07.8.14〜17 憧れの八幡平へ!
2400km みちのくひとりツーリングC

8月14日 8月15日 8月16日 8月17日



8月17日 (金)  雨時々曇り


いよいよ最終日の四日目がきた。

あとは観光しながらうちに帰るだけだ。



夕べは、今日の長距離移動のことを考えてなかなか寝付けなかった。

根性無しで情けない話だが
初日の大変さを思い出し、吐き気がしそうなくらいストレスを感じていたのだ。

今日も800kmほど走らなくてはならない。しかも半分くらいが下道。
初日の6割が高速道路の800kmに比べて3割増しくらいの大変さになりそうだなぁ。


それでもって、今朝は朝3時半に起床。
睡眠時間は4時間ちょっと。かなりねむい。


窓から外を見ると曇り空が見えたが雨は降っていないようだ。

4時半。
隣の部屋の宿泊客を起こさないように静か〜に静か〜にパッキングをし
そろりそろりと階段を降りて、だれもいないフロントにお礼を言ってホテルを出た。


外に出ると雲間から少しだけ青空がのぞいているが
一応カッパは着ていこう。


昨日の即席バイクカバーのおかげでメーター周りは濡れていない。
シートは濡れたみたいだけど、今はもう乾きかけている。
まあ、カッパを着ているから濡れててもいいけどね。



昨日降りた一関ICから高速道路に乗る。

なんとか天気は回復しそうかな。





と、思ったのもつかの間。

30分も走っていたらぽつりぽつりとシールドに雨粒が落ちてきた。


どばー!

あっという間にどしゃ降りに。
視界が悪くなるほどで、一気にペースが落ちる。
それでも車はバンバン追い抜いていくし水しぶきも飛んでくる。


追い抜いていったトラックにモロに水をかけられてびっくりした。
飛んでくるのが見えるけど体が固まってどうしようもない。
ずぶ濡れになったけど、こけなかっただけマシだった。



途中のPAに入ってちょっと休憩。
その間にも雨は降り続ける。



夕べよーこさんに、『明日はごみの日だから朝起こして』といわれていたので
嫌がらせのように5時半過ぎに電話をしてやった。ψ(`▽´)ψ ケッケッケ




しばらく待ってもちっともやみそうにないのでまた走る。


…と、その時、気がついた。



あああ!ちちち、地図がぁ!!



今回、ツーリングマップル中部版の範囲以外の土地に行くので
以前から持っていた日本全国地図を持っていくことにしていた。

ただ、本が分厚いので必要なところだけコピーして持っていたのだ。


そのコピー地図をタンクバッグに入れてあったのだが
この雨が中までしみてきて地図を侵食し始めてきたのだ!


コピーは水に弱いのか、濡れたところはどんどん見えにくくなってきている。

どうしたエプソンのつよインク!
水にも強いんじゃないのか!?


雨はやまないので、地図はじわじわとにじんでいく。

再度PAに入り、タンクバッグにもカバーをかけるも、時すでに遅し。
A4サイズの半分以上が濡れてしまった。


何枚かを重ねて入れておいたのですべてのページが濡れてしまった。
まるで道端に落ちている雨に濡れたエロ本のように
次のページを見るときはやぶかないように慎重にはがさないと見られない。
その慎重さは若かったあの時と同じだろうか(  ̄ - ̄)



東北自動車道を南へ走ること155km。

料金3100円を払って降りたのは福島飯坂IC。

ここから西へR13を走る。
いまだ雨がやまない山道を行く。。。


展望ゼロ




さて、最終日に一番行きたかったところは、ICから西へ約35kmほどのところにある米沢市。
米沢といえば、そう。米沢藩主、上杉家があったところ。


今や大河ドラマ『風林火山』でGacktが上杉謙信の役をやっていて
人気の名所となっているそうな(まあ、謙信の時代は越後なんだけど)。



今回僕が訪れた理由は謙信ではなくて上杉治憲のお墓と上杉神社を見たかったからだ。

上杉治憲』というよりも、『上杉鷹山』といったほうが一般的に知られている名前だろうか。


第9代米沢藩主にして、第10代上杉家当主。
九州の日向国高鍋藩の秋月家から上杉家に養子にもらわれてきたのが10歳。
その後、17歳で米沢藩主になり上杉家の財政難を立て直した名君で、
ジョン・F・ケネディ大統領にも尊敬されていたそうだ。

