三河教労機関紙2006年度連載 『日中・太平洋戦争と教育』 第4回 2006年8月
「広島の日」の2日前の8月4日、広島地裁は“原爆症認定を求める集団訴訟”の原告41人全員の訴えを認める判決を出しました。5月の大阪地裁に続く勝利判決です。
しかし、厚生労働省は、「長崎の日」の2日後の8月11日に、「判決は科学的考察がなされていない」として、再び控訴しました。厚労省は、爆心地から2キロ以上の「遠距離」での被爆者には、原爆とガンなどの病気との因果関係を認めていないのです。これまでに「原爆症」と認定されたのは、被爆者手帳を持つ人のわずか0.76%です。
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「原爆症認定」を受けないと、被爆者がガンなどの病気にかかった場合、国の補償を受けることはできません。集団訴訟をしてから3年余。原告の10人がすでに亡くなっています。被爆者の平均年齢は74歳。「政府は被爆者が死に絶えるのを待っているのか!」との怒りの声が上がっています。
一方、小泉首相は、8月15日終戦記念日に靖国神社を参拝し、「特定の人ではなく、戦争で亡くなられた方の冥福を祈って」と、A級戦犯合祀の問題をはぐらかしました。また、アジアの国々に大きな惨禍をもたらしたことや、日本軍の多くの兵士を“飢え死に”の生き地獄に追いやったことなど、戦争の実態には何ら触れませんでした。
日本政府は、朝鮮半島から「働いて給料がもらえ、勉強も出来る」と騙して名古屋三菱に連れて来られた“朝鮮女子勤労挺身隊”訴訟、韓国などの“従軍慰安婦”訴訟などなど、戦争責任を問う裁判全てに、知らぬ顔を通しています。
それに対して、「日本国憲法」の基本姿勢は明確です。前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と、記しています。
2 飢え死にした英霊たち(2)ビルマ・フィリピン・中国でも
前回(第3回)は、ガダルカナル島に送り込まれた兵士3万の半数が、“餓え死に”したことを紹介しましたが、実は、“餓え死に”は、ガ島にだけ起きた特異な現象ではなく、繰り返し全ての戦場で起きました。
藤原彰氏の著、『餓死した英霊たち』(2001年青木書店)から概要と資料を紹介します。
東部ニューギニア 死者 13万5千人(うち餓死者90%以上) 生還者1万3千人
第18軍司令官安達中将の遺書(戦後、戦没将兵の後を追い自決)より『十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪い而して其大部は栄養失調に起因する戦病死なることに想到する時御上に対し奉りなんと御詫びの言葉もこれなく候』
インド・ビルマ 死者 18万5千人(うち餓死者78%) 生還者 11万8千人
村田平次著『インパール作戦―烈兵団コヒマの死闘』より『遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の屍があり、その数がだんだん増えてきた。…水をくれ、連れて行ってくれ、と泣き叫び、脚にしがみついて放れないのだ。よくもこんなにやせたものだと思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。息はついているが、さながら幽霊だった。…戦争は生きることの全貌を一変させるものだ。生きるためには、味方さえ殺しあうのだ。われわれも、恥もなく屍について雑嚢を探したのだが、食い物はなにひとつはいっていなかった。…その頃、誰言うことなく、この街道を“靖国街道”※と言った。』(※この退却の道は“白骨街道”とも言われた)
フィリピン 死者 約50万人(うち餓死者約80%) 生還者 11万5千人
「アジア太平洋の戦場で、最も多くの戦没者を出した地域はフィリピンである。大本営が、決戦場だとして、やみくもに大兵力を投入し、しかも決戦に敗北した後も何の策も講ずることなく、この大兵力が飢餓にさらされるのを放置した結末だったのである。」
厚生省引揚援護局『比島方面作戦経過の概要』より
『作戦全期間を通じ病餓死に依る損傷は戦死、戦傷死に依る損耗を上回った』
「フィリピン戦が、ガ島やニューギニアの場合と大きく異なっていたのは、戦場に多数の住民が生活していたことである。このため、住民を巻き込んだ戦闘が行われただけでなく、飢えた日本軍が住民の食料を奪い、さらにその生命まで奪うという大規模な住民虐殺が多発したことがこの戦場の特徴であった。」
中 国 死者 45万6千人(旧満州を除く、うち餓死者約50%)
「太平洋の孤島や南方の密林とは違って、人口稠密で物資の豊富な中国戦線では、餓死者などは生じなかったと思われやすい。しかし敗戦前2年間の中国戦線では病死者は戦死者を上回っており、その死因は栄養失調か、栄養失調と不可分の関係にあるマラリア、赤痢、脚気などだった。直接または間接に補給困難による飢餓と栄養失調が体力を消耗させ、多数の病死者を発生させたのである。」
長尾軍医中佐※の遺著『戦争と栄養』より ※50万の大軍による「大陸縦断作戦」に参加。
『以上のような戦争栄養失調症発生環境の悲劇を充分味わっていた軍医たちは、本病で死亡した兵の家族に思いを致すと、この病名を付けるのを忍びないと洩らしていた。なお食を求めんとして求め得ず、餓鬼道に陥って死亡した者も少なくない。某病院で数名の栄養失調患者が臥床していた所、食餌として与えられた一椀の粥を隣の患者より奪わんとし、仮眠中を利し絞殺しようと喉を絞めかけた所、相手に気付かれ、逆に反抗を受けて到って加害者が頓死した実例がある。』
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餓死者の遺骨の山(ベトナム) |
こうして、藤原氏は戦死した日本軍兵士230万人のうち半数以上の140万人が戦病死者で、そのほとんどが広い意味での餓死者とみています。
この章を終えるにあたり忘れてはいけないのは、日本軍の食糧収奪により、アジア諸国で多くの人々を死に追いやったことです。フィリピンでの大量住民虐殺、中国での“三光作戦(殺しつくし・焼きつくし・奪いつくす”)、ベトナムでは水田を強制的に麻畠に変えさせたために深刻な食糧不足を招き、200万人もの餓死者を出したと記録されています。