に参加して、『日本のために尊い命を無くした英雄』と称える一方で、特攻という非人間的な作戦を取った責任はあいまいにされ、安易に、特攻隊=命をかけて日本を守った=日本軍という図式に描かれていて怖くなった。」と感想を述べました。
昭和20年4月、沖縄の米軍に特攻攻撃し56名が犠牲
草薙隊の碑文には、次のように記されています。
神風特別攻撃隊 草薙隊之碑 |
また、愛知県総合教育センターホームページの「愛知の郷土史、偉人…」には、次のように書かれています。
「1940年(昭和15),愛知時計電機の試験飛行場として長さ1,000m の滑走路ができ、2年後、施設や滑走路を共有する形で名古屋海軍航空隊がこの飛行場に併設された。1944年(昭和19)9月、艦上爆撃機(急降下爆撃により爆弾で戦艦を攻撃する飛行機)の搭乗員養成を求められる。そして、艦上爆撃機の訓練のために滑走路の増設が行われ」「1945年(昭和20)4月、「神風特攻隊草薙(くさなぎ)隊」が編成され」、「沖縄のアメリカ軍戦艦と輸送船に対し、3度にわたり特攻を敢行し、62名が亡くなった」「1972年(昭和47)、愛知少年院の南に神風特別攻撃隊草薙隊の碑が建てられた」 |
旧式化した爆撃機で出撃
草薙隊の若者たちが乗った九九式艦上爆撃機は、略して九九式艦爆と呼ばれました。愛知時計電機が開発した二人乗り爆撃機で、その試験飛行場として作られたのが伊保原飛行場でした。そうした経緯で、九九式艦爆の特攻隊が伊保原で編成されたのでしょう。九九式艦爆については、フリー百科事典『ウィキペディア』に、次のように書かれています。
![]() 「最も多く連合国軍艦船を沈めた航空機」とも呼ばれた。そう呼称されるようになった根拠は、実は判然としないのだが、ゼロ戦などと共に、太平洋戦争前期の日本海軍の快進撃を支えた機体であることは間違いない。…中略…機体も旧式化は歴然としており、…略…しまいには乗組員の間で「艦爆に乗ったら命はない」とすらささやかれ、「九九式『棺箱』」などという不名誉なあだ名まで付けられてしまったという。航空機の急速な進歩に乗り遅れた大戦末期の日本軍機には珍しくなかったこととはいえ、緒戦の栄光を考えれば、あまりに寂しい末路だった。 |
この記事を読んで思い出したのは、『知覧特別攻撃隊』という冊子の「おわりに」に、編者である村永薫さんが書いた次の文でした。
「完全ナル機体ニテ出撃致シタイ」(後藤光春)とはどういうことでしょう。特攻機のほとんどはおんぼろで二百五十キロの爆弾を積むと、やっと離陸できる始末だったとか、なかには木製でジュラルミン張りの機もあったり、ノモンハン事件(昭和14年)のとき使用した旧式のおんぼろもあったとか。 |
豊田市の南部からも特攻隊が出撃
豊田市には、もうひとつ、南部の岡崎市、安城市に近い桝塚西町、上郷町あたりに446haもの広大な航空隊基地がありました。岡崎海軍航空隊と称し、現豊田市立上郷中学校の東門は第二岡崎航空隊の門跡で、戦後、施設の一部は中学校の校舎として使用されたといいます。基地ができたのは昭和19年5月で、第一、第二岡崎海軍航空隊が置かれ、「全国各地より厳選された一万二千余名の若者が第一期生より第八期生まで入隊して六ヵ月の短縮予科錬過程を終了して内外地の実施部隊に配属されていった」といいます。
また、この基地でも特攻の訓練が行われて出撃していったことが、桝塚西町柳川瀬公園の「若桜の碑」に「名古屋岡崎分遣隊は、第三岡崎海軍航空隊と改編して優秀なる飛行機搭乗員を養成しのちに沖縄特別攻撃隊を編成して出陣していった」と刻まれています。
若桜之碑 建立之記![]() 昭和五年、早期英才教育を目的に海軍飛行予科錬制度が採用された。昭和十九年、従来の予科錬教育を改革して航空機整備技術を修得させ、のちに飛行機操縦を習得させる新しい制度が実施されることになった。 同年五月、土浦海軍航空隊分遣隊として、安城、岡崎、豊田市が交差する地点に第一、第二岡崎海軍航空隊が新設され、全国各地より厳選された一万二千余名の若者が第一期生より第八期生まで入隊して六ヵ月の短縮予科錬過程を終了して内外地の実施部隊に配属されていった。 名古屋岡崎分遣隊は、第三岡崎海軍航空隊と改編して優秀なる飛行機搭乗員を養成しのちに沖縄特別攻撃隊を編成して出陣していった。 太平洋戦争末期岡崎海軍航空隊出身の予科錬、飛錬で尊い生命を散華した数は意外に多い。その閃光にも似た十四歳より十九歳に満たんとした青春を悼んで此処に碑を建て桜を植樹永くその意を伝えるものである。 昭和四十九年十一月三日 岡空若桜会 |
岡崎海軍航空隊(おかざきかいぐんこうくうたい)
<所在地>若桜の碑(豊田市桝塚西町柳川瀬公園)(愛知環状鉄道 北野桝塚駅下車 徒歩15分)
<概要>
岡崎海軍航空隊の基地は,豊田市の上郷中学校周辺を北辺とし,安城市尾崎町を南辺とした一帯にわたる総面積約446haの広大な地にあった。この基地には航空隊が3つあった。
中央東西一本の滑走路を中心に第一岡崎海軍航空隊が南に,第二岡崎海軍航空隊が上郷町を中心として北にあり,第三岡崎海軍航空隊が豊田市桝塚西町を中心とした位置にあったといわれている。
第一,第二岡崎海軍航空隊には,およそ12,000名が入隊している。6ヶ月間の訓練で,93式陸上中間練習機(通称赤トンボ)による飛行訓練・航空機整備を行い,各地の実施部隊へ配属されていった。第三岡崎海軍航空隊は,特別攻撃のための搭乗員の育成を行い,訓練の後,特別攻撃隊として沖縄へと飛び立っていった。
敗戦後は,アメリカ軍により施設や練習機は処分され,滑走路は,農地や工業用地になった。
この戦争で尊い生命を落としてしまった第三岡崎海軍航空隊の14歳〜19歳の若者たちを悼み,1974年(昭和49)「若桜の碑」が建てられた。
◆「豊田市戦時関係資料集」「豊田物語〜豊田市制50周年記念誌〜」
●草薙隊の名の由来(補足) 天皇家の“三種の神器”のひとつ、“草薙の剣”に由来すると思われます。神話ではスサノオノミコトが、ヤマタノオロチ退治のとき、大蛇から取り出したものでヤマトタケルノミコトが東征のおりに、窮地に追い込まれたとき、この剣で難を脱したと言います。熱田神宮の“御神体”になっています。 |