小説『上杉鷹山』を読んでからその人物像に感銘し
今もあるその御廟を見てみたいと思っていたのだが、こんなに早く実現するとは。

うれしい…





看板にもちゃんと上杉神社と書かれていて迷わない。



まずはその『上杉神社』に来た。


上杉神社のある一帯は、今は松が岬公園として整備されているが
そのむかし、ここは伊達政宗の祖父・伊達晴宗や直江兼続、
上杉景勝が居城とする米沢城だったそうだ。

公園の周りには当時をしのばせるお堀と土塁がめぐらされている。



平日で、しかも朝7時45分でおまけに雨。
観光客は誰もいないわな。



神社の参道前にバイクを横付けできた。

目の前にテレビで見覚えのある『毘』と『龍』ののぼりがはためいており
『おお!』とちょいと感激。

画像にもやがかかっているのは、カメラのレンズが雨に濡れているから。
実際はもう少し明るかったが、相変わらず雨は降る降る。


反対側はこんなふう
『参道の前に』じゃなくて、『参道の真ん中に』か?




雨避けにカッパも着たままヘルメットもかぶったまま、誰もいない境内を歩く。


上杉謙信の遺骸を安置した御堂の跡地があった。
その遺骸は甲冑を着せ甕に納め漆で密閉されたという。
今はその甕のなかでどうなっているんだろう。

 
御堂跡(右)と説明看板(左)…クリックで拡大



御堂跡のすぐ近くにありました。上杉鷹山公の銅像。



右手は何を指し示しているのだろう。

銅像のすぐ横には、名言が書かれた碑が。

なせば成る なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり



いい言葉です。


ついでにもうひとつの名言を。

してみせて 言って聞かせて させてみる

つらいことでもまずは自分でやって、そしてきちんと説明した後に相手にもやらせる。
それが治憲の改革の姿勢だった。
イマドキの政治家は、まずは他人にやらせてばかり。



さらにそのさきの鳥居をくぐっていくと本殿がある。



いまはここに祀られているのは上杉謙信公で、
鷹山公はさきほどバイクを止めた近くの松岬神社の御祭神となっている。



当然のことながら境内には謙信公の像も鎮座していた。
どどーんと偉そうだ。
しかし、当たり前だがGacktのイメージはない。





そしてこんなのも。



信玄、謙信、鷹山の顔ハメ。
上杉鷹山のは、商人か小僧さんのようだ。



松が岬公園案内図(クリックで拡大)



ちなみに、来年の大河ドラマは『直江兼続』のお話で
この人は上杉家二代当主・上杉景勝の近習なので
来年もこのあたりは観光客でにぎわい続けるだろう。




続いて、今度は上杉家御廟へ。

上杉神社からバイクで約10分。
通りに直角に交わるT字路の突き当たりに御廟の門はあった。





門脇の看板はなんだ?



なんと開門は午前9時からになっていではないか!
まだ30分もあるよ(T.T)
まったく下調べもせずに来た報いなのか。


しかたないので、バイクを止めて付近の写真を撮っていると
なぜか門が開いた。


『まだ時間前ですよね?』
『時々早く来られる方がいるので、こうして開けることもあるんです』
というのは、管理事務所の方。

ほほう、それはありがたい。つまり今日の一番乗りだな。

香華量とよばれる拝観料200円を払って中に入った。



はるか上空まで延びる樹齢400年を越す杉木立の間の道を進むと
汚れて年季の入った『毘』と『龍』ののぼりがあった。
それは近くで見ると結構でかい。





『ここは、国の史跡として指定されている「米沢藩主上杉家墓所」です。

面積約二haで、東西役109m、南北約181m。

現在の廟所の配列の中央正面の奥にあるのは、上杉家初代の謙信公の廟です。
二代景勝公が、慶長三年に会津若松に、さらに慶長六年の関ヶ原合戦後、
米沢に転封の際には、御遺骸も会津から米沢に遷され、米沢城本丸の南東隅に祠を建てて祀られました。

明治五年に謙信公と鷹山公を合祀する上杉神社が創建されてから
同九年十月に、御遺骸は当御廟山の現在地に遷されました。

元和九年(1623年)3月、二代景勝公(米沢藩主としては初代)が死去されたとき
当時謙信公御遺骸の避難所であったこの地で、火葬に附し、灰燼・冠服を葬り廟を建て、
位牌を納めて廟所としました。ご遺骨は紀州高野山清浄心院に納めてあります。

この後、八代宗房公までは、景勝公を中心に左右交互に廟を建て、
高野山に納骨しました。

十代治憲公(鷹山公)(九代藩主)は、親を火葬にするのは忍びないとして土葬とし、
以後、これに倣っています。』

(上杉家廟所 参拝のしおりより抜粋)



