三河教労機関紙2006-7年度連載
『日中・太平洋戦争と教育』第7回 2007年7月
第4章 天皇の軍隊(1)
「教科書検定」と沖縄住民「集団自決」
本連載は、第7回から、第2部「天皇の軍隊を作った教育」に入っていますが、今回は再び第1部「天皇の軍隊」に戻り、沖縄戦の「住民集団自決」を取り上げます。
沖縄県全41市町村が「検定」の撤回を求める
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捕虜になった老兵と少年兵 |
3月30日に、来年度から使用される教科書の検定結果が、文部科学省から公表されました。その中で、日本史の高校教科書の沖縄戦における「住民集団自決」の記述について、「日本軍により集団自決に追い込まれた・強いられた」とする5社、7冊の記述は、「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現」として、削除・修正されていました。
この暴挙に、研究者の間からだけでなく、全国から批判が巻き起こりました。とりわけ、現地沖縄市民の反対は鋭く、その声を受けて、5月14日の豊見城市議会を皮切りに、6月28日までに、県内41市町村の総ての議会が「検定意見の撤回を求める意見書」を採択しました。沖縄戦終結記念日の前日である6月22日には、沖縄県議会も全会一致で採択し、その日に超党派の代表団が文部科学省などに撤回の要請をしました。
沖縄県議会の意見書は、「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしに起こりえなかったことは、紛れもない事実」であり、「筆舌につくしがたい犠牲を強いられた県民にとって、今回の修正等は到底容認できるものではない」としています。
わたしはこの稿を書くにあたり、沖縄県立平和祈念資料館で買い求めた『平和への証言』を手元に置いています。
沖縄に守備軍の主力部隊が移駐してきたのは、米軍の反攻が勢いを増して“本土”が危うくなりはじめた昭和19年の夏でした。それまで、沖縄には戦備らしいものは何一つありませんでした。そこで、国家総動員法を発動して、足腰の立つ者はすべて動員し、飛行場建設、陣地作り、食糧の供給、資材切り出しなど“全島要塞化”を急ぎました。
守備軍の兵力も不足していました。これを補うため、満17歳から45歳までの男子を部隊にくりいれました。実際には、割り当てられた頭数を揃えるために、13歳の少年や70歳近い老人まで狩り出されたといいます。その数約2万2千人。しかし、これでも足りず、中学校、女学校の生徒なども義勇軍や軍属として指揮下に入れました。鉄血勤王隊、学徒通信隊、『ひめゆり部隊』などの従軍学徒看護隊、救護班などがそうです。
沖縄守備隊は総兵力10万と言われましたが、その3分の1はこうした学徒隊を含む現地召集の補助兵力にすぎなかったのです。対する米軍は、沖縄の海を埋める艦船3千、地上戦闘部隊18万3千、補給部隊を合わせるとのべ54万の大部隊でした。
住民も捕虜になるのを許さなかった日本軍
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集団自決と見られる写真 |
守備隊は編成当時から「一木一草ト雖モ之ヲ戦力化スベシ」という「根こそぎ動員」の方針でした。しかし、戦闘が始まると、米軍の“鉄の暴
裁判の舞台である渡嘉敷村も座間味村も「意見書」を採択
文部科学省が、検定基準を変えた理由は「現在係争中である『大江・岩波沖縄戦裁判』と学説状況の変化」(沖縄タイムス)としています。
『大江・岩波裁判』とは、沖縄戦当時、渡嘉敷島、座間味島に配属された特攻艇の部隊長とその親族が、大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』を相手に、両島での集団死・「集団自決」について、そのような命令はしていないとして名誉毀損で訴えているものです。
渡嘉敷村議会も座間味村議会も、「検定意見の撤回を求める意見書」を採択しました。座間味村の意見書は、「係争中の裁判の一方の当事者の主張のみを取り上げ、体験者による数多くの証言や歴史的事実を否定しようとするもの」と批判しています。
背景に「新しい歴史教科書を作る会」などの流れが
歴史教育者協議会の石山久男氏は、今回の検定の背景には、「南京虐殺」や「従軍慰安婦」問題の教科書記述を攻撃してきた「新しい歴史教科書をつくる会」などが、今度は沖縄の「集団自決」における日本軍の責任を消し去ろうとして、2005年から「沖縄プロジェクト」を立ち上げ、現地調査や集会を行ってきたことを指摘しています。『裁判』の原告人も『教科書問題は、この裁判の大きな目標だったので、嬉しい。」と、政治的なねらいを述べています。
長野県松代の大本営壕―「皇室」安泰の“捨て石”にされた沖縄
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松代大本営跡の壕 |
沖縄戦と関連して思い出すのは、長野市近くの松代に掘られた巨大な防空壕の跡です。3つの山に掘られた全長10qの壕は、本土決戦の大本営にする予定で、その一つには天皇が住む“御座所”も設けました。工事は、昭和19年から朝鮮の人たちも使い、突貫工事ですすめられました。沖縄戦は、その時間稼ぎのための“捨て石”でした。戦況を少しでもよくしてから講和して「皇室」の安泰を保とうとし