大樹寺の草創
(「大樹寺の歴史」=発行大樹寺 に次のように記されています)
成道山松安院大樹寺は、安城城主松平左京亮親忠法名大胤西忠が真蓮社勢誉愚底を開山として文明7年(1475)2月22日創建した浄土宗の寺院である。創建のいきさつを寺伝は次のように伝えている。
応仁元年(1467)8月23日、尾張品野、三河伊保の軍勢多数が井田野に攻め寄せた。親忠は5百余騎で伊賀村の東いらご縄手で迎え撃ち、一夜と半日の戦いでこれを撃破、細川、大沢まで追撃して潰走させた。このときの戦死者を葬った塚を首塚とも千人塚とも呼んだが、その後9年を経た文明7年になって、戦死者達の亡霊が騒ぎ出し、塚がしきりに鳴動してときの声がたえることなく、近辺に悪病が流行することになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建て、碧海郡宇祢部郷福林寺の住職勢譽愚底を招いて7日間の別時念仏を修し、その功力で亡霊を鎮めた。この念仏堂は後の鴨田西光寺で、その後親忠は菩提寺として大樹寺を建立し、勢譽を開山とした。
もつとも、この寺伝には異説が多い。大樹寺そのものが亡霊を鎮めるためのものと言い、あるいは鎌倉時代以来大寿寺と言う浄土宗の草庵があったという説もある。
大樹寺の境内を離れますが、大樹寺の草創と現在まで深いつながりを持っている西光寺と大衆塚、千人塚を紹介します。
西光寺
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大樹寺の南の約1kmばかり離れた向かいの台地にあります。
この地区の人たちは、大衆塚、それに町内会管理の700基ほどの墓地があることから日頃から親しんでいるお寺です。
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ここ西光寺は、家康が桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ際に、追手の織田方と戦って倒れた多くの僧(=大衆)を葬った大衆塚があります。ここには写真のような阿弥陀如来石像が置かれています。永禄3年とされていますので正に戦乱の時代に散った僧達の墓です。 | |
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こんもりとした木々の中に静かに座す立派な石像ですが背面は全てハツリ仕上げで、慌しく建てられたことを物語っています。 風雪に耐えたあどけないお顔が戦いの非情を訴えます。
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夏草やつわものどもの夢の跡
写真からは読み取れませんが、達筆で書かれています。 芭蕉とは直接関係のない場所ですが、寛保3年(芭蕉50回忌)芭蕉を偲ぶ岡崎の連中がここをふさわしい場所として選んだのでしょう。 市内八基ある芭蕉句碑の中最古のもだそうです。
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千人塚
これが千人塚です。西光寺よりおよそ100mくらい離れたところにあります。人家が密集して車では入れません。家康から五代前の松平親忠が、応仁の乱の三河版として、伊勢貞親の東軍に従って、拳母(ころも)城主中条氏率いる豊田市方面の土豪の軍と戦って勝利しましたが、多数の戦死者が出ました。その時の戦死者の首を集めて葬ったのがこの千人塚です。この頃から100年間、戦いを繰り返しながら、天下を統一した徳川家康の時代につながります。市の指定史跡になっていますが、年に一度大樹寺西光寺その他関係寺院と学区内の町内会役員や近所の住民で供養会を行います。何本も墓標が立っていますが、記念となる大きな法要の際に立てたものと思われます。
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