  


上の説明の通り、中央の少し奥まったところに謙信公の廟があり、
左に偶数代、右に奇数代の藩主の廟がずらりと並んでいる。

整然と並んだ姿は厳かでもあり、美しいとも感じた。

雨が降って建物の色が濃くなっているのもまたよろし。


写真では見にくいけど、九代の重定公までは入母屋造りだが
十代の鷹山公からは宝形造りになっている(屋根の形がまったく違う)。

参拝のしおりには『火葬の場合は入母屋造りで、土葬の場合は宝形造り』と書かれているけど、
管理事務所の方に聞いたところ、財政難なのに複雑な入母屋造りはもったいないという鷹山の考えで
簡単な宝形造りにしたのだという。
材質もケヤキからスギやヒノキに変えられているらしい。

こんなところにも鷹山の倹約の姿勢が現れているし
その後の藩主もそれにならって倹約の精神を受け継いでいるのがわかる。



質素な造りの鷹山(治憲)公の廟



さらにおもしろい話も聞いた。
米沢に移封されてからしばらくは30万石だったから四代藩主・綱憲公までは廟の間隔が広かったけど、
藩主が三代から四代に代わるこのとき、上杉家取り潰しの危機をなんとか免れることができたかわりに
所領を15万石に減らされてしまい、そのため、その後の藩主の廟間隔も半減(?)になってしまっているという。


また最後の藩主である上杉家14代・茂憲(もちのり)公は、
大政奉還後、沖縄県令としての善政に感謝され、先祖伝来の米沢のこの廟所に記念碑を建ててもらっている。

その記念碑は二代と四代の廟間が広かったところに置かれている。
ちょうどいいスキマがあったというところか。



上杉家廟所案内看板(クリックで拡大)



ついでにいうと、ここ米沢と僕の住む東海市は友好関係にある。
というのは、上杉治憲公が師として敬っていたのが東海市出身の細井平洲先生なのである。

その縁で、今でもお互いの街で催される上杉祭り(五月初旬)、平洲祭り(五月下旬)の際には
祭りに参加するため互いに団体さんが行き来しているそうだ。
地元の平洲祭りさえ行ったことないのでどんなお祭りなのか知らんが、来年はちょっと見に行ってみるかな。


最初に門を開けてくれた管理事務所のおじさんに『どこから来たの?』聞かれたとき
『愛知県の東海市からです』と言ったきっかけで、上のようないろいろな話が聞きやすくなったのかな。
考えてみれば、これも250年も前の鷹山公と平洲先生のおかげかもしれない。



急がなくてはならないので30分しかいなかったけど、なかなか充実した時間だった。
このツーリングのなかで地元の人と一番よくしゃべった時だったかな。
知らんことをたくさん教えていただいたが、もっと勉強せなあかんなと思ったよ。


でもなんだか元気をもらった気分だ。
この先の数百キロの道のりもなんとか行けるかな。

おじさんに『気をつけてね』という言葉をもらい
なごりおしくも上杉家廟所をあとにした。




晴れていれば会津磐梯山のほうへ行きたかったが
こうも雨が降っちゃぁ行く気もおこらん。

有料道路や磐梯山の北にある桧原湖もきれいだと聞いていたのになぁ。


たどる道をさっさとR121に切り替えて喜多方市へ向かう。


ところが喜多方市内に入ると晴れてきた。
オイオイ、裏磐梯に行けばよかったか?ついてない。


喜多方市の印象は『ラーメン屋が多いな』くらいでオシマイ。
せっかくだから食べればいいのに、とお思いの方もいらっしゃるでしょうが
過去、名古屋で食べた喜多方ラーメンがあまりにおいしくなかったのでパスした。

しかし、本場のラーメンはどうなのか!?
表通りにでかでかと営業しているお店もいいけど
どうせ入るなら裏通りでひっそりとやっていたラーメン屋なんかいいかもねー。
老舗って感じがして。

とかいって、もしかしたらそういう客相手にわざとそういう店構えにしてる、
なんて勘繰るのはひねくれてる証拠か?




