三河教労機関紙2006年度連載 『日中・太平洋戦争と教育』 第3回  2006年8月

7月末に、作家の吉村昭氏が亡くなりました。氏は、徹底した史実調査でリアリズムを追求し、骨太の文体で独自の作風を築いたといわれます。
 代表作に「戦艦武蔵」「陸奥爆沈」などがあるように、太平洋戦争の知られざる事実に迫った作家でした。
 吉村氏の自選作品集第3巻に、「背中の勲章」という作品が収められています。 この作品は、太平洋戦争で米軍の捕虜第2号になった中村末吉氏の体験を取材して書かれたものです。中村氏は、米軍の捕虜収容所をあちこちまわされ、アメリカ西部のウィスコンシン州マッコイの収容所で、次のような光景を目にしました。
吉村昭自選作品集第3巻「背中の勲章」P105より

秋が深まったある日、中村は、亡霊の群れをみたような戦慄を感じた。
それは、生きている人間と思えなかった。「海ゆかば水清く屍、山ゆかば草むす屍」という歌詞が自然と胸に湧いた。かれらの列からは死臭がそのまま流れ出ているように思えた。屍が、戦場から群れをなして移送されてきたようにも感じられた。
 人の数は、六十名ほどであった。かれらの足は骨も関節の形もそのままに浮き出
ていて、上体を支える機能を失っていた。
 かれらは、一人残らず担架に乗せられ建物に運ばれてきた。顔が驚くほど酷似していて、識別は不可能だった。頭蓋骨に黄色い皮膚がその表面をおおっているだけにすぎず、鼻も頬も顎も骨が突き出ている。深くくぼんだ眼窩には、うつろな眼が光っているだけだった。   ・・・略・・・
 「どこから来た」と、きくと、「ガダ−カナウ」と男が弱々しげに言った。中村には聞き覚えの無い地名だったが、ガダルカナルと言っているようにも聞こえた.男たちが、想像を絶した飢えと渇きに見舞われたことはあきらかだった。これほどまでに肉体の衰弱した経過が、中村には推測することできなかった。亡霊だ、戦場からやってきた亡霊なのだと、かれは胸の中でつぶやいた。かれらが、そのような骨と皮だけになってなおも生きつづけていることが不思議でならなかった。
 少量のオートミルがあたえられただけで、食事中の中村たちに切なそうな眼を向けてきたので、半身を起こし、その体を支え、フォークをにぎる力もないらしく、指を食物につき出してつまみ口に押しこんだ。「アリガト、アリガト」兵の口から声がもれ、なおも食物を口にはこんでいくそのすさまじい食欲に不気味さを感じた。

その夜半「顔をはげしく痙攣させて」明け方までに五人の者が死んだと書かれています。

 南太平洋の小さな島ガダルカナル島を巡り、日米両軍は争奪戦をくりひろげました。
 開戦から2年目の1942年8月から翌年の1月までの半年間です。

 1998年に製作されたアメリカ映画で「シン・レッド・ライン」という作品があります。最前線で「死に直面した」兵士の死への恐怖がそのまま伝わってくるリアルな映画です。その戦場はガダルカナル島です。空に飛んでいるのは米軍の飛行機だけです。空も海も米軍に支配されていました。

ジャングルの日本軍陣地に踏み込むと、なすすべもなく祈る者や、銃も持たずに逃げ

惑う兵士がたくさんいます。日本兵は飢えていたのです。吉村氏の「背中の勲章」に描かれた亡霊の群れは、その姿です。ガ島からの撤退を指揮した今村均大将は、その回顧録に次のように書いています。

五ヶ月以前、大本営直轄部隊として、ガ島に進められた第十七軍の百武中将以下3万の将兵中、敵兵火により斃れた者は約5千、餓死したものは約1万5千、約1万のみが、救出されたのだ。        (今村均『私記・一軍人六十年の哀歓』)

 そして今村大将は、責任を取って自決しようとした百武司令官に、次のように話して思いとどまらせたとのべています。 (同じく『私記』)

今度のガ島の敗戦は、戦いによったのではなく、飢餓の自滅だったのであります。この飢えはあなたが作ったものですか。そうではありますまい。日本人の横綱に、百日以上も食を与えず、草の根だけを口にさせ、毎日たらふく食っているかけだしの米人小角力に、土俵の外に押し出されるようにしたのは、全くわが軍部中央部の過誤によったものです。
 これは、補給と関連なしに、戦略戦術だけを研究し教育していた、陸軍多年の弊風が累をなし、すでに制空権を失いかけている時期に、祖国からこんなに離れた、敵地に近い小島に、3万からの第十七軍をつぎこむ過失を、中央は犯したものです。

 兵士は、海も空も米軍に支配されたまっただ中に、一週間分の食料を背負って上陸しました。補給は満足にできません。食料が尽きたら、現地で何とかせよというわけです。全島が密林に覆われ、住民が少ないこの島では、食料を得ることはきわめて難しかった。空腹に耐えかね、野生の植物を食べて下痢を起こしたり、有毒植物に当たる場合も多かった。栄養失調で体力が衰えているため、赤痢やマラリア、その他の風土病への抵抗力もなくなり、次々と斃れていったといいます。 (藤原彰『餓死した英霊たち』)
 
かろうじて生き残った青年将校は、次のように書いています。(小尾靖男『陣中日誌』)

1227日 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蝿がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界まできたらしい。生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変わったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が…

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