三河教労機関紙2006年度連載 『日中・太平洋戦争と教育』 第6回 2006年12月
先の第5回は、野間宏の小説『真空地帯』と、それを映画化した監督山本薩夫の体験から日本軍内部の暴力について書きました。 今回は、今話題の映画、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』とNHKスペシャル『硫黄島玉砕戦』を取り上げて、日本軍の実態を考えてみたいと思います。
外国映画とは思えなかった『硫黄島からの手紙』映画『硫黄島からの手紙』を観終えて涙しました。どうしてなのかは自分でも良く分からないのですが、自然に涙が流れました。すばらしい作品を観た感動でしょうか。「あれは日本映画だ」という前評判があると聞いていましたが、実によく日本軍を描いていたと思います。日本刀や銃を突きつけられた場面では、思わず体を固くしました。
また、憲兵が、日の丸を出していないのは非国民の家だとののしる場面では、東京都教委の「君が代処分」を連想させ、現在の日本の政情を反映しているとも感じました。
映画のその後 1 「玉砕」の美名のもとに、国家総動員態勢が強化される
映画『硫黄島からの手紙』は、栗林最高司令官が壕から出撃して亡くなったところで終わっていました。それは、米軍が上陸して約一ヶ月後の3月17日ごろのことです。
その4日後の3月21日に、大本営は、栗林中将の打電にあった「想像を超えたる物量の優勢を持って…」とか「徒手空拳を以てよく健闘」といった無念さをにじませる文言を削除し、代わりに「総攻撃」という勇ましい言葉を付け加えて、「17日夜半を期し、最高司令官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行すとの打電あり」と報じました。
映画にも描かれていたように、その頃は地下壕の連絡網は寸断され、軍の組織は一気に崩壊し、「総攻撃」ができるような状態ではありませんでした。
大本営は新聞やラジオを使い、「玉砕」「特攻魂」「一億死に徹すれば危局、活路あり」といった美しい言葉を並べて国民をだまし、国家総動員体制を強化しようとしました。
映画のその後 2 NHKスペシャル『硫黄島玉砕戦―生還者61年目の証言』
映画の公開に先立ち、去年の8月7日にNHKスペシャル『硫黄島玉砕戦』が放送されました。「生還者61年目の証言」と副題のついたこのドキュメントは、映画では描かれなかった、栗林中将が亡くなったあとも壕に潜んでいた兵士の姿を描いていました。
硫黄島に投入された日本兵は2万1千人。その多くは急遽招集された三、四十代の年輩者と16、7才の少年兵でした。日本では、栗林中将以下全員が最後の突撃をして「玉砕した」と報じられましたが、事実はそうではなく、そのあとも数千の兵士が、飲み水も食料もほとんどない飢餓の状態で、火山ガスが吹き出し地熱で40度以上にもなる地下壕のトンネルの中に、2ヶ月間、5月中旬まで潜んで闘いました。
畜生になった兵士たち 地下壕の中は生き地獄だった
NHKスペシャル『硫黄島玉砕戦』には、元日本兵5名が証言者として登場しました。
そのうちの一人、当時17才だった元通信兵の秋草氏は、「むせかえるような高温と腐敗する死体、泥やウジ虫を口にして過ごす日々。炭を食べていた。長くて20日くらいは飲まず食わずで、人間の耐久試験をしているかと思った」と述べていました。また、「残酷だったんですよね。日本人同士のね、間、同士が。本当に、家族の人には聞かせたくないという話もありますしね」とも語りました。
当時20才だった元戦闘機搭乗員の竹内氏は、南方諸島航空隊の壕の様子について、「日本兵同士の衝突が起きるようになった。壕の中には150名、半数は負傷兵で寝たきりに近かった。中には火炎放射器に焼かれ、顔がぱんぱんに腫れてうめいている人もいました。3人一組の小部隊を作って、竹槍と手榴弾ぐらいを持って出て行けと、帰ってくるなと。口減らしですわ」と語っていました。
降伏できない日本兵 “戦陣訓”の呪縛
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捕虜となり生き残ったのは1千名ほどです。その多くは、投降したのではなく、極度の栄養失調や酸欠で意識もうろうとした状態で助け出された人たちでした。
米軍は、壕に潜む日本兵に対して、まず拡声器を使って降伏を呼びかけました。しかし、日本兵は地下壕から出て来ず、隙を見ては狙撃してきます。そこで米軍は、発煙弾を使って燻りだしたり、壕の入り口を爆破して入り口を完全に塞いだりしました。そして、5月の半ばには、最後の手段として、壕に海水とガソリンを注入し火を付けました。
元米兵のジェラルド・クラッチ氏は「ある意味では勇敢さ、国への想いの強さに感心しました。しかし、あえて生き抜こうとしないのは、バカげていると思いました」と語っていました。
なぜ日本兵は、絶望的な状況に追い込まれても降伏しなかったのか。
「スペシャル」では、硫黄島守備隊戦闘心得として、「一人残されても闘い、捕虜となるな」「苦戦に砕けて死を急ぐな」という言葉が紹介されていましたし、映画では、同じ内容が栗林中将の言葉として強調されていました。
しかし、“捕虜となるな、死を選べ” という考えは、硫黄島守備隊だけのものではなく、日本軍全体に植え付けられた呪縛とも言えるものでした。このことが論じられるときに、よく1941年に東条陸相名で出された“戦陣訓”の「生きて虜囚の辱めを受けるな」が引き合いに出されますが、『飢死した英霊たち』の著者藤原彰氏は、「もともと日本軍にあった捕虜を潔しとしない考えの上に、きびしい罰則があったからで、処罰が強化されたのは39年のノモンハン事件から」としています。
当時17才だった大城氏は、「捕虜になったら、国賊と言われて戸籍謄本に赤×点で書かれるという教育を受けてきた」「1回、チョコレートとか携行食品を持って(投降した)兵隊が入ってきて、向こうの待遇はいいから出ろよと。いや出られない。結局その兵隊は、あれは国賊になるから可哀想だと、後ろから撃たれた」という話を語りました。
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