喜多方市内で県道21などを走り、R252に乗り換えさらに愛知を目指す。


濡れた地図

細かい道を見たいのに、地図がこんなんじぁねぇ。道の番号が見えん…
このあとしばらくして全面沈没。。。




またも変な地名発見!(よい子は近づいて見ないようにね)



でも字が違うか。
矢印が上向きだともっとリアルだと思うんだが。




会津若松市の西にある柳津市というところで空腹を感じた。
このときちょうど雨もやんでいたし、道の駅もあったので立ち寄ることにした。

なんせ雨だとカッパを着たままお店に入れないし、第一、着たり脱いだりが面倒くさい。
だからここまでご飯にありつけないまま走り続けていた。

カッパを脱いで店内に入り、奥の食事コーナーでそばを注文。
博士そば』(900円くらいだったかな)というらしい。
またも“名物”とかいてあるが、本当かいな。


ごちそうさま(食べる前に撮り忘れた)

なにが“博士”なのかしらと道の駅のおばちゃんに聞いたが
なんの関係があるのかしらんが、近くに博士山という山があるからだそうだ。


このおばちゃんにも『どこからきたの』と聞かれる。
バイクに乗っているとこういうふうに気軽に声をかけてもらえるので楽しいね。

ちょっと自慢げに『岩手県から来て、これから愛知県まで帰るんです』というと
たいていびっくりする。ふふふ。
大変そうな顔をして『気をつけてね』と言ってくれるのがありがたい。
(見方によっては気の毒そうな顔にも見える)


食後に食べたのは『あわソフト』。
バニラソフトの上に粟粒が振りかけられている。
はい、ソフトコレクションに追加でーす。


運が開けただろうか

味はともかく、売ってるお店の女の子がこれまたかわいい子だったぁ♪
道の駅の建物の一角に5、6席くらいのオープンカウンターが作られていて
そのカウンターの中で洗い物をしたりコーヒーを作ったりしている。
壁で仕切られていない小さな喫茶店のようなところだった。
あの子が働いているお店ならしょっちゅうコーヒーを飲みに行くかもしれん。




腹も満たされたし、甘いものも食うたし、しっかり休憩できた。
さて再び走ろう…と、カッパをしまったらナントまた雨!

かー!まったくもう!


かばんから引っ張り出してまた着る。

わかった!もう高速まで着続けてやるー!!▼`ェ´▼ガルルル…




…すぐにやんだ (T.T)

暑い中、カッパを着てもくもくと走る。




R252は、いい道だった。

只見川と呼ばれる大きな川沿いに走る道で、信号はほとんどなくスムーズに走れる。

川は雨で水かさが増したのか、水量が多く激しく水しぶきを上げて流れている。


あるところでは川に霧が大発生していた。

どんどん濃くなって川面が見えないくらいになってくる!すごい!

 


少し進んだ先で、またも霧が発生していたので横道にはいって行き、川に近づいた。

 

風でこちらにむかって霧が流されてきた。
うおーっ、一面が真っ白になったぞー



はからずも楽しい現象に出会い、少し興奮しながらさらにすすむ。
なんにもないのでこんなことでも気分は高揚してしまうお手軽さ。



そのうち道は険しい山道になってきた。
そしてまたも雨。

すべりそうでちょっと怖い。
前を走るご夫婦?らしきライダーも慎重にのぼっている。



しばらくぐんぐん上る。

左にはすばらしい展望が見え隠れする。
曇っているのがくやしい。


途中、道路わきに何かの記念碑みたいなのがあった。

 

会越の窓 開く  六十里越峠開道記念碑』と書かれている。

会津と越後の間にある険しい山にこの道路を通したときの記念碑かな?

六十里越という名前が付けられるくらいだけど、実際、六十里って行ったら240kmだよ?
そんなに距離はないんじゃない?
それくらい遠いっていう気持ちの問題かな?

それくらい大変なところに道路を通したぞっていう苦労と喜びを記念して碑を作ったのかしらね。

たしかにこの道がなければもっと大回りして帰らなきゃならんかったので、ありがたいことです。



記念碑から見える景色

写っている湖は手前にあったダムによるダム湖。田子倉ダムというそうだ。

ちなみに、この田子倉ダムの上流にある『奥只見』というところが紅葉の名所だと知ったのは
ツーリングから帰ってきてから見た旅番組による。
地図にも紅葉マークがたくさん書いてあるや。


 

記念碑のすぐ先のスノーシェッドや長いトンネル。

トンネル内で福島県から新潟県に変わった。


バイクを止めてちょっとビビリながら写真を撮った。
トンネルって、いろいろイワク付きなところがおおいじゃん。。。






六十里越のトンネルをくぐったところは、今は“魚沼市”という名前になっているようだ。
持っていった2003年版の日本全国地図にはそんな名前はない。
つまり、市町村合併なんだねぇ。
でも魚沼市のほうが米の産地っぽくて、イコール新潟!って連想しやすいからいいのかな。




その魚沼市にあった“日本ベースボールセキュリティ専門学校”
校舎が派手!

いったい何する学校なの!?ってかちょっと怪しい…?





2時半。魚沼市を脱出。

淡々とただ走るだけになってきている。
というより、見るところ知らないもん。帰るだけで精一杯だろうと思って下調べゼロだし。


R252からR117にかわったころ十日町市に入った。
十日町市のすぐ北には、山古志村・長岡市・小千谷市・柏崎市など
大地震で有名になってしまった町が広がっている。


疲れたので近くの道の駅『クロス10十日町』で休憩。
(ツーレポも書き疲れてきた)



名前も変わっているが、道の駅っぽくないコンクリート製の建物で、
中はミニFMスタジオや体験教室や服屋なんかがあったよ。

ここに到着したときにも晴れていたのでカッパをしまったら
出るときまたも降り出した。

やはりカッパからは離れられないのね。しくしく…




クロス10十日町から、高速ICまではあと60kmくらい。
ようやく先が見えた気がした。

よーし、もうチョイ。がんばるぞ〜!


と、いいつつ、20km走ったところにあった道の駅『信越さかえ』でまたも休憩。
さきほどのクロス10より道の駅っぽくて、ついつい立ち寄ってしまう。



残りあと数個というおやきを1個買ったら
おばちゃん、30円まけてくれた。

180円だったので200円出したら『おまけ』といって50円お釣りをくれたよ。
残り物には福があるんだねぇ。うれしー^^


そのあと、駐車場の端っこにソフトクリーム屋を発見!
女の人や子供が並んでいる中に一緒に並ぶのは恥ずかしいけど…



地元栄村の搾りたて牛乳を使ったソフトだそうだ。
『甘さ控えめの牛乳本来のうまさです』
う〜ん、文章に誘われる。これは食わねばと、使命感を感じた。


−感想−
たしかに薄味のミルク味。
形もきれいでよろしいのだけど、なんかパンチが足りないなぁ。
コッテリ感がすくないと物足りないのかな。
クリームもホイップクリームっぽくてふわふわしてるんだけど
それも僕の気に入らなかった原因かな。

あっさりソフトが好きな人には好評かもね。



西から来たライダーと雨降りなどの状況の情報交換して再度出発。

栄村の隣は野沢温泉村。
大学生のとき、初めて来たスキー場が野沢温泉スキー場だったっけ。
その時は外湯にも入ったりしたっけ。なつかしいなぁ。

でも、今は懐かしがっているヒマさえもない。
ガンガン進め!イケイケ!ゴーホーム!
高速道路まであと20kmちょっとだ。


千曲川沿いの快走堤防道路を
ノロノロトラックのあとについて走る。
あー、うざったい。ディーゼルくさい。

追い抜いたる!



トラックの前にでるとなにも遮るものはない!
道路沿いのオレンジ色のコスモスが風に揺れていた。

開けた風景とコスモスがいい感じだったけど
このころデジカメの電池が無くなってきたので撮る写真も減ってきてた。



R117が千曲川から離れると
上信越自動車道の豊田飯山ICまであと少しだ。


午後4時50分。やっと高速突入。

インターを入ってチケット受け取った先の合流部にあったのは赤信号。
インターの中に信号があるなんて初めて見たよ。




長野、松本、塩尻を過ぎ、岡谷JCTで中央道に乗り移る。

もう考えることなんかなんにもなくなって
ひたすら愛知県を目指して走り続ける。
一刻もはやくうちについて、この重労働(?)から開放されたいだけだ。




“天使のはしご”っていうんだっけ?
雲間から差す光がきれい。
途中で寄ったPAを出るとき、女の人がカメラを空に向けていたのがちらりと見えたので
本線に出た後、走りながらだが撮ってみた。

『ぱとらっしゅ、僕はもう疲れたよ』

空から天使が降りてきて、うちまで連れてってくれんかな。
あんなイメージ。



最後の休憩地になった阿智PAではもうくたくたでベンチで寝てしまった。
ふと目を開けると空には夕日が見えた。

愛知の空はまだ遠い。




恵那山トンネルを抜けると夕暮れの空に三日月が浮かんでいた。

次第に混んでくる中央道。
この車の多さが帰ってきたなぁと実感させる。
そんな実感、いやだけどね。

豊田飯山ICから226km、4400円分の恵那ICで降りて、
真っ暗な県道66号走って家に着いたのが午後10時40分。

よーこさんに迎えられ、なんとか無事に2400km走り終えた。

 
出発時(左)と帰着時(右)

本日の走行距離:812km


疲れたけど最高に楽しかったぜぃ